11

 幸子は、札幌を離れられなかった。自分の部屋に戻る必要があったのだ。逃亡には、まとまった金がいる。貯金は二百万円以上あるが、部屋に置いた通帳やカードがなければ引き出せない。紛失を恐れて、メインバンクのカードは持たないようにしていた。

 浩一とは、彼から渡された携帯電話で連絡を保つことにして、別れた。逃走に備えてプリペイド携帯を準備していたのだ。美樹が雇ったヤクザたち、そして幸子を追っているであろう大介を出し抜くには、二人一緒の行動は目立ちすぎる。

 幸子は少しでも多くの資金をかき集め、浩一は逃走先を絞り込んで手配する。合流するのは、新千歳空港から飛び立つ寸前――。

 それが彼らの計画だった。

 幸子は、アパートは誰かに監視されていると予測していた。物陰から、一時間近く二階の自分の部屋を見張った。取り壊されないのが不思議なほど、古びた木造建築。浩一の部屋と比べると、格段に質が落ちる。この冬は寒さが厳しく、引っ越しをしてから一か月の間に二度も水道管が凍りついた。幸子は不便だと知りながらその部屋を選んだ。父親とはもう暮らせない。だが、浩一が自分の全てを受け入れてくれるか、自信は持てない。どちらも選べない腑甲斐ない自分には、ふさわしい居場所に思えたのだ。

 その部屋から巣立つ時が訪れた。期待していたより、はるかに早く。幸子は、浩一の一部になったのだ。

 アパートの周囲に、不自然な人物は見あたらなかった。幸子は午前十時ちょうどに、部屋の鍵を開けた。遮光カーテンが引かれた窓からは、明かりは差し込まない。ただでさえ日当たりの悪い部屋は、なおさら暗かった。なのに――。

〝暖かい⁉〟

 奥から、疲れ果てたような声がする。

「やっぱり、帰ってきたんだ」

 幸子は、あわてて照明を点けた。美樹だった。六帖一間の畳の真ん中に、革のコートを着て座っていた。

 一瞬息を呑んだ幸子が、立ち尽くしたままつぶやく。

「なんでここに……?」

 美樹は立ち上がった。

「みんなで、あなたが立ち回りそうな先を見張ることにしたの。ここが私の担当。あなたのお父さんから合鍵を預かったのよ」

 幸子は言った。

「うそ……合鍵なんて、渡してない」

「刑事でしょう? 大家に借りられるわよ」

 幸子は判断の甘さを悔やんだ。敵は外で見張っていたのではない。中で待っていた。少し頭を働かせれば見抜ける展開だった。

「父さん、そこまで……」

 身内の問題に公権力を持ち込むことは、明らかな逸脱行為だ。幸子は、大介はルールに厳しい男だと信じてきた。監察に追われている事実といい、意外なことばかりだ。改めて父親を理解していなかったことを思い知らされた。

 美樹が続ける。

「洋は浩一の部屋だけど、戻らないわよね。会ったんでしょう?」

 幸子は苦い敗北感がこみあげてくるのを味わいながら、うめく。

「じゃあ、父さんは……」 

「警察よ。多角的な情報収集。睡眠薬を飲ませたらしいわね。浩一みたいな下らない男に手玉に取られて……」

 大介は、居所を知られれば監察に捕らえられるはずだ。おそらく、警察には戻ってはいない。

 いったんは意気消沈した幸子の目に気力が戻った。

「下らない男……?」

 美樹はあざけるように鼻を鳴らす。

「そうでしょう? 格好だけのろくでなし。嘘つき、低能、無能のマザコン。流産までさせられて、まだ分からないの?」

 浩一を非難されることで、幸子は逆に冷静さを取り戻していた。

〝みんな、嘘。あなたの歪んだ心が生んだ、妄想。正体はばれてる〟

「あなた……どうして私に付きまとうの?」

「説明したでしょう? 助けるため。殺されるかもしれないのよ」

「浩一を信じている。死んでもいい」

「投げやりなことを言わないで。真剣なんだから」

「私だって真剣よ。物を見る目も、考える頭も持ってる」

「あなたは心を狂わされている。浩一を近づけさせたのは私の責任。引き下がれない」

 幸子には、美樹に挑発的な笑いを返す余裕さえ生まれていた。

「本当にその通り。あなたは私のキューピッド。感謝しているわ」

「なによ、その言い草。心配しているのに。できることなら、幸せになってほしいのよ」

「なぜ?」

「変なこと聞かないで。親友だからよ」

「私を幸せにしたいなら、出ていって。ここに来たことを誰にも言わないで」

「できない」

 幸子は小さくうなずいた。

「でしょうね」

「なによ、その目。私を恨んでるの?」

「哀れんでいるだけ」

「なんですって⁉」

「今、言ったわよね。『引き下がれない』って」

「ええ……」

「何から引き下がれないの? 何を、誰と争っているの?」

「なにを妙なことを言ってるの? 挙げ足を取ってられるほど呑気な状況じゃないのよ」

「あなたこそ、なにを焦ってるの? 私なんか、都合のいい遊び相手なんでしょう? 暇つぶしの買物につき合わせたり、面白半分で恋人を奪ったり――」

「洋さんのこと……?」

「浩一さんも」

「あなた、洋さんのこと、まだ根に持っていたのね……」

「忘れたわ。でも、浩一さんは譲れない」

「だから、あなたのために――」

「いい加減にして! あなたは心が歪んでいる。洋さんのことでは、確かに傷ついた。でも、浩一さんが立直らせてくれた。私たち、支え合っていける! 放っておいて!」

 美樹の目にも、幸子を哀れむような光が浮かぶ。

「ホントにバカな子……」

 幸子は、美樹に怒りをぶつけた。

「バカはあなた。あなたは、浩一さんを奪われまいとして騒ぎを起こしている。まわりのみんなを巻き込んで、不幸にしている」

「私が浩一を⁉ ……あ、そんなでたらめを吹き込まれたの?」

「私は浩一さんを信じる」

「浩一は精神異常のストーカー、私が被害者」

「信じない」

「あなたのお父さんが調べた証拠も嘘だって言うの?」

「父さんは浩一さんを憎んでいる。あなたの妄想を利用して引き離そうとしているだけ」

「それこそ妄想よ! 浩一の思う壷よ!」

「怒鳴らなくても聞こえるわ。ね、あなたは躍起になって事実から目をそらせようとしている。執着心を捨てられないから、引き下がれないんでしょう? でも、無理。もう、私がいるから」

「幸子……どこまでバカなの……」

「それとも、浩一さんに復讐したいの? 自分の物にならないから、犯罪者に仕立て上げて破滅させたいの? そんなことにお金を注ぎ込み、みんなの善意に甘え、自分勝手に振る舞って……大学の時と同じ。わがままで、身勝手で、他人の気持ちなんかこれっぽっちも考えない……かわいそうな人」

「……怒るわよ」

「怒って出ていってくれるなら、うれしい」

「善意に甘えてきたのは、あんたじゃない。今だって、自分だけが正しいみたいな気になって。しかも、見当違いの思い込みで」

「あなたの生き方は否定しない。生れつきのお嬢様だもの。私のような、母親の温かみも知らないような人間とは違うんでしょう? でも、私は自分の力で生きたい。浩一さんに助けてもらって、父さんから離れる決心もつけた。やっと自分の足で歩きだすのよ。邪魔しないで。洋さんの時のように、邪魔はしないで!」

 美樹の答えは冷たかった。

「分かったわ。勝手にしなさい。二人でどこへでも逃げればいい」

 幸子は意外そうに、しかしすぐに笑顔になって身を乗り出す。

「いいのね?」

「不幸になるのはあなた」

「覚悟の上よ」

「でもね、これだけは言っておく。あなたとは、この先一生会えそうにないから。甘えていたのは、あなたの方よ」

「なんのこと?」

 美樹は幸子を蔑むような笑いを浮かべる。

「ただの昔話。でもあなたこそ、高校や大学の時と何も変わっていない。臆病で弱虫で、他人の善意に甘えるばかり。片親だから、神経が弱いから……いつもそんな言い訳を並べて、目の前の困難から逃げていた。私や真奈美は、そんなあなたをいつも励ましてきた。なのに殻に引きこもり、自分の弱さと戦おうともしないで、足手まといにばかりなっていた。ちょっと文章が書けるからっていい気になって、挙げ句の果てには作家気取り。数学なんか勉強しようともしなかった。私たちが力を貸さなかったら、高校だって出られたかどうか。なのに、そんな恩知らずな言い草があって?」

 幸子も不敵に笑い返した。

「初めてね、こんなに実りのある話をしたの。あなたはそうやって私に恩を売りつけてきた。でも、それは私を心配しての事じゃない。自分が優越感に浸るため。自分がいい子だってことを演出し、証明したかったから。だから、いつもぼんやりしていた私に目をつけたんでしょう? 『こんなうすのろな子を助けてあげられるなんて、なんて私は広くて美しい心を持っているのかしら』って」

 美樹は怒らなかった。意外にも、小さくうなずく。

「そうかもしれない……。でも、あなたは肝心なことを見落としている。いい子であることが、どれほど辛いか……。それだけは、絶対に分からない。親は私に期待する。勉強が出来て、気立てがよくて、誰からも愛される子になりなさい、ってね……。私は幼稚園に入る前から、そうやって重すぎる荷物を背負わされ、虚像に自分を合わせてきた。遊びたいのを我慢してピアノを習い、いけ好かない家庭教師にも愛想笑いを浮かべた。失敗は、高校受験。滑り止めの私立にしか入れなかったなんて、恥さらしもいいところよ。でも、親は私を非難しなかった。見捨てただけ。悲しかったわ……。でも、東京で一人暮らしを初めて、やっと本当の自分になれたと思っていたのに……またあんたに足を引っ張られるなんて……」

 幸子の目は真剣に美樹を見すえていた。

「だからなのね……」

「なにが?」

「だからあなた、洋さんを奪ったのね」

「え?」

「私はあなたと正反対。父さんは忙しくて私のことなんかかまわなかった。だから、弱いままの自分でいられた。数学は苦手でも、詩は書いていられた。嫌いなスポーツを無理強いされることもなかった。何も期待されてなかったから、自由だった。羨ましかったのね」

「知ったふうなことを言わないで! 私は、生まれてからずっと我慢してきたのよ! お母さんの言うとおりに、お父さんの期待通りに――。我慢して、我慢して、我慢して……そうやって自分を変えてきた。バカな自分、弱い自分、意地悪な自分を、みんな殺してきた。いつだって明るくにこやかに、みんなに好かれるように、両親の望む子供になれるように……頑張って、頑張って、頑張って……なのに、あんたは……」  

「そう、私は我慢なんてしなかった。だから、あなたは私を憎んだ。今でも憎んでいる。だから突然、私の前に現われたのよ。昔、私から洋さんを奪ったように、今度は浩一さんを奪おうとした……しかも、洋さんまで巻き添えにして……」

 美樹はじっと幸子を見つめた。

「分からない……あなた、どうしてそれほど浩一を信じられるの? あいつが犯罪者だっていう証拠が山ほどあるのに、なぜそこまでのめり込めるの?」

「簡単よ。浩一さんが本気で私に語りかけてくれるから。本当の言葉を話し、行動で証明してくれるから」 

 美樹は、苛立ちを見せながら言った。

「なによ、それ⁉」

 幸子は満足気にほほえんだ。

「浩一さん、子供を産めって言ってくれる」

 美樹の表情が凍りついた。

「そうか……そうなんだ……」

「なに? なによ、その顔……」

「あいつ……私にもそう言った……」

「うそ……嘘よ、そんなこと」

「嘘じゃない。あいつの目的は子供をつくることなんだ。別れるって言ってからしばらくして、泣きつかれたんだもの。俺の子供を産んでくれ……自分がこの世に生きた証を残してくれ……たとえホームレスで終わっても、グラミー賞を取れても、それを子供という形にして残したい……優しい母さんと三人で暮らすんだ、って……」

 幸子のこめかみに、激しい痛みがふくれ上がる。

 意識が真っ白に変わった。

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