一時間後。精神科の医師――白髪の男は、ナースとともに病室に入った。

 前回の入院でも幸子を担当したナースは、幸子に微笑みかけた。

 医師は幸子のベッドの横に椅子を移して語りはじめる。

「災難ばかりで、大変だったね」

 幸子の頭では、気になり続ける疑問が渦を巻いている。

〝私……長崎先生の手に負えないほどの問題があるんだろうか……〟

「あの……長崎先生は?」

 医師は一瞬不愉快そうな表情を見せてから、答えた。

「君には申し訳ないことをした。彼女にはいい経験だと思って担当させたんだが……」

「一生懸命だったんですよ、先生」

「ぜひ君を診たいと熱心に言うので許可したが……。彼女は特殊な症例にばかり目を奪われている。君にもずいぶん負担になったと思う。で、今後は私が担当する」

「それは確かに……」

「人の心を扱うのは難しい。特に、君のような体験を克服するには――」

 幸子は医師をうながした。

「大事なお話なんでしょう? 本題を」

 幸子に、時間をつぶす気持ちのゆとりはない。医師は、伝えるべきことがあるから来たのだ。聞かなければ先へ進めない。内容が分からないまま怯えることには耐えられない。問題は、訪れたのが精神科の医師だという点だ。しかも、担当者を変えて……。幸子の心に問題がないなら、精神科は介入しない。流産後のカウンセリングだけなら、体調が万全になってからの通院で充分だろう。

 医師はゆっくりとうなずいた。事務的にすませてしまいたいと思っていることが、態度ににじみ出る。

「君の一生に関わることだ。お父さんには話したんだが、直接伝えてほしいと頼まれてね……」

 意外だった。大介が娘の危機から目を背けたように感じる。娘にとって困難な事態であればあるほど人任せにはしなかったのに。

〝なんで帰る前に話してくれなかったの……? そんなに言いづらいことって……やっぱり私、心が狂ったの……?〟

 幸子は唐突に、父親から見離されたような不安にとらわれた。

「父さん……」

 幸子の顔色をうかがっていた医師が、つぶやく。

「君……大丈夫?」

 幸子は我に返って、医師に目を戻した。

「あ、はい……」

「具合が悪ければ、後にしようか?」

 これ以上得体の知れない恐怖には耐えられない。

「とんでもない。教えてください。私、どこか悪いんですか?」

 医師はわずかにうなずいてから、淡々と言った。

「原因の一部は、前回の入院の原因となった暴行にある。君はあの時流産した――」

 幸子は医師の言葉を聞きながら、怯えをつのらせていく。

〝私……それでおかしくなったの……?〟

 医師は結論を下した。

「――その結果君は、今後の妊娠が期待できない身体になった」

 医師は言葉を切って、幸子がその意味を理解するのを待った。

 幸子はぼんやりと医師を見つめる。

〝それって……不妊症のこと? それだけ? 何度も意識を失ったことが問題じゃないの……? 心の異常じゃないの〟

 拍子抜けした気分だった。

 医師は、口元に笑みを浮かべた幸子を覗き込む。

「君……本当に大丈夫?」

 幸子の目に、光が戻る。

「あ、ごめんなさい。ぼんやりして……」

「私が言ったこと、分かったかね?」

「不妊症に?」

 医師がうなずく。

「一〇〇パーセント、というわけではない。だが、おそらくは……」

「で、悪いのはそれだけ?」

 今度は医師の方が狐につままれたような表情を見せる。

「それだけって……充分、つらいことだが?」

 幸子は素直に応えた。

「ごめんなさい、もっと悪いことを想像しちゃってて……」

「なんだね?」

「心の病気かなって……だって、精神科の先生が来るから……」

 医師は微笑んだ。

「なるほど。やはり長崎君を降ろしたのは正解だったね。彼女が何を言ったか詳しくは知らないが、真剣に考える必要はない。君は何もおかしくない。私は、婦人科の先生から頼まれて来たんだ。流産がきっかけで不妊になると、精神的に不安定になりやすい。で、精神科がケアに参加するシステムを取っている」

「安心しました」

 だが一方で、幸子は考えていた。

〝だけど、浩一さん、あんなに子供を欲しがってたのに……。悲しむだろうな……。でも、きっと分かってくれる。あんなに愛してくれているんだから。それに私、子供が好きじゃないし……。子供に振り回されなければ、浩一さんも夢を捨てる必要がなくなるし。二人で夢を持って暮らせば、きっと大丈夫。子供なんかできなくたって、私が幸せにしてあげる。愛し合っているんだから……〟

 しかし医師は、幸子の説明を聞いても浮かない顔をしている。

「本当にそうなら嬉しいが……」

 幸子はさらに医師を励ますように応える。

「いいんです。先生に責任があるわけじゃありませんから……」

「そう言ってもらえると、ありがたい。もっと落ち着いた時にゆっくり時間を取って説明したいが……」

「まだ何か聞くことがあるんですか?」

「前回の入院後の処置に問題があったわけではないという点を納得してもらいたくてね。君が必要だと判断するなら、説明の際には第三者を同伴してもらってもかまわない」

「第三者って……?」

「例えば、弁護士とか」

 幸子は医師の憂欝の正体を理解した。

〝そうか、病院が非難されると思って、こんなに低姿勢なんだ。『医療ミスだ』って訴える人もいるかもしれないものね〟

 幸子は言った。

「心配しないでください。万全を尽くしてくださったことは分かっています。弁護士なんて、とんでもない。感謝しているんです」

 医師はようやく、心からの笑みを見せた。

「本当に、悲しいことだが……」

 幸子は思った。

〝そうよね……普通なら、悲しむんでしょうね。でも、重荷から開放されたような気分。心が壊れていなかったことの方がうれしいから? 私って、普通じゃないの……?〟

 と、幸子の心に疑問がわいた。

「あの……それって、いつ分かったんですか?」

「不妊のこと、かね?」

「はい」

「君の胎児を処置した時だ。子宮に変形が発見されたと聞いた。先天的なものだ。着床はできても、胎児の成長が難しいらしい。これは担当医の私見だが、あの胎児も遅かれ早かれ流産する運命にあったという。今回はその上に、暴行による流産の傷が加わった。今後は着床すら困難だと考えられる」

「なぜこの前の入院の時に教えてくださらなかったんです?」

「流産したばかりの患者には刺激が強すぎるからね。この次に外来で診る時にでも話そうと思っていた」

 医師は腕時計に目を落とした。告げるべきことを告げた今、早く席を立ちたいのだ。

 幸子も一人になりたかった。

「分かりました。とにかく、いろいろありがとうございました」

 医師は椅子から腰を上げた。

「現在のところ、その他の異常はない。意識を失うことを心配しているようだが、今回のようなケースではまれではない。逆に、人格を正常に保とうとする本能だともいえる。同じ症状が何度も繰り返されれば精密検査も必要かもしれないが、今は心配はいらないだろう。昨日気を失ったのも、立ちくらみのようなものだ。一日ゆっくり休んだら、退院できるよ。何か不安や異常があったら、私を呼んでくれたまえ」

 幸子は笑顔で医師を送りだした。

 後に残ったナースが、幸子に言った。

「よかった、あまりショックが大きくなさそうで」

「赤ちゃんのこと?」

「そう」

「なんだか、いろんなことが起こりすぎて……感覚が麻痺しちゃったのかも。でも、正直言って、子供って好きになれないし……」

 ナースが小さく肩をすくめる。

「ここにいる間は、何も考えないで休んでね。血圧、計りますね」

 幸子はナースに尋ねた。

「あの……私、どうやってこの病院に連れてこられたの?」

 ナースは幸子の腕を取りながら言った。

「聞いてなかった? 意識がなかったんだものね。あなたのお父さんが抱えて、救急に飛び込んで来たんですって。退院したばかりだったから、すぐに入院ってことになってね。この部屋に逆戻りなんて、残念だけど」

「父さんは、それからずっと付き添ってくれたの?」

「しばらく様子を見て安心したら、仕事に戻ったらしいわ。刑事さんて、忙しいのね。でも、私が見かけたのが昨日の夕方で、夜の間は病室を離れていないみたいよ」

 大介は、意識が回復しない娘を置いて数時間外へ出たのだ。これまでの経験からは、そんなことをする父親だとは思えない。必ず、余程の理由がある。だがその理由は、刑事の仕事ではない。

 幸子は、そう直感した。

〝父さん……一体何をしているの? なぜ、監察に追われているの……?〟

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