第三章・失踪
1
幸子は、ゆっくりと目を覚ました。静かで暖かい感覚に身を委ね、ベッドに横たわったまま辺りを認識していく。
〝ここ……病院……?〟
体内時計が狂っていた。深夜の公園での暴行――命が危機にさらされた記憶が沸き上がる。その翌朝に舞い戻ったような気がした。
そんなはずはない。
空っぽの引き出しのように、記憶が頭から抜け落ちている。欠けていることは感じるのに、何が欠けているのか分からない――。
〝何があったんだろう……あれから……?〟
不安ではなかった。消えた記憶は、消したいものだったと感じる。
〝何もかも忘れたい……疲れた……〟
だが、苦痛を避け続けることは許されなかった。
〝赤ちゃん! 浩一さんの赤ちゃんが!〟
流産したことを思い出すと、それをきっかけに記憶の川が流れ出した。極北の大河の氷が溶けて奔流となるように、あらゆる記憶がひと固まりになって意識の中に噴き出す。絶望と希望が絡み合った過去が、圧倒的な重さで幸子の心にのしかかる――。
〝美樹、洋、父さん、浩一さん……〟
幸子を囲む人物が頭の中でぐるぐる回り、互いを非難しあっている。誰もが正しく、誰もが卑しい。欺瞞に満ちた罵り合い。その中心に、幸子がいる。脱出不能の渦に絡め取られ、奥底に引きずり込まれていく自分――。
幸子は、大海の渦に巻き込まれた小説の主人公を思い出した。
〝『白鯨』……それとも、ポーだったかな……?〟
主人公は、難破船から落ちた樽につかまって生還をはたす。幸子の樽は、浩一だ。ただひたすら信じる――自分を捨てて、浩一に全てを賭けることが唯一の希望だ。勝ち目の少ない博打だ。幸福になれる保証はない。他人を不幸にする恐れも高い。
幸子は胸にこみあげる吐き気をこらえながら思った。
〝でも、道はそれだけ……〟
白い天井を見つめる。曇りガラスの窓から明るい光が差し込んでいる。浩一に結婚を申し込まれた朝と、瓜二つの病室だ。清潔ではあるが、今時珍しいほど建物が古い。部屋は違うが、直観的に同じ病院だと分かった。
そして、気づいた。
ベッドの傍らに、大介がいた。丸椅子に座って、サイドテーブルに向かっている。振り返って言った。
「起きたか?」
幸子は首を傾けて大介を見た。
大介はサイドテーブルで、ごつい体格に似合わない器用さでリンゴの皮をむいていた。母のいない二人暮しで、料理の腕も鍛えられてきたのだ。
幸子は、これまでの大介の行動を思い返した。浩一への非難や暴力は忘れられない。なぜ監察に追われているのかも分からない。もはや、犯罪を憎む正義漢だという確信も消え去っている。
だが、腹立ちは起こらなかった。異様なほど穏やかな心の中に、感謝の念がわきあがる。
「父さん……ありがとう」
大介は手を止めて、幸子を見た。
「ん? 何だ?」
「私を育ててくれたこと……」
幸子は言ってから、その言葉の意味に思いあたった。
〝結婚式場のコマーシャルみたい……。私、父さんを捨てようとしているのね……〟
大介は苦笑いを浮かべてから、リンゴをむき続ける。皿の上で細かく割ると、芯を取ってから整然と並べた。そしてベッドの上に渡されたテーブルに置く。
幸子は不意に、幼稚園の頃にリンゴでウサギを作るようにせがんだことを思い出した。隣の子供の弁当には、ここにいるのが当然という風情でウサギが収まっていたのだ。大介が切ったのは、ウサギと呼ぶには太りすぎて不格好な代物だった。
大介は自分でリンゴをひとつ取ると、それを口に入れながら言った。
「親が子供を育てるのは当然だ。子供を愛さない親に出会うこともあるが、それは例外だ。血のつながりは、何よりも強い。子供が巣立つまでは……な」
幸子は思った。
〝父さん……手放してくれるの? 結婚を許してくれるの?〟
幸子の気持ちは固まっている。だが、父親の許しがあれば無謀な逃亡は避けられる。愛する男を一人、失わずにすむ。
「父さん……」
と、大介は腕時計に目を落とした。
「もう十時近くになる」
幸子は思わずうめいた。
「じゃあ、丸一日も……?」
大介がうなずく。
「意識を失っていた。このまま寝たきりかと心配した。だが、医者は、検査の結果は良好だから心配はないと言っていた」
「一晩中ついていてくれたの……?」
大介は照れ臭そうにうなずく。
「父親だからな。まだ様子を見ていてやりたいが、そうもしていられない。意識が戻れば一安心だ。埋め合わせに現場に出る」
たぶん、それは嘘だ。だがそれは、大介の問題だ。別れると決めた父親の問題だ。
「忙しいのね」
「ここ二、三日は特に、だ。暴れそうな組がある。ロシアからのヘロインと銃が苫小牧に着くとたれ込みが入った。顔を出さないわけにもいかん。機密だぞ」
幸子は自然にうなずいた。
「行ってらっしゃい」
二人で過ごした長い時間の中で、何度も繰り返してきた言葉だった。だが幸子は、自分が同じ一言を同じように自然に言えたことに喜びを感じていた。
もしもこれが父親との最後の会話なら、苦い思い出にはしたくない。
大介は席を立った。
「今は、休め。何も考えずに、眠れ。たぶん、夕方にはまた来られる」
だが幸子は、慌ただしく病室を去ろうとする大介の態度に不審を覚えた。一晩中ここにいたのなら、監察には発見されないという確信があるはずだ。幸子が目覚めたとたんに、逃げるように去る理由があるのだろうか?
そして、重要な記憶がよみがえる。
〝私、部屋で美樹に会ったはずよね……。なんで病院に? あの後、どうしたんだろう……思い出せない……。一日も意識を失っていたなんて……。父さん、なんでこんなに落ち着いているの? 何か隠しているの……?〟
幸子の声は不安に震え始めた。
「私……どうして気を失ったの? 美樹ちゃんと話していたんだけど……」
幸子を見つめた大介の目は真剣だった。
「考えるな。ゆっくり休んで、先生に任せろ」
命令するような大介の口調が、幸子の不安を高める。
「先生って……長崎先生?」
「名前は忘れた」
「元気のいい、女の先生」
「いや、私が話したのは中年の男だ」
「あら……担当が変わったのかな。でもよかった……長崎先生、脅かすようなことばかり言うから……」
大介の顔が曇る
「不愉快なことがあったのか?」
「そんなんじゃないけど……先生が張り切っているのは分かるし。だけど……私、本当にどうかしちゃったのかな……?」
「暴行された直後に奇妙な事件が続いたんだ。おまえには重荷すぎた。失神したり記憶を失うのは、現実を受け入れることを拒否している証拠だ。おまえ自身が無意識のうちに『休め』と言っている」
「先生もそんなことを言っていたっけ……記憶の抑圧、だとか」
「何を言われたのか知らんが、心を休めて落ち着いてから出直せばいい。父さんはいつでもおまえの味方だ。必ず守ってやる。安心して眠れ」
「でも……」
「なんだ?」
「私、美樹ちゃんに会った後のことだけが思い出せない……何かしたんじゃ……?」
「何か、とは?」
幸子はわずかに言い淀んだ。
「……かっとして暴力をふるったとか……」
心の中で膨らんでいく恐れだった。原因は思い出せなくとも、美樹への怒りは刻み込まれているのだ。記憶が消えた間に自分が何をしたのか、あるいはしなかったのか、何一つ確証が持てない。
大介は微笑んだ。
「おまえのような神経の細い女に、他人が傷つけられるか? 身体を調べてみろ。どこにも傷は残ってない。暴力をふるえば、必ず抵抗される。無傷ではすまない。だいたい、おまえが倒れたことを知らせてくれたのは美樹さんだ。部屋で話をしている途中に突然倒れた、ってな。で、私が駆けつけた」
「じゃあ、美樹ちゃんは?」
大介の目に不快感がにじむ。
「おまえの部屋に着いた時にはいなかった。それ以来、連絡もつかん。……あの娘がおまえに何をしたのかは知らんが、失神していたことと無関係だとは思えない。おまえを咎めるようなことを言ったのだろう。だから、思い出す必要はない。本当なら美樹さんは、おまえには近づけたくないが……責任を感じているなら、見舞いにぐらい来るだろう。それを止める気はない」
幸子は内心で胸を撫で下ろし、自分の心の奥を覗き見ようとする。
〝私、美樹ちゃんに手を上げたりはしていないのね……。でも、なんでそんな心配したんだろう。ほんと、変よね……〟
幸子は言いづらそうに尋ねた。
「入院、浩一さんは知ってる……?」
大介は観念したように答える。
「知らせた。『時間ができしだい来る』といっていた」
幸子の目から、不意に涙があふれた。
「ありがとう……」
「入院を知らせただけだ。結婚を認めるわけじゃない」
幸子にはその答えが、大介の虚勢のように聞こえた。
「ありがとう……」
大介は病室を出ようとし、ドアに手をかけて振り返った。
「先生が大切な話があると言っていた。昼頃に時間を取りたいそうだが、同席した方がいいか? 不安なら、都合をつけるが?」
「先生って……誰?」
「精神科の先生だ」
幸子の中に、一瞬、不安が芽生える。
〝また、精神科……。やっぱり、私……心の病気? 意識を失っている間に、人を傷つけているの? 分からない……思い出せない……。どうしちゃったんだろう……自分が分からないなんて……。いえ、そんなはずはない。美樹の身に何も起こっていないなら、心配することはない。自信を持つのよ!〟
幸子は首を横に振った。
「いいえ、大丈夫。もう、大人だから」
大介は寂しげにほほえんだ。
「父親には、それがいちばんつらい言葉だ」
そして大介は、病室を出た。
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