リビングのテーブルを挟んで立ったまま、美樹は目を伏せてつぶやいた。だがその口調は、幸子の記憶とは違った。傲慢ともいえる強い自信が消え失せている。

「ここね、パパが秋に建てたばかりの別荘なんだ。冬の狩猟の基地にって。でも結局は忙しくて使ってないから……。私、こっそり合鍵を作っておいたの。スキー場も近いし、遊ぶには便利だから。私が鍵を持ってることはパパも知らない――」

 どうでもいい説明が、言い逃れのように聞こえる。幸子が知っている美樹は、言い訳がましいことは言わない意地っ張りだった。何かがおかしい。縁を切ったはずの友達が急に集まるのも異常なら、彼らの行動も昔とは違う。

 ボタンを掛け違えたように、ちぐはぐだ。

 だが幸子の関心は、そこにはない。

〝浩一さんのところへ帰るのよ!〟

 きっぱりと言った。

「言いたいことは、早く言って」

 美樹は、目を上げずにうなずく。

「どこから話せばいいのか……」

 洋が、口を開こうとした美樹を止めた。

「ちょっと待って。顔を洗ってくる」

 美樹は、洋が頭からスープをかぶっていることに気づいたようだった。洗面所に向かった洋の背中を、無表情に見つめている。美樹は大げさなため息を漏らすと、重い椅子を引いて力なく腰掛けた。幸子も、テーブルを挟んで美樹の正面に座った。じっと美樹の様子を観察する。

 高校、大学とその美しさを増してきた美樹は、さらに化粧の技術に磨きをかけていた。自分を飾ることに金を惜しまなかった成果だ。韓国で整形したという噂も聞いたことがある。『最大の欠点だ』と言っていた上向きの鼻とその下の大きなほくろも、男心をそそるチャームポイントに変えている。だが、その下地となる肌は、不健康でやつれて見えた。

 美樹は押し黙ったまま、幸子から目をそらしていた。息苦しい沈黙が続く。幸子は美樹の戸惑ったような態度から、不意に現われた真意を読み取ろうとした。

〝あの時と同じ。私から大切なものを奪っていく……私の全てを壊そうとする……。美樹……なぜなの? あなたは人から羨まれるものを何もかも持っている。なぜ私なんかを……?〟

 洋はリビングに戻ると、幸子の横に腰かけた。ジャケットを脱ぎ、濡れた髪を拭くバスタオルを首にかけている。幸子は、洋の体温を感じた。だが、遠い過去のように心を暖めはしない。

〝洋さん……あなたまで、私を苦しめるの? 美樹の言いなり? そっとしておいて。浩一さんと二人で、そっとしておいて……〟

 幸子は、洋の視線を意識した。強盗犯の逃亡を警戒する警官のような目――。今、玄関へ走り出しても取り押さえられる。一時的に逃げられても、自分が今いる場所さえ分からない。浩一の元に帰れる可能性は低い。なによりも、美樹が自分を拉致した目的が分からない。それを解き明かさなければ、理不尽な状況を変えられない。

〝戦うのよ……。浩一さんのために……自分のために……〟

 幸子は決意を固めて、美樹を見つめた。同時に美樹が顔を上げる。

「結論から言うわ。浩一は、あなたを破滅させようとしている」

 幸子は反射的に応えていた。

「浩一、だなんて気やすく呼ばないで。あなたには関係のない人よ」

 幸子はその言葉に刺を含めたつもりだった。しかし、美樹の表情は変わらない。

「違う。浩一は昔、私の恋人だったの」

 理解できなかった。

「え……? 何を言ってるの?」

「事実を話しているだけ。あなたが浩一と出会う前に、私は彼とつき合っていた。だから浩一は、あなたを選んだのよ」

「選んだ……? どういうこと?」

 幸子の声は小刻みに震え始めた。美樹の言葉をどう解釈したらいいのか分からない。逆に、いったん重い口を開いた美樹は自信を取り戻したようだった。狼狽を隠せない幸子を、冷静に、余裕を持って見つめ返す。楽しんでいるようにも見える。

 幸子の動揺を感じ取ったのか、洋が美樹に言った。

「幸子さんが混乱する。最初から順を追って話した方がいい」

 美樹は洋を見つめてしばらく考えてから、うなずいた。

「そうね。幸子、ゆっくり話すから、よく聞いてね。私たち、あなたを浩一から守りたくてこんなことをしたんだから」

 幸子は呼吸することすら忘れていた。

〝浩一さんから守る……? なによ、それ……〟

 美樹は言った。

「私が最初に浩一と出会ったのは、東京に出てすぐだったわ。パパの口利きで独立行政法人ってやつに就職したから、仕事は楽で給料はそこそこ。親から離れて、生まれて初めて自由になれた。アフターファイブが楽しくて、毎日遊ぶことしか考えていなかった。でも、仕事はしないとね。厚労省の天下り団体で福祉関係のとこだから、精神障害者の施設の連絡係をさせられた。施設で話しかけてきたのが浩一。あのルックスだから、目立ってたわ。私ったら、てっきり職員だと思って――」

 幸子は自分の胸に両腕を固く回した。ようやく小さな息を吸うと、ぽつりとつぶやく。

「寒い……」

 たしかに、ログハウスの中は冷え切っている。ダイソンの温風機が作動しているが、建物が広すぎて充分に暖まっていない。洋が席を立って温風機を近づける。さらに床に置いてあった幸子のドラムバッグをテーブルに乗せ、ジッパーを開いた。中には衣類が詰まっていた。一番上に置いてあったスニーカーを取り、幸子に手渡す。黙って受け取った幸子は、椅子に座ったままスニーカーをはいた。

 美樹が説明した。

「それ、幸子の靴でしょう? あなたのお父さんが持ってきてくれたのよ。待ち合わせのホテルのロビーに用意してあったわ。一緒に来るはずだったんだけど」

 幸子は震えながら思った。

〝嘘……。父さんが来ると言ったなら、必ず来る。嘘はつかない。そうよ! 父さんは、美樹が私を騙そうとしていることを見抜いたのよ! だから言いなりにならずに――〟

 洋はバッグの中から着古したウールコートを取り出し、そっと幸子の肩にかけた。そして、つぶやく。

「このコート、覚えてる……」

 幸子も覚えていた。

 ポータブルストーブ一つの寒い部室でこのコートにくるまり、ブラッドベリーを論じながら、時折恥ずかしげにキスをかわす。幸子と洋には、そんな瞬間もあった。幸子が自分に正直だったなら、こんな現在は訪れなかったかもしれない。そんな思いのしみついたコートは身近に置けず、捨てることもできなかった。だから、父親が住むマンションの押入に残してきたのだ。

 幸子はドラムバッグの中から、学生時代に使っていた黒い革のセカンドバッグを手に取った。大介が大学の入学祝いにプレゼントしてくれたものだ。

〝でも、中身は私の物ばかり……。父さんでなければ、持ってこられない。……父さんまで美樹に騙されたの? 騙されて、私から浩一さんを取り上げる気?〟

 洋が席に戻る。

 美樹は何事もなかったかのように話を続けた。

「私は浩一に夢中になった。見た目は最高だもんね。バンドやってるって言うし、ハーフだから一緒に歩いてても自慢できたし。でも、しばらくしてあいつの薄気味悪さに気づいた。動物園とか遊園地とか、子供っぽい場所にばかり行きたがるし、何かにつけて夫婦みたいに振る舞うし。それどころか、まるで子供の手を引いて歩いているお芝居をしているように思えることさえあった。しかも、私の友達とつき合いはじめたとたんに、薄っぺらな化けの皮がはがれたしね。みんな、いいところのお嬢さんだから、教養があるじゃない。外交官の娘で英語がペラペラの子や、ピアノバーの弾き語りで稼いでいた子もいたし。浩一ときたら複雑な英語は理解できないし、ギターも格好だけで 音符も読めない。バンドやってるっていうのも嘘。ただの格好つけだったわ。ほんとに恥をかかされた。で、別れようって言ったの。浩一はどうしたと思う? 私の足にしがみついて『別れないでくれ』ですって。みっともないったらないわ――」

 幸子はサイドバッグを握りしめたまま、美樹の表情を見つめる。

〝嘘! 嘘! 嘘!〟

「――正直言って、なんで私が浩一に好かれたのか分からない。軽い遊びだったから。結婚なんか考えたこともない。でも、浩一が本気で私を愛したことは間違いない。『別れるなら死ぬ』って口走ってさ。あの時の見苦しさったら……。気まぐれのつき合いなら続けてもよかったんだけど、一気に醒めちゃってね」

 美樹はその嫌悪感を思い出したかのように、唇を歪めた。

〝嘘! 嘘! 嘘!〟

「私は『もう会わない』って言ったわ。でも浩一は諦めなかった。っていうより、もっとしつこく陰険になって、私を追いかけはじめたの。ストーカーってやつ。彼って孤児でしょう。育ちが悪いから、見栄っぱりのくせに性格がねじ曲がっててさ――」

 洋がわずかに顔をしかめる。

「余計なことは言わない方がいい」

「なぜ……? あ、あなたも母子家庭だっけ。気にさわった?」

「幸子さんも片親だ。いいから、先を」

 美樹はばつが悪そうに幸子に目を戻す。

「うん……。とにかくあの男、会社やマンションの周りにしつこく現われて、本当に恐かった。警察に訴えても取り合ってくれなくて、パパの力を借りたの。知り合いの金融業者から暴力団に頼んで、浩一を脅したらしいわ。私は『懲らしめて』って言っただけだけど。後で、若いヤクザに百万円ぐらい払って傷が残らない程度に殴った、って聞いた。それ以来浩一は現われなくなった。お父さんのおかげで私は――」

 幸子の身体の小刻みな震えが、目に見えるほど激しくなっていた。

〝嘘! 嘘! 嘘! 性格がねじ曲がっているのは、あなた!〟

 洋が幸子の異変に気づいた。再び冷静な声で美樹をたしなめる。

「余分な話は省いて、本題を進めてくれ」

 話の腰を折られた美樹は、一瞬洋をにらみつけた。

「なにが余分よ。死ぬほど恐かったのよ。あいつ、本当に頭がおかしいんだから」

 洋はさらに言った。

「幸子さんには冷静に聞いてもらいたい。刺激したくないんだ」

 美樹は不満そうにうなずいた。

「ま、いいわ。とにかく、そんなことがあって、私は縁を切ったつもりでいた。パパは私を札幌に戻そうとしたけど、なんとか東京に居続けることもできた。でも浩一は、諦めなかった。今度は私に近づくんじゃなくて、友達を狙って危害を加えはじめたのよ」

 幸子が予想もしなかった展開だった。

〝友達、って……? まさか!〟

 頭に浮かんだのは、正木真奈美だった。

 大学を出た真奈美は、美樹を追うようにして東京で暮し始めた。だが今は、札幌に戻っていると聞いている。幸子は真奈美に会いたくて、噂を聞いてすぐ電話をした。出たのは幸子をよく知っている母親だった。真奈美の母親は気まずそうに言った。

『東京で何があったのか、ちょっと心の病気になって……』

 他人には会わせられない、という。それ以来、連絡していない。

〝まさか……〟

 うろたえる幸子に、美樹はうなずいた。

「そう、真奈美。あの子、浩一に引っかけられたの。天然で呑気な子だから、いいように騙されて、心も身体もぼろぼろにされて……。札幌に戻った時には、覚醒剤の常習者だったって」

〝嘘! 嘘! 嘘!〟

 洋がズボンの尻ポケットから札入れを出した。それを開くと一枚の写真を抜き、幸子の前に滑らせる。洋は幸子の心を読んだようにつぶやいた。

「嘘じゃない。病院では黙ってたけど……」

 幸子は形が歪むほど握りしめていたサイドバッグをテーブルに置き、写真に手をのばした。自分の指が春一番にもてあそばれる木の枝のように震えるのを、奇妙に思いながら。

 カップルの写真だった。背景に『山中湖』の看板が写っている。日付はおよそ一年前。男は浩一だ。肩を抱かれた隣の女が真奈美だと分かるまで、およそ二十秒かかった。真奈美は、高校時代からずっと伸ばしていた髪をベリーショートに変えていた。

 美樹が事もなげに言った。

「あなた、『ベリーショートにしろ』って言われなかった? その髪型、浩一とつきあっていた頃の私と同じなの。浩一って、私を脅かすためにそんなことをさせたのよね」

 洋は札入れからもう一枚の写真を出した。さらに幸子の前に置く。まるで焼き増しでもしたように、最初の写真とそっくりだった。だが、二枚目に写っている女は美樹だ。

 洋が写真の日付を指差す。

「正木さんが写った写真の、ちょうど一年前だ。浩一は美樹さんを怯えさせるために、一年後に同じ場所で、同じ髪型にさせた正木さんと、同じポーズで写真を撮った。そして――」

 洋が幸子の震える手をそっと握った。真奈美の写真を持たせたまま、裏返す。裏には赤いペンで書かれた文字があった。

『帰ってこい。こいつが不幸になるぞ』

 美樹が肩をすくめる。

「ストーカーも、ここまでいくと呆れちゃうわ。私はパパに守ってもらえる。恐くて手が出せないもんだから、親友を傷つけようだなんて……。私はまたお父さんに頼んだけど、今度は浩一も用心深くて、居所を捜し出せなかった。引き換えに、私も札幌に戻ることになっちゃったけど、三枝がいなくなるまでの我慢だと思って……。そのうちに、真奈美も札幌に帰ってきた。浩一は言ったとおりのことをしたのよ。で、私に電話をかけてきた。真奈美に何をしたのか、詳しく聞かされたわ。でも私は『絶対に縒りは戻さない』って突っぱねた。脅迫に屈するなんて、しゃくだもの。そうしたら浩一は、今度はもう一人の――」

 洋は慌てて口を挟んだ。

「それは、まだ言わない方がいい」

 美樹は、洋をにらんだ。

「隠していたら、あいつの正体が分からない」

「しかし……」

 幸子はつぶやいた。

「なによ、正体って……?」

 美樹は厳しい視線を幸子に向ける。

「あいつは私を追って札幌までやってきた。そして、次の標的に目を付けた。それがあなた。公園の通り魔は、浩一なのよ」

 幸子は繰り返すようにつぶやく。

「なによ、それ……」

 何を言っているのか理解できない。しかし、美樹も洋も真剣なことは分かる。

〝なによ、それ……〟

 洋は幸子から目をそらした。諦めたように、長いため息を漏らす。

「そうなんだ……犯人は三枝だ……」

 幸子は不意に微笑んだ。

「バカバカしい……」

 美樹の目に厳しさが増す。

「私はあいつに脅迫されたのよ。『今夜、幸子を襲う』って」

 幸子の頬からゆるみが消えた。美樹をにらみ返す。

「違う! 浩一さんは、私を助けてくれた! 愛してくれる!」

「なんで都合良く助けに来たと思う? いいえ、来られたと思う⁉ 最初からそこにいたからじゃない! あんたを襲った張本人だから! 全部お芝居! あんたをいたぶって、私を苦しめるお芝居!」

 幸子の目から、怒りさえもが消える。

「かわいそうな人……狂ってる……」

 美樹は大げさに舌打ちすると、洋に向かって言った。

「あなたから説明して! こんな分からず屋、手に負えない!」

 洋はまたもため息を漏らした。

「美樹が言ったことは本当だ。三枝は、君を襲うと脅迫してきた。だからあの夜、僕はずっと君を尾行していた。半信半疑だったから、万が一の用心のつもりだったけどね。ところが、事件は起きた。救急車を呼んだのは、僕だ。もし僕が止めに入らなかったら……そう考えると、ぞっとする」

 幸子の目が洋に向かった。

「あなたまで……」

「事実は動かせない」

「それならあなた、どうして姿を消したの⁉ いい加減なことを言わないで!」

「もちろん、倒れた君は心配だった。だが、犯人を探すのを諦めた時には、三枝が戻っていた。だから姿を見せずに、君が救急車に乗ったことだけを確認したんだ。いくら三枝でも、病院で君に危害を加えるとも思えないからね。その後、大急ぎで君のお父さんに連絡を取った。こんな事態になったら、警察の力を借りるしかない。君の携帯番号も、その時教えてもらった」

 信用できる話ではない。

〝洋さんまで……? なぜそんな下らない言いがかりを……? 美樹ちゃんに操られているわけ? 浩一さんがそんなことをするはずがない。父さんの前で命をかけた人よ……〟

 幸子は言った。

「証拠があるの?」

 洋は首を振った。

「それは、ない。犯人は取り逃がしたから……。だが、他に考えようはない。美樹が脅迫された通りに君が襲われ、都合良く三枝が現れたんだから」

 幸子はきっぱりと言った。

「浩一さんは、絶対にそんなことはしない」

 今度は、美樹が微笑む。

「いい気なもの。自分の立場も知らないで」

「放っておいて」

「そうはいかないから、こんなことをしているんじゃないの」

 洋が間に入る。

「僕たちの言葉が信じられないのは分かる。だが、事実だ」

 美樹がつばを吐くように言う。

「そう、事実。私はずっと、あいつに脅迫されてきた。それが、事実。あの汚らしいストーカー野郎にね!」

 幸子は反射的に叫んでいた。

「それならどうして、正体を隠して襲ったりするのよ⁉ 浩一さんとは毎日会っているのに!」

「あんたをじわじわ追いつめて、私を怖がらせる作戦に決まってるでしょう! そんなことも分からないの⁉」

 幸子の反論を止めるように、洋が続ける。

「浩一は君とつきあい始めると、すぐに美樹を脅迫した。僕はその時初めて、美樹から声をかけられた。『幸子が危ない。守ってやれないか』って」

 ふて腐れた美樹は、もう幸子を見てはいなかった。独り言のようなつぶやきが漏れる。

「バカな分からず屋……」

 それを無視して、幸子の目が洋に向かう。

「初めて……って? だって、あなた、結婚するんじゃないの?」

「あれは辻褄合わせの嘘だ。美樹が東京に出てからは、一度も会ってない。ああでも言わなければ、病室に出向くのが不自然だから」

 幸子は不意に理解した。

「じゃあ、コロンの香りは……」

「コロン?」

「美樹がつけている……」

「ああ、たぶん、美樹さんと打ち合せをしている時に香りが移ったんだろう」

 幸子は、トイレで襲われた妄想の中で嗅いだコロンを思い出した。

「洋さん、夜の病室にいなかった……?」

 洋はうなずいた。

「僕はあの夜から、こっそり君を護衛していた。やっぱり不安になってね。仕事の都合がつくかぎりで、だけど。深夜の病院にもいた。急患の待合室に紛れ込んでね。あの病院は古いから、監視カメラとかの警備体制もいい加減なんだ。だから誰にも見つからずにそんなことができた。トイレから飛び出してきた君を助けようともした」

「ナースから逃げた?」

「逃げたよ。騒ぎを大きくするだけだから」

 幸子はその言葉に安堵した。

〝妄想じゃなかったんだ……。でも……洋さんが嘘を言っていないとは限らない。公園には現れたんだから。そうよ、私を襲ったのが洋さんだったとしてもおかしくないじゃない……。美樹が命令すれば、そんなことだって……。浩一さんが犯人だなんて言いがかりよ。そうよ! この二人が私をいたぶろうとしているんだわ! 浩一さんに罪をなすり付けて!〟

 幸子は洋のいぶかしげな視線にさらされながら、不自然な沈黙を続けるしかなかった。その時、美樹のバッグの中で携帯電話が鳴った。ギャラクシーを出した美樹が不機嫌そうにつぶやく。

「この番号、秘密にしてあるのに……」

 洋が言う。

「電波、届かないんじゃないのか?」

「ドコモの中継機は付いてる。他は圏外なの。でも……あ、幸子のお父さん! 名刺に番号を書いてきたから――」

 だが、通話を始めたとたんに身体が硬直し、美樹はギャラクシーを放り投げた。

 洋が立ち上がって叫んだ。

「どうした⁉」

 一瞬で血の気を失った美樹は、洋を茫然と見つめてつぶやく。

「浩一よ……『すぐそこに行く』って……」

 席を立った洋は美樹の傍らに走り、出窓の下まで床を滑ったギャラクシーを取った。屈んだまま耳に当てる。

「切れてる。奴に間違いないのか⁉」

 美樹はまだ気味悪そうに、洋が握ったギャラクシーをにらみつけていた。

「間違えるもんですか。あのベタベタした猫なで声……。どうしよう……あいつが来る……」

 美樹は両腕で胸を抱きかかえた。コートからのぞく手首に、ぶつぶつと鳥肌が立っていく。

 洋は立ち上がって、ギャラクシーを出窓に置いた。

「心配するな」

 その時、洋の言葉を嘲笑うように、外で大きな銃声が起こった。

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