10

 大介のマンションの裏手には、アスファルトの屋外駐車場がある。街灯の明かりも届かない、薄暗い場所だ。そこに停めたフィットの脇に、二人の男が待っていた。幸子たちが近づくと、暗闇からにじみ出すように姿を現す。

 洋は幸子の前に出て、小声で言った。

「ヤバイ連中かも」

 幸子は足を止め、身を強ばらせる。

〝うそ……尾けられていたの?〟

 男たちが進み出て、痩せた男が甲高い早口で洋に命じる。

「お遊びは終わりだ。女をよこせ」

 洋は幸子を背中でかばいながら、ヤクザ風の男に応えた。

「高橋さんに雇われたのか? 美樹さんを探しているんだろう? 目的は同じだ。邪魔はしないでほしい」

 もう一人――妖怪の〝ぬりかべ〟を思わせる巨体が含み笑いをもらす。口調が落ち着いている。脅迫を職業にする者の物腰だ。

「一人前の口をきくんじゃねえ。女を置いて、帰れ。ガキの出番は終わった」

 幸子は洋の肩越しに二人を見ながら、目つきの狂暴さに怯えた。大介が相手にすべき人種だ。

〝父さん、助けて……〟

 だが、洋の声に動揺はない。

「幸子さんをどうする? 何も知らないぞ。それに、父親は刑事だ」

 男たちはくくくっと笑ったようだった。

「知ってる。この世知辛い世の中じゃ、三下ヤクザだって情報がなけりゃ生き残れねえ」

「それなら、手を出せないことは分かっているだろう?」

「手荒な真似はしねえ。高橋は娘を探してるが、あんな跳ね上がりがどうなろうと知ったことか。だが、近田の旦那は穴から引きずり出す。餌が必要なんだよ」

「穴……?」

 洋には、ヤクザたちの真意が見抜けないようだった。

 幸子にも、意味が分からない。だが、追われているのは大介のようだ。しかも、彼らは急いでいる。今にも飛び掛からんばかりの形相でにじり寄ってくる。

 洋も後には引かない。

 幸子の足はすくんでいた。

〝私は餌……? ヤクザが、父さんを探している……? なぜ?〟

 同時に、逃げる隙をうかがってもいた。左に数十メートル走れば、街灯で照らされた通りに出られる。

〝逃げなくちゃ。走るだけなら、私にだって……やるのよ……〟

 その瞬間だった。幸子の心を読んだかのように、洋が叫ぶ。

「幸子、走れ!」

 幸子は洋の陰から飛び出し、全力で明るい通りに向かった。震える足も、いったん走り出せば言うことを聞く。だが、耳は塞げない。

 ヤクザたちの舌打ち。洋の雄叫び。

 洋は幸子を追うヤクザを遮ったようだ。背後で、争う音が聞こえる。ヤクザたちが早口の罵声を洋に浴びせる。幸子はたまらずに足を止めて振り返った。

 ヤクザと対峙する洋の背中。その足元に、痩せた男がうずくまってうめいている。

 そしてぬりかべが、洋と同じような空手風の構えを見せて微笑んでいた。

「半端な武術はかえって危険だぞ。上には上がいるからよ」

 言葉が終わらないうちに、ヤクザの蹴りが洋をとらえる。巨体に似合わない素早さだ。脇腹を強打された洋は、その場で腰を折ってこらえる。すぐには反撃できる体勢に戻せない。

 ぬりかべはすかさず二発目の蹴りを叩き込んだ。

「死ぬか⁉」

 洋は二メートルほど後ろに飛ばされた。倒れたまま、動けない。

 壁は足が動かせなくなった幸子をにらみながら、倒れていた仲間を助け起こす。そして、洋を見下ろす。

「実戦にはルールも審判もねえんだ」

 起こされたヤクザが、苦しそうにうめく。

「兄貴……すんません……」

「ボケが。坊やを見ていろ。動いたら頭を蹴飛ばせ。俺は女だ」

 ぬりかべは再び幸子に目を戻した。暴力を楽しんでいる。

 幸子の頭は、蛇に見入られたように真っ白になった。

〝走れない……〟

 と、洋が素早く動いた。身体を丸めて溜めていた力で飛び出してぬりかべの足にしがみつく。かすれた声で叫ぶ。

「走れ!」

「この野郎!」

 二人のヤクザは、ぬりかべの片足を抱え込んで再び身体を丸めた洋を踏みつける。

「離しやがれ!」

「死ね、くそガキが!」

 洋が、立ちすくむ幸子に命じる。

「警察へ! 止まるな!」

 洋の声は弱々しかったが、幸子にははっきりと聞こえた。

 動きを封じられたぬりかべが、手下に怒鳴る。

「てめえは女だ!」

「へい!」

 手下は洋から離れ、幸子に向かって走り出した。

 洋がうめく。

「走れ……」

 幸子はようやく我に返った。

「はい」

 幸子は振り返って走った。駐車場から出れば、人通りがある。交番も近い。

〝走るのよ!〟

 できなかった。前方からも、二人の男が駆けてきたのだ。一人に見覚えがあった。浩一の部屋を見張っていたヤクザ――。おそらく、ラブホテルの出口を見張っていた男だ。

〝捕まる!〟

 幸子の前に素早く飛び出した中年の男は、幸子の肩をつかんだ。そして、言った。

「幸子さんですね⁉ もう大丈夫!」

 もう一人の若い男が、幸子を追ってきたヤクザの行く手を塞いで向かい合う。

 ヤクザは叫んだ。

「てめえ、邪魔するな!」

 次の瞬間、男に殴りかかったヤクザは、逆に植え込みの中に投げ飛ばされていた。ヤクザに背負い投げを決めた男は、駐車場の奥でもみ合う洋たちに向かって叫んだ。

「やめろ! 道警だ!」

 もみ合う二人の動きが止まった。洋の腕がゆるむ。

 ぬりかべの足が抜けた。壁は素早く状況を読み取り、マンションの陰へ走り去る。植え込みの手下も、殺虫剤をかけられたゴキブリがもがくようにして逃げた。新たに現われた二人は、ヤクザたちを追おうとはしなかった。幸子も男に支えられながら洋のもとへ歩み寄った。

 洋は刑事に助け起こされていた。口から血をしたたらせながら幸子を見る。

「よかった……無事で……」

「洋さん……こんなに怪我を……」

「かすり傷だ。骨は折れてない。僕の油断だ。この人たちは……?」

 幸子を助けた男がブルゾンの内ポケットから警察手帳を出した。

「道警本部の滝川といいます。そいつは部下の吉永」

 それ以上言葉を続けなかった。彼らがなぜこの場に居合わせたのか、説明はない。

 幸子は気づいた。

〝この人たち、私の名前を知っていた。なぜ? こんな暗がりで、どうして見分けられたの……? まさか……ホテルの時からずっと見張ってたの? なぜ浩一さんの部屋に? なぜ父さんのマンションにまで……? なぜヤクザと警察が、父さんを追っているの……⁉〟

 だが、幸子がラブホテルから追われていたのなら、大介とともに病院にいたことも分かっているはずだ。大介を捕らえるのが目的なら、事は簡単に済む。浩一の部屋を見張っていたのも警察であれば、多くの人員を割いている。それだけ大掛かりな体制で行動を監視していたなら、大介は〝泳がされて〟いることになる。

 吉永は洋を支えながら黒い革のジャケットからスマホを取り出す。

「吉永です。怪我人が出ました。車を回してください――」

 その間に滝川は、洋に質問していた。

「あの男たちは何者だね?」

 洋は蹴られた傷の痛みに顔をゆがめる。

「ヤクザでしょう。捕まえないんですか?」

「顔は見た。署に戻って手配する。だが、なぜ君たちを襲った?」

「友人が行方をくらまして……彼女の父親が行き先を調べるために雇ったんだと思います」

「あいつら、何を聞き出そうとした?」

「幸子さんのお父さんの行き先を教えろ、と……」

「やはりな。友人というのは高橋美樹さんだね?」

 洋は驚きを隠せないまま、滝川を見つめる。

「そこまで知っているってことは……そうか! あなた方も三枝を調べていたんだ。近田さんが手を打ったんですね!」

 洋の表情は一気に明るくなっていた。反面、滝川たちの目つきは厳しさを増す。洋の安堵感もたちまち消え去った。

 滝川は冷たく命じた。

「君たちには病院で診察を受けてもらうことになる」

 幸子は言った。

「怪我はしていません」

「聞きたいこともある」

「逮捕……?」

 滝川の視線が幸子に向かう。

「我々も近田大介を探している」

 警察は、本当に大介を見失ったらしい。大介は、当然、警察の監視体制を隅々まで知り尽くしている。その裏をかいて姿を消すことも、不可能ではない。

 洋も幸子を見つめる。

「君のお父さん、何をやっているんだ……?」

 それを知りたいのは、幸子の方だ。

〝父さん……どこへ行ったの? 何をしているの? 助けて……〟

 怯える一方で、幸子は確信していた。このまま拘束されれば、浩一と合流できない。携帯での連絡もとれない。二人で札幌を出るチャンスが消える。

〝逃げるしかない〟

 幼い頃から警察が身近だった幸子には、ヤクザから逃げるよりもたやすそうに思えた。

 無線器を使っていた吉永が言った。

「一分でパトカーが着きます」

 幸子は不意に身を翻し、走り出した。

 滝川が叫ぶ。

「幸子さん! 待って!」

 吉永は洋を支えていた手を離し、幸子を追おうとした。だが滝川は、吉永の腕をつかまえて制す。

「行かせろ」

「逃がしていいんですか⁉」

 滝川は自分のスマホを出して部下を呼び出しながら、つぶやいた。

「近田の居所を知っているなら、案内してくれる」

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