13

 目覚めた高橋美樹は混乱していた。

 暗闇――。

 まるで宇宙空間に漂っているようだ。それとも、深海に沈んでいるのか……。

 救いのない世界だった。周囲は寒く、手足も動かせない。意識がぼやけている。頭痛がするようでもあり、ひどい眠気に包まれたままのような気もする。空気が重く、体全体が押し潰されそうだ。呼吸も浅く、苦しい。自分がどこにいるのか、何をしているのか……思い浮かばない。夢なのか、現実なのか、定かではない。

 漠然とした危機感だけが、胸の中でくすぶっている。

「誰かいるの……?」

 声は出せたが、返事はない。人の気配もない。怯えはなかったが、こんな状態でいる理由が分からない。虚空を見つめ、つぶやく。

「どうしちゃったの……?」

 その声は、衰弱死を目前にした老婆のように弱々しかった。木の臭いがする。どこかで嗅いだような、なつかしさと新しさが入り交じった臭い。

「どこ……?」

 誰も聞いていない気がする。それでも口を開かずにいられない。錯乱した意識の中に、記憶のかけらが一つだけよみがえった。

「幸子よ……」

 目が覚めた直後の混沌をくぐり抜け、理性が蠢き始めた。脳の奥底に沈んでいた記憶が滲み出し、断片的に形を整えてくる。高熱でうなされているように意識は朦朧としていたが、これは現実だという実感がようやく訪れた。

「幸子の部屋へ行ったんだ……」

 二人で話を始めた情景が、影絵のような曖昧さから、確信へと形を定かにしていく。会話の内容も、次第に思い出されていった。だがその記憶は、建設途上の高速道路のように唐突に途切れた。

「あれから、何が……?」

 なぜか、幸子との罵り合いだけが頭に充満する。その後に何をしたのか、何をされたのかが思い浮かばない。奈落の淵――無気味な記憶の欠落が行く手を阻んでいた。不意に、後頭部が激しく痛む。美樹は思わず身体をよじらせたが、自由に動けない。

「痛い……。殴られたんだ……。誰に? 幸子に決まってる。二人しかいなかったんだから。でも、思い出せない……」

 美樹は記憶を掘り起こそうと焦った。頭痛が激しくなる。吐き気もする。手足にも痛みを感じた。縛られている。

「やだ……」

 思わず口から飛び出しそうになった叫びを、美樹は必死に呑み込んだ。堅く目をつぶり、ゆっくりと深い呼吸を繰り返す。意思の力で動揺をおし殺す。自然に〝呪文〟が口を突いて出た。

「恐くない、恐くない、恐くない……。そう思えば、恐怖は過ぎ去る。恐いと思うから恐くなる。大丈夫、絶対にうまくやれる……」

 身に馴染んだ儀式だ。

 ピアノの発表会で、主役として立った学芸会の舞台で、数限りなく繰り返してきた試験の会場で、美樹はその呪文を唱えてきた。親の過大な期待をかなえるために自らを鞭打ち、走り、窒息寸前の窮屈さに耐える。

 そして、歪められた自分の心から目を背ける――。

 そうすることでしか、美樹は存在できなかった。物心ついた時から競争を強いられ、争わない生き方などおとぎ話に等しい。環境は人を作る。美樹はいつのまにか自分を縛る規律を受け入れ、それに依存するようになった。規律を守ることがすなわち、生きる目的になった。自由を嫌い、軽蔑し、自分の人生から排除してきた。

 高校受験に失敗するまでは……。

 それでも美樹は、無意識の領域から襲いかかってくる怖れを組み伏せる術を学んでいる。

「恐くない、恐くない、恐くない……」

 意識はまだぼやけたままだが、呼吸が次第に落ち着いていく。暗闇の恐怖は、命を削って身につけてきた自己管理能力に屈伏した。

 パニックは去った。目を開く。まだ暗い。だが、今度は星が見えた。真上に、四角く切り取られたような小さな夜空が浮かんでいる。

「天窓だ……」

 美樹は改めて痛む頭をめぐらせ、周囲を見回した。『星が見える』という知識が、先入観を取り去り、視覚にも影響を与えたようだ。視界はふらふらと揺れている。だが真っ暗だと思っていた室内の様子が、ぼんやりと見分けられていく。

 それでも、次第に視点が定まっていく。天井が鋭く三角に傾いた部屋のようだ。かなり大型の建物の屋根裏らしい。ベッドがぽつんと置かれている。美樹は仰向けにされ、手足を大の字に広げられていた。手首足首にはきつく縄が巻かれ、ベッドの角に縛られている。身体には毛布がかぶせられていた。

「監禁されてるんだ……」

 美樹の中に正真正銘の恐怖がわき上がる。原始的な怖れとは別の、現実的な予測だ。監禁の目的は何か? 犯人が戻った時、何が起こるのか……? 理詰めの分析を始めてしまった美樹は、さらに忌わしい現実に突き当たった。

 手足は縛られている。なのに、猿ぐつわははめられていない……。叫んでも助けが来ない場所なのだ。物音を聞きつける隣人が存在しない。ここは周囲から隔離されている。

「うそ……」

 恐怖のレベルが、頭の中でかちりと音をたてて上昇した。一方で、澱のように淀んだ眠気は依然として消えない。そのまま目をつぶって全てを委ねてしまえば、新たな恐怖と対面せずに済んだかもしれない。だが美樹は、観察をやめられなかった。習慣が、困難から逃げることを許さなかった。

 ベッドのまわりには何も置かれていない。人の生活や温もりを感じさせるものは一切ない。むろん、食料もない。のどの奥に、激しい乾きがこびり付いていた。まるで、二日酔いの朝のような不快感。幸子と酒を飲み交わすはずはないのに……。

「薬を飲まされたんだ、きっと……」

 また、記憶が一つよみがえる。幸子は自分の父親にも睡眠薬を飲ませた。監禁が幸子の仕業なら、自分も飲まされていて当然だ。

「だから頭がはっきりしないのね……」

 意識までが縛り付けられたような不自由さの中で、必死に頭の内部を探る。それでも、幸子に襲いかかられた記憶は見つからない。

「頭が痛い……」

 目前の恐怖の方が重要でもある。犯人は食べる必要が生じる前に帰ってくるのか、一切食料を与えないつもりか……。人は飲まず食わずで、何日生きられるのだろう? 犯人が永久に戻って来なければ、美樹はベッドに縛られたまま干涸びる。腹を減らし、泣き叫び、それでも緩慢な死が訪れるまで苦痛に耐えなければならない。

 自分に襲いかかる未来を思い描き始めると、リアルな状況がつぎつぎと浮かんでくる。そしてついには、自分の排泄物にまみれながらもがく姿を想像する……。

 かちり――。

 美樹は自分が涙を流していることに気づいていなかった。恐怖に負けそうな自分を必死に励ます。

「恐くない、恐くない……。誰……私をこんなに恨むなんて……」

 幸子が犯人の一人であることは間違いない。襲われたのは、幸子と二人の時だったのだから。だがやはり、誰かに殴られたという確かな記憶がない。ひどく酔いつぶれた朝、自宅で目覚め、どうやって帰ったのか思い出せないように。

 建設途上の高速道路――。立ちすくむ先には、細切れの記憶が道路建築の材料のように散乱しているだけだ。

「思い出せない……」

 幸子だけの仕業だとも断定できない。ここがどこであれ、屋根裏に意識を失った人間を運び上げ、縛り上げるのは困難だ。幸子にそれほどの体力と精神力があるのか……?

「浩一……」

 二人が組んで、自分に牙を剥いたとしか考えられなかった。浩一と幸子。最も危険な組合せ……。

 と、不意に気づいた。

「そうじゃない。二人が一緒なら、かえって安全よ……」

 かちり――。

 恐怖のレベルが一気に低下する。犯人が浩一だけなら、命が危ない。相手の心を変えることが不可能だと悟ったストーカーは、愛の対象を破壊することもある。だが二人が協力しているなら、監禁の目的が変わる。幸子が、恋人のストーカー行為を助けるはずはない。

 計画的な犯罪である可能性が高い。たとえば身の代金目当ての誘拐――。それなら美樹の父親は金を払い、父親が雇ったヤクザが二人を葬る。

 かちり――。

 もうひとつの可能性が頭に浮かんだとたん、恐怖は再び拡大した。

〝幸子が私を殺させようとしたのかも……浩一を利用して……〟

 美樹は叫んだ。

「恐がるんじゃないわよ! 戦いなさい! 何があったのか、残らず思い出すのよ! 犯人を叩きつぶすのよ!」

 頬はとめどなく流れる涙でびしょぬれだった。

「誰か、助けて……」

 縛られてさえいなければ……。スマホさえあれば……。

「あ、スマホ――」

 不意に記憶の断片が閃光を放った。

「そうよ、スマホで助けを呼んだのよ……パパに、助けてって……」

 心臓の鼓動が急激に速度を遅くしていく。

「助けは必ず来る。落ち着いて考えるのよ。思い出すのよ!」

 美樹は意志の力を振り絞った。頭の痛みに耐え、睡眠薬の効果に抵抗し、記憶の建材を掘り起こす。無数の断片をよりあわせ、道路を延ばしていく。

 恐怖はすでに去っていた。

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