5
幸子は動けなかった。洋たちが語ったことが理解できず、頭が働かない。ただぼんやりと、二人のやりとりを見つめるばかりだ。
銃声に首をすくめた洋は、一瞬遅れて中腰になり、壁に身を寄せた。そして、鋭い声で美樹に問う。
「あの音……銃か⁉ 電話は本当に三枝だね?」
美樹は泣きだしそうな顔でうなずいた。
「あの声は忘れない! いたずら電話でさんざん苦しめられたんだから!」
「なぜここが分かった……? 幸子さんを拉致したのも、身を隠すためだったのに……」
美樹が叫ぶ。
「知らないわよ! 銃を持ってるんでしょう⁉ 何とかしてよ!」
洋ははっと顔を上げた。
「まずい、銃だ! 美樹、離れろ!」
洋は不意にとび出した。出窓から差し込む光の中に立つ美樹を押し倒すように、その身体を抱きかかえる。美樹はパニックに陥った猫のように暴れ、洋の手から逃れた。丸太の壁に背中をつけて座り込んだ美樹は、洋を見上げて怒鳴る。
「なにするの⁉」
洋も素早く出窓から離れていた。
「外から丸見えだ。撃たれる」
美樹は息を呑んでからつぶやいた。
「殺そうとしたの……?」
その表情は猫よりも、一生を鎖で縛り付けられた犬に近い。どうもがいても逃げられない時、人は逃げたいという意欲すら奪われる。恐怖や怒りを越えた諦念が、美樹を麻痺させているように見えた。
「あいつから逃げられない……死ぬまで……ずっと……」
洋はしゃがみこんだまま硬直した美樹の肩を両手で包んで、わずかにゆさぶった。
「しっかりしろ。決着をつけるんだろう? 奴を止めたいんだろう? 君は僕が守る。約束したじゃないか」
美樹の目が、洋に止まる。そして、虚ろな目に光が甦る。洋にすがるように、かすかにうなずいた。
「助けて……お願い……」
幸子もまた、心の中でつぶやいていた。
〝助けて……〟
浩一を信じたい。だが、信念が揺らぐ。
〝浩一さんが人を殺すだなんて……。優しい浩一さんが……〟
それでも、すがれるのは浩一だけだ。信じなければならない。
〝でも、本当に浩一さんなの? 浩一さんがここに来ているなら……そうよ! 私を追いかけてきたんだ! 助けようとして!〟
それは唯一の、そして最大の希望だった。幸子はいつの間にか立ち上がっていた。トンネルの先の明かりに導かれるように、テーブルを回って出窓へと歩み寄っていく。
〝浩一さん……私はここ。助けて……美樹から助けて……〟
その姿はしかし、自分が死んだことを信じられずにいる亡霊のように頼りなげだ。
〝浩一さん……お願い……〟
そして幸子は、出窓の端に立った。
外には、いくぶん煤けた色の雪に包まれた冬枯れの森が広がる。ログハウスの前にはテニスコートほどの広さの駐車場があった。アスファルトで舗装された駐車場の雪はほとんど溶けている。そこに、三台の車が止まっていた。大型のワンボックス車、赤いスポーツカー、古ぼけたフィット――。
〝三台……?〟
洋と美樹の車で二台。残る一台は襲撃者の車だ。軽自動車はない。
〝おかしい……浩一さん、車は持っていないもの。浩一さんじゃないわよ……絶対に……〟
車のナンバーは判別できなかった。その車がレンタカーかもしれないという可能性さえ頭に浮かばない。ひたすら浩一の潔白を信じ込もうとするばかりだった。
その時、ワンボックスカーの背後から人影が現われた。くたびれたベージュのトレンチコートを着た、中背の男――。顔には、黒い毛糸の目出し帽をすっぽりとかぶっている。人相は分からない。だが、浩一より体格ががっちりしている。
〝違う!〟
幸子は振り返った。壁にもたれて座り込んだまま洋に介抱される美樹を見下ろす。幸子は勝ち誇ったように言った。
「外にいるのは浩一さんじゃない」
洋が振り返って幸子を見上げる。
「窓から離れて!」
幸子は微笑んでいた。
「大丈夫。撃たれたりしないから」
「なんだって?」
美樹が叫ぶ。
「浩一よ! 電話の声はあいつよ!」
洋は、激しく震える美樹を抱きしめる。
「落ち着くんだ!」
幸子は美樹を哀れむように吐き捨てた。
「かわいそうな人。自分のことしか考えないから、世界が歪んで見えるのよ。外にいるのは浩一さんじゃない。浩一さんは、ストーカーじゃない。全部あなたがでっちあげた嘘!」
美樹は厳しい目で幸子を見返す。
「何にも知らないくせに! 浩一は、私を追い詰めようとしてあなたに近づいたのよ! 目的は私!」
幸子は鼻の先で笑った。
「浩一さんは私を愛してくれています。それが我慢できないだけでしょう? 私が浩一さんと付き合っているのが悔しくて、また横取りしようと企んでいるのね」
美樹はじっと幸子を見つめた。
「また……?」
幸子の視線が洋に向かう。
「そう、また」
美樹は鼻の先で笑った。
「バカな子……あんた、愛される価値があると自惚れているの?」
「浩一さんは愛してくれます」
美樹は苛立ちをあらわにして叫んだ。
「それは私を脅かす手段。あなたはいつだって、私の添え物。なにが悲しくて、まともな男があんたみたいなブスに言い寄るの? あなたなんか、女のうちに入らないのよ!」
洋がたしなめる。
「言いすぎだ。幸子さんも苦しんでいる」
「偉そうなことを言うからよ。頭だってサル並みなのに」
「美樹!」
幸子は冷静に二人を見つめる。予想外の写真を見せられた衝撃は、不思議なほど消え去っていた。
〝私は平気。何を言われても耐えられる。浩一さんが味方だから……。あの写真にだって、必ず理由があるはずよ。信じてる。何が起きても信じ抜く……〟
幸子はもう一度窓の外に目をやった。正体不明の男は、車の陰に隠れたようだ。目を凝らすと、車の傍らで何かが鈍く光った。
その瞬間だった。
再び銃声が起こり、ガラスの上部が砕け、全体にクモの巣のようなヒビが広がった。幸子が立った場所の隣の窓だ。幸子は、車から突きだした何かが火を噴いたのを見たような気がした。光ったのは銃だったのだ。幸子はぼんやりと立ちすくんだまま、首を動かすことさえできない。しかし口元には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
〝撃たれた……。良かった……あいつ、浩一さんじゃない。浩一さんなら、私に銃を向けるはずがないもの……〟
真っ先に銃声に反応したのは洋だった。素早く立ち上がると幸子の腕をつかみ、力任せに引っ張る。
「離れろ!」
洋は叫びながら、床に崩れた幸子の身体におおいかぶさった。だが、それ以上の銃撃はなかった。
美樹は、丸めた身体をさらに小さくして膝の間に顔を突っ込んでいた。呪文のような言葉を小声でつぶやきながら、震え続ける。
幸子は洋の体重で床に押しつけられたまま、出窓を見上げた。砕けたガラスの断面がきらきらと光っている。幸子の頭に浮かんだのは、場違いな一言だった。
〝きれい……〟
寒風が吹き込み、ガラスの破片がチリチリと音をたてて落ちた。幸子は再び自分の殻に閉じこもり、二人の観察を始めた。
美樹の声がようやく耳に届く。
「やっぱり……殺される……」
洋は倒れこんだ幸子から離れながら、きっぱりと言った。
「バカを言うな! 奴の勝手にはさせない! 君は僕が守る!」
美樹は膝から顔を上げた。茫然と洋を見つめる。その目に次第に感嘆と敬意の念がにじみ出た。
「西城君……」
洋は片ひざを突いた体勢のまま、室内をじっくりと見回した。
「侵入を防ぐのが先だ。武器は……」
美樹がいくぶん冷静さを取り戻す。
「家具だってろくにないのよ。武器なんか……」
「狩猟小屋だろう⁉ 銃は⁉」
「まだ使ってないんだってば。それに、撃てるの? なのにあいつは、銃で襲ってくる。私たちだけじゃ逃げられない……。誰かに助けてもらわなくちゃ……」
洋は、美樹を叱りつけるように叫ぶ。
「隠れられる場所は⁉」
美樹は、震えの止まらない指で奥の壁のドアを指さす。
「地下に倉庫がある。でもドアはあそこだけで、行き止まり」
「他には?」
「天井裏の小部屋……」
「窓はあるか?」
「え?」
「天井裏に窓はあるのか⁉」
「ええ。天窓だけど……」
「最悪の場合、そこへ隠れる。でも、助けを求めるのが先だ――」
洋の目が出窓に止まった。美樹のギャラクシーが置かれたままになっている。
「警察を呼ぶ。幸子のお父さんに連絡をつければ、手配してくれる」
「連絡、って……」
美樹もギャラクシーに気づいた。だが出窓に近づかなければ、手が届かない。銃撃を受ける危険は高い。
洋は覚悟を決めたように言った。
「他に方法はない」
言いながら、洋は動いていた。姿勢を低くしたままで、ゆっくりと出窓ににじり寄る。襲撃者が窓から離れていれば、銃弾の角度は床に向かない。這っていれば頭を撃たれる恐れはなかった。しかし襲撃者がすでに室内を覗き込める位置に接近していれば、洋の命は危険にさらされる。手を吹き飛ばされるかもしれない。それでも洋はためらわなかった。
壁にぴったりと張りついた姿勢で出窓の下を這い進んだ洋は、いったん深呼吸すると、素早く手をのばした。呼吸を止めながら、出窓の上を手で探る。
幸子は、真剣な表情の洋をぼんやり見つめていた。と、玄関の物音に気づく。
〝なに、今の音⁉〟
ほんのかすかな、何かが擦れ合わされるような音。息を殺す緊張の中でなければ、五感の鋭い幸子にも聞こえなかったであろう、小さな気配だった。幸子はその音の意味を理解した。反射的に叫ぶ。
「ドアよ!」
洋ははっとドアに目を向ける。そして、素早く立ち上がると、一気にギャラクシーをつかんで四つん這いになった。銃声はない。
代わりに、玄関のドアが開かれた。凍りつくような強い風が室内に吹き込む。
襲撃者が叫んだ。
「動くな!」
洋は立ち上がる間もなく、四つん這いで硬直した。逆光の中、戸口に現われた襲撃者はトレンチコートをはためかせて仁王立ちしている。その手には、天井に向けられた拳銃――。
襲撃者は冷静な声で命じた。
「電話を捨てなさい」
洋はじっと男を見つめ、這ったままギャラクシーを握りしめた手を上げた。指を開く。床に落ちたギャラクシーが乾いた音をたてた。助けを求める手段は奪われた。
と、男は不意に銃を降ろした。穏やかな声で命じる。
「恐がらせて悪かった。銃には安全装置をかけた。撃ちはしない」
声の主に気づいた幸子がつぶやく。
「まさか……父さん?」
男はコートを開き、肩から吊ったホルスターに銃を納めてから、顔を覆った目出し帽を取った。
近田大介だった。
「すまないことをした。割ったガラスは、責任を持って修理する」
美樹が大介を見つめてうめく。
「なぜ? 電話は浩一だったのに……」
大介は振り返ってドアを閉め、美樹に歩み寄った。
その間、幸子も洋も状況が飲み込めずに、ぴくりとも動けない。
大介は美樹に手を差し伸べて立ち上がらせると、椅子を引き寄せた。促されるままに腰かけた美樹に、コートのポケットからICレコーダーを取り出して見せる。
「これだ」
再生スイッチを入れる。すぐに男の声が出た。
『もう一度、繰り返せ』
大介の声だ。静かだが、誰かに厳しく命令している。
浩一の声。
『え? なぜですか?』
『いいから繰り返すんだ』
『はい……じゃあ。幸子、俺はすぐそっちにいくから――』
『余計なことは言うな!「すぐそこに行く」だけだ!』
浩一は食ってかかるように応える。
『分かりましたよ! すぐそこにいく! これでいいんでしょう⁉ でも……何だってこんなことを⁉ まさか、俺の声で何かする気なんですか⁉ 幸子に聞かせるって言ったのは嘘か⁉ 騙したのか⁉』
大介はスイッチを切った。
洋がゆっくりと立ち上がって、つぶやく。
「録音か……なぜそんなことを? 仕事で来られなかったんじゃないんですか?」
大介が幸子に歩み寄り、傍らに屈む。高価な陶芸品を運ぶかのような慎重さで幸子の肩をつかみ、ゆっくりと立たせる。そのまま肩を抱いて、近くの椅子に腰かけさせた。
幸子は、大介が右の小指にテーピングをしていることに気づいた。
〝浩一さんを殴った時の怪我……〟
だが、父親に言葉をかけることはできなかった。頭が痺れて、働かない。ただ呆然と、テーブルを囲んだ者たちを眺めるばかりだ。
大介は、洋を見つめた。
「君も座りなさい。緊張する必要はない」
洋は首を回して身体の強ばりをほぐすと、美樹の隣に座った。幸子に向かい合う。
洋は大介をにらんだ。
「説明してもらえるんでしょうね?」
大介も幸子の横に座り、うなずく。
「君たちが、幸子を三枝から引き離そうとしていることは分かっていた。方法が犯罪的なこともやむを得ない。君たちから聞かされた話も、調べた限りでは嘘がない。しかし、君たちがこうまでして幸子を守ろうとする目的が納得できなかった」
洋は不満げに答える。
「幸子さんは友達です。それ以上の理由が必要ですか?」
「これがたとえば車を貸す、というような単純な善意なら問題はない。だが、仕事を投げ出してまで関わり合うのは行き過ぎだ。君は幸子を捨てた男だ。普通なら、顔も見せたくないだろう。その上、幸子を守れと命じたのが、君を奪った女性だとなると……刑事でなくとも、深読みする。君たちが幸子の味方かどうか、確信が持てなかった。で、調べることにした」
洋は首をかしげる。
「調べる……?」
「警察官の倫理にもとることは分かっているが……知り合いの探偵に最新の機材を一式調達させた。盗聴器と追跡用の小型GPSだ。ノートパソコンと連動して、車に乗っていても対象の位置を特定できる。銃は、組からの押収品だ」
洋はうめいた。
「押収品だなんて……懲戒免職ものでしょう?」
大介は自嘲気味につぶやいた。
「道はとっくに踏み外している」
洋にはその意味が分からない。
「はい?」
「こっちのことだ。だが、娘のためなら危険も冒す。その上で、美樹さんに荷物を預けた。バッグには発信機と盗聴器を仕掛けてある」
美樹がつぶやく。
「尾行したの……?」
大介はうなずいた。
「盗聴もした。君たちが幸子に近づいた真意を知りたかった。だから、三人だけだと信じ込ませ、自然な姿を確認したかった」
洋が問う。
「なぜ、銃撃なんか……?」
「人には、命が危険にさらされた時でなければ見せない本性がある。三枝が襲ってきたと思えば、君たちの真の姿が現れる」
洋は大介を見つめ、皮肉っぽく応えた。
「疑り深い人だな……」
「疑るのが仕事だ。娘の命がかかっている。手抜きはしない」
洋は投げやりに応酬する。
「で、結論は? こんな汚らしい芝居で脅かされたのに、疑われたままじゃバカらしい」
挑発されても、大介は動揺を見せない。
「だから姿を現した。隠れている理由がなくなった」
洋は小さく肩をすくめた。大介の右手の包帯に目を留める。
「骨折だって聞いていたけど、テーピングだけでいいんですか?」
大介は笑い飛ばした。
「柔道を真剣にやっていれば、この程度の怪我には慣れる。駆け出しの頃、売り出し中のヤクザに刺されたことがある。重傷だったが、半月で復帰して仇をとった」
その時だった。幸子はかすかな、ほとんど聞き取れないような声をしぼり出した。幸子自身が、自分の声だとは信じられないようなしわがれた声――。
「ひどい……人間の考えることじゃない……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます