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〝時間がない……〟

 レンタカーのステアリングを握りしめる近田大介の手に、汗がにじむ。一人で運転を続け、すでに一日近くが過ぎている。車に持ち込んだ無線器にイヤホーンをつなぎ、警察無線を傍受していた。

 道警は包囲網を広げ、大介を囲い込もうとしている。空港や鉄道、港湾への監視は強化され、交通課を巻き込んだ検問が拡大されていた。交番の巡査のパトロールまで含めれば、もはやどこに罠が待ち受けているか知りようがない。地雷原を進むような緊張を強いられていた。だが、札幌を離れることも隠れることも許されない。

 幸子が刑事の尾行を振り切ったことは分かっていた。桑園駅近くで幸子を見失った刑事は浩一の車の捜索を指示したが、『成果なし』の報告が行き交っている。大介はずっと、幸子が浩一と札幌から逃げることを怖れていた。二人が合流したことが確かな今、その危険は高まっていた。

 だが、今はまだ市内に留まっている。

 幸子のバッグに仕込んだGPSは完璧に作動し、助手席のノートパソコンの画面に位置を映し出していた。郊外のモーテルらしい。二人はそこで夜を明かそうとしている。全てが、大介の予測を覆す方向に動いていた。先の展開が読めない。一刻も早く、二人の狙いを探らなければならない。GPSには小型の盗聴器も仕掛けてあった。その電波を捉えるには、二百メートル以内に接近する必要がある。あと十分車を走らせれば到達できる。

 幸子は警察に目をつけられている。今でも、刑事が密かに見張っている可能性はゼロとは言えない。近づきたくはない。一方で、浩一から暴力をふるわれる危険も低くない。娘を守るには、すぐ救出に向かえる位置で待機していなければならない。選択の余地はなかったのだ。

 幸い、大介には警察手帖がある。幸子に尾行がついていないことさえ確認できれば、モーテル側と折衝し、警官の職務として娘を見守ることができる。

 急ぐ理由は、もうひとつあった。助手席に乗せたブリーフケースだ。中には一万円札がぎっしりと詰まっている。魂を売った代償だ。現金が必要だったのだ。他の全てを失っても、たとえ他人の命を危険にさらしてでも、余生をひっそりと暮らしていけるだけの金を作る必要があった。大介が売れるものは情報しかない。むろん買い手は暴力組織だ。ロシアから持ち込まれる麻薬と銃器の取り締まり情報を漏らしたことは、ここ数日間に五回に及んだ。そのたびに手に入れた現金が、ブリーフケースにまとめられている。

 問題は、暴力団幹部が間一髪で取り締まりを逃れたことに疑問を感じた道警が、素早く内部調査を開始したことだった。大がかりな密輸ルート壊滅作戦も、詰めに失敗してザル同然の茶番になりつつある。万一、捜査の失態が外部に漏れれば、道警の威信は地に堕ちる。

 大介は、疑われることを承知していた。作戦の中核に位置して精度の高い捜査情報が集中している上、単独行動が珍しくないからだ。だから大介は取り引きを短期に集中し、不正が発覚する前に姿をくらまそうと目論んだ。だが、押収物から拳銃を奪いに戻った際には、すでに内部調査が始まっている気配があった。必死に引き止めようとする部下を振り切ってからは一度も署に戻らず、連絡も絶っている。

 そして今、道警の真の狙いにも気づいていた。

 幸子やその周辺の人物が尾行されていることは分かっていた。意識を失った幸子を病院へ運んだ時に、自分が尾行がされていることも確認した。道警の目的が大介を捕らえることであれば、もはや逃げるすべはない。事実、いったんは幸子とともに捕まることを覚悟した。だが、道警がそれ以上近づく気配はなかった。彼らの目的は、大介の行動を監視することだけだったのだ。

 それは、なぜか。

 大介と暴力組織の関わりを実証する証拠を得るためか。可能性はあるが、大介が知っている道警の考え方にはそぐわない。言い逃れの出来ない証拠を揃えて大介を告発すれば、道警の不祥事を自ら公にする危険を冒すことになる。それよりは、密かに、速やかに捕らえて内々に処分する方が組織の傷は小さく済む。

 だとすれば、警察組織の保身のために大介の犯罪を利用しようとしていることになる。そう考えた瞬間、道警の狙いが読めた。そして、自分が生き延びられるわずかな可能性が残されていることを知った。だから尾行を振り切って、計画を立て直そうとしたのだ。

 だが、幸子の前に姿を現す時は監視を覚悟しなければならない。尾行をまくことも、回を重ねるごとに困難になる。残されている時間は、少ない。

 深夜の国道5号線を小樽方面へ向かう大介は、無意識に口に出していた。

「時間がないんだ……」

 計画の成否がどうあれ、もはや刑事には戻れない。戻るつもりもない。ただ、進展が早すぎる。次に居所を知られれば逮捕されるに違いない。すぐに札幌から逃げなければならない。だが、自ら選んだ運命だ。失敗を受け入れる覚悟もできている。

 大介は対向車のライトから視線をそらして、コンソールの時計を見た。

「頼む、間に合ってくれ……」

 全人生を賭けた勝負に勝つチャンスは小さい。それでも、やり遂げなければならない。スピードを上げられないことがもどかしかった。交通課の目を引く行動は取れない。

 その時、耳に差し込んだイヤホーンに通信が入った。内容を聞き取った大介の表情が一段と厳しく変わる。一旦は参考人として保護された西城洋が、警官の隙をついて逃走したという。

 大介は洋を警戒していた。知能が高く、人当たりが良すぎるほどの好青年――。

 しかし彼の笑顔には、常に冷たさが宿っていた。大介は、大学出のエリート暴力団幹部の中に、一度だけ洋と同じ目をした男を見たことがあった。

 ロシア人ともアメリカ人とも巧みに商談を進めるその男を、大介は銃器密売の現場で取り押さえた。男は人の心を和ませる穏やかな笑みを浮かべながら、大介の腹をナイフでえぐった。大介は一ヵ月後に現場に復帰したが、自分のミスが心に深い傷を残している。

 幸子から洋を紹介された時に、その組員を思い出した。洋の目の陰りに気づいたのだ。だから二人の交際を歓迎することはできなかった。結果は、幸子の失恋となって現れた。

 洋は、なぜ再び幸子の前に現われたのか……三枝浩一の接近と時を同じくして……。

 最大の疑問だった。幸子の敵か味方かも分からない、不確定な要素――。ログハウスの窓を銃撃したのは、洋の反応を見極めたかったからなのだ。だが、そうまでしても洋の本性はつかめなかった。そして再び、洋は芝居の表舞台に登場しようとしている。この男抜きでは、もはや事態は進まない。その時、何が起こるのか……。

 大介は不気味な寒気を背中に感じた。

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