3
「美樹を知らないか⁉」
病室へ飛び込んできた洋が最初に発した言葉は、それだった。顔も、幾分か青ざめている。
処方された向精神薬の効果でぼんやりと窓の外を眺めていた幸子には、洋が慌てる理由が分からない。だがその真剣さは息づかいの荒さからも伝わった。
「洋さん……何かあったの?」
幸子の間延びした答えに、洋はわずかに冷静さを取り戻した。
「美樹さんが姿を消した。最後に会ったのが君らしい。どこに行ったか知らないか?」
幸子は首をかしげた。
「消したって……どういうこと?」
「連絡がつかない。携帯に出ないし、両親も行き先を知らない。マンションにもいないし、勤め先も無断で休んでいる。友達にも聞いてみたが、誰もここ数日会っていない。何か聞いていないか?」
幸子は言った。
「まず座ったら?」
洋は、動転していたことを恥じるように、うつむきながらベッドの脇の丸椅子に腰を下ろす。
「美樹は君のアパートにいたんだろう?」
「昨日の朝?」
「そう。僕は三枝の部屋を見張っていた」
「美樹ちゃんもそう言ってた」
「会ったんだね?」
「会ったわ」
「で、何があった?」
「何が、って……。気を失って、覚えていない……。思い出せないの。ただ、私の部屋に美樹ちゃんがいたことだけしか……」
洋の顔からさらに血が引く。
「覚えていないって……? まさか美樹に何かしたんじゃ……」
「そんなことはない。私が急に倒れたんで、美樹ちゃんが父さんに報せてくれたそうだから。心配なら、父さんに連絡してみれば?」
洋はかすかに安堵のため息をもらした。
「そうだったのか。君のお父さんが電話に出てくれなくて……。さっき君が入院したっていうメールは来たんだけど、詳しいことを聞きたくても返信がないんだ。なんだか君を疑うようなことを言っちゃったね。申し訳ない」
幸子は、大介が身を隠そうとしているのではないかと疑った。だが、洋には疑念を抱かせたくない。話をはぐらかすように微笑みかける。
「父さん、秘密の捜査に関わってるらしいから。でも、洋さんが慌てるなんて、意外ね。空手の達人のくせに。美樹ちゃんは大人だから。少しばかり連絡が取れないからって平気よ」
「それはそうなんだが……。あっちこっち調べても、誰も知らないものだから。こんな騒ぎの最中だしな……」
幸子は努めて冷静に応えた。
「私の次に怪しいのは浩一さん――ってこと? 浩一さんが美樹ちゃんに何かしたって疑っているの?」
洋は、本心を見透かされたように目を伏せた。
「それは……」
「私を疑うのは許してあげる。自分のことさえ覚えていないんだから。でも、浩一さんを疑うのはやめて」
洋は真剣な目で幸子を見つめた。
「でも、それがいちばん怖いんだ。三枝は危険だ」
幸子は不意に涙をにじませた。
「なぜ……? なぜ私たちをそっとしておいてくれないの?」
「君を守りたいから」
幸子はじっと洋を見つめた。
「守るって……あなたにとって大事なのは、私? 美樹ちゃん?」
洋はしばらく考えてから答えた。
「君に恋をしたことがあったことは認める。君の才能は輝いて見えた。美樹と会わなければ、別な今があったかもしれない。でも、現実は違う。美樹は三枝に怯え、僕に助けを求めた。僕と美樹を、この事件がまた結びつけた。美樹は君を救けたいとも願っている。傲慢には見えても、君を心配している。それだけは本当だ」
幸子は自分でも信じられないほど、はっきりと言葉に出した。
「余計な言葉はいらない。あなたにはどっちが大事なの? 私? 美樹?」
言ってから、幸子は気づいた。
〝私……何を知ろうとしているの? 私には浩一さんがいる。それで充分。友達も肉親も、ましてや昔の恋人なんかどうでもいい〟
洋はつぶやいた。
「僕は……」
幸子は言った。
「ごめんね、変なこと聞いて。お薬で、ちょっとおかしいの」
洋は幸子が病人であることをようやく思い出したようだった。
「謝るのは僕だ。病室にまで押しかけて……。君は大丈夫?」
「身体は平気。ただ、思い出せなくて……」
「辛いね」
と、洋は傍らの棚に目を止めた。ウールコートと学生時代に見慣れたサイドバッグがある。洋は席を立って、コートに手を触れた。
「このコート、着たまま運び込まれたのかい?」
「そうらしいわ。思い出せないんだけど……。なぜ?」
「美樹に会った時から脱いでないのかな、と思って。普通、話をするならコートぐらい脱ぐだろう?」
幸子も不安そうにうなずく。
「そうよね……慌てていたのかな……なんだか、自分がやっていることがちぐはぐな感じがして、恐い……」
洋は明るく言った。無理を隠せない。
「あまり気に病まない方がいい。君の言う通り、美樹さんは心配ないだろう。ゆっくり休んで、早く退院してくれ」
「ありがとう。でも、父さんには連絡してね。知っていることは教えてくれるはずよ」
洋はポケットから札入れを出して、名刺を一枚引き抜いた。
「僕の携帯の番号も書いておいた。何か気付いたら、電話して」
幸子は名刺を受け取った。札幌では名が知られた情報誌のもので、コピーライターの肩書きがついている。
「お仕事、大丈夫?」
洋は肩をすくめた。
「名刺は取材の都合で持たされているだけ。いつ首を切られても文句が言えない契約社員さ。一応有給もあるから、まとめて使ってる」
幸子は微笑んだ。
「無理しないで。何か分かったら電話する」
洋はうなずくと、病室を出ていった。
再び一人とり残された幸子は、突然強い不安に襲われた。
〝美樹ちゃんが消えた……? まさか、本当に浩一さんが……?〟
幸子は強まる不安を抱えたまま、午後六時すぎに退院を許された。
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