幸子はうつむいたまま、大介に目を向けもしなかった。だが、大介が自分のつぶやきを聞き取ったことは感じられた。   

 大介はわずかな沈黙の後に応えた。

「刑事は、時に人の道に外れた仕事もする。必要なら避けない。おまえの命を守るためだ」

 幸子は感情が抜け落ちた声で言った。

「恩着せがましい……放っておいてほしいだけなのに……」

 大介は、重苦しい息遣いでつぶやいた。

「現実は非情だ……。私は最初、三枝の暮らしぶりが気に入らないというだけで、付き合いに反対した。病室で土下座された時は、本気でお前の幸せを願っているのかもしれないとも思った」

 幸子は、ようやく父親に視線を移した。

「父さん……」

 大介の視線は、壁を向いたままだった。

「だがその直後、西城君が署に来た。彼の話は衝撃的だった。三枝は、美樹さんを苦しめるために、赤の他人のおまえの感情を――いや、生命までをもてあそんだ。おまえを襲ったのが三枝なら――」

 幸子の答えは揺らがない。

「嘘です。私は愛されています」

「私だって納得できない。あれほど熱心に結婚をせがまれた後だからな。だから西城君の話は、すぐ裏を取った。署の昔なじみや東京の知り合いに協力を仰ぎ、過去のデータに目を通した。結果は……いまさら隠し立てしても仕方あるまい。全てクロだった。奴自身、覚醒剤の常習者だ。札幌でも、暴力組織の末端に組み込まれている。シャブの売人で、客集めに若者が集まる貸しスタジオを利用していたわけだ。担当の内定リストに、三枝浩一の名前があった。縄張りを荒らすことになるから、口を開かせるのは一苦労だったがね。警視庁に残っていた調書から、正木真奈美さんがシャブで逮捕されたことも判明した。その時三枝も、男友達の一人として事情聴取されている。担当者と話をしたが、彼は三枝が真奈美さんにシャブを渡したと睨んでいた。三枝を落として供給源を潰すために、微罪の真奈美さんから攻めたんだ。だが真奈美さんは、何もしゃべらなかった。どうやら三枝を――奴の狂気を怖れているらしい。それが担当者の感触だ。法的には何も証明されずに終わった事件で、確かな事は言えないがな」

 洋がつぶやく。

「やっぱり……。でも、そこまで裏付けをしてくださって、ありがとうございます。信用されないんじゃないかと怖れていたんです」

 大介は洋を見つめた。

「礼を言うのはこちらだ。感謝している。ついでながら、美樹さんのお父上が三枝を脅すために雇ったという男も見つけた。あれは違法だ。今後はやめるように」

 美樹が食ってかかるように言った。

「警察が浩一を始末してくれるの? あんたたちがグズだから、パパに守ってもらったんじゃない」

 大介の視線は美樹に向かった。

「東京の所轄に記録が残っていた。動かなかったことは確かだ。警察には不備がある。事件が起きなければ動けないのは最大の欠陥だ。しかしこれも現実だ。あなたは身を守るために父上に協力を求め、父上は組に金を払った。あなたの父上は犯罪者になったうえに、三枝を過激な行動に追い込んだ」

「パパが悪いっていうの⁉」

「もう一度警察を信頼してほしかった」

 美樹は不意に声を荒げる。

「狙われていたのは私よ! なんで被害者が責められるのよ!」

 大介は淡々と語った。

「三枝を襲った三下だが……上からは『殺せ』と命じられたという。美樹さん……あなたは『殺してほしい』と頼まなかったか?」

 美樹は顔をそむけ、応えようとしない。

 じっと美樹の反応を見守る幸子の頬に、涙が落ちる。

「浩一さん……殺されかけたのね……この女に……」

 大介が厳しい目で幸子をにらんだ。

「目を覚ませ」

 幸子も大介をにらみ返す。

「命を狙われたんでしょう⁉ 美樹を憎んで当然じゃない!」

「そう。三枝は美樹さんを憎んだ。だが、美樹さん本人に手を出せば殺される。だから三枝は、遠回しに追い詰めようとした。最初は真奈美さん、そして、おまえ……友人を一人一人破滅に追いやり、苦しめようと企んでいた」

「嘘よ……そんなの嘘に決まってる。だって浩一さん……優しかったもの……」

 大介は言った。

「それこそ、奴の大嘘だ。三枝が優しかったのは、お前を破滅させる罠だ。逃げられなくなってからシャブ漬けにして、人格を崩壊させる。そして最後に、美樹さんを追い詰めて言いなりにしようという魂胆だった」

 美樹がつぶやく。

「あんな変態、何があったって縒りを戻すもんですか……」

 大介は美樹を見た。

「そうだろうね。普通は、こんな方法で人の心を動かせるとは考えない。だが三枝は、君の気持ちを変えられると信じ込んでいる。自分がどう思われているかなど問題にしていない。妄想の世界に生きている、典型的なストーカーだ。だから、平然と犯罪を犯す」

 幸子がうめく。

「嘘……」

 大介がうなずく。

「嘘であれば……と、私も願った。だが、否定する根拠が一つもない」

 幸子は膝の上で固く握りしめた両手をじっと見つめた。

〝嘘よ……。根拠ならある。浩一さんは、結婚しようって言ってくれた。本気で言ってくれた。嘘なら、あんなに心に響かない……〟

 大介は言った。

「おまえは二、三日ここで休ませてもらえ。今、札幌に戻るのは危険だ。その間に、奴の調査を終わらせる。一日も早く刑務所に叩き込む。今後のことは、それから話し合おう」

 洋も幸子にうなずきかける。

「僕たちも君を三枝から引き離して、お父さんに説得してもらいたかったんだ。結果的には、その通りになった」

 美樹が言い添える。

「幸子、そうして。遠慮しないで、ここを使って。パパにはちゃんと許可を取っておくから。まだ建ったばかりだから不便だけど、その分、浩一に見つかる心配はないわ。食料とかは私たちが持ってくるし。将来のことをじっくり考えるにはいい機会じゃない?」

 大介が幸子を見る。

「みんな、お前のことを案じている。好意を無駄にしてはいけない」

 幸子は三人に見つめられたまま、考えた。重苦しい沈黙に包まれる。数分が過ぎて、幸子は腹を決めたように応えた。

「分かった……考えてみる。でも、信じて。私、街に帰っても浩一さんとは会わない。会社も休んで、お父さんの部屋で考えてみる。こんなことが……こんなひどいことが続いた後じゃ、なにもする気になれないもの……」

 本心ではない。

〝なにもする気になれない? とんでもない。浩一さんに会わなくちゃ。浩一さんを犯罪者にするなんて、許せない!〟

 大介がさらに幸子の目を覗き込もうと身を屈める。

「幸子……大丈夫か? 無理はするなよ」

「ここがどこだか知らないけど、余計に気が滅入るし……」

 美樹が仕方なさそうに言う。

「私、ついててあげる。浩一が野放しになっているうちは、どうせ安心できないし」

 洋がうなずく。

「僕もだ。美樹に頼まれてから仕事を休んでいるんだ。どうせバイトに毛が生えた程度の見習いライターだから、時間はある。三枝が捕まるまで、君たちのそばにいる」

 幸子は目を上げずに言った。

「ありがとう……二人とも、本当に……」

〝なぜ? あなたたちは、なぜそうまでして邪魔するの? 浩一さんは、あなたたちが言ったようなことをしたかもしれない。私に近づいたのも、美樹への復讐だったかもしれない。でも、あの時だけは嘘じゃない。結婚しよう、って……。あの言葉が嘘であるはずはない。それだけは確かめなくちゃ。浩一さんに会わなくちゃ……〟

 幸子は目を上げた。

「でも、やっぱり帰りたい。迷惑ばかりかけられない」

 美樹が言う。

「迷惑をかけたのは私。あんな変態、いい気にさせちゃって……」

〝変態じゃない! 愛の意味も知らないくせに!〟

 だが幸子は内心の怒りを押し殺して、精いっぱい穏やかに応えた。

「だめよ。お父さんの別荘なんでしょう? まさかとは思うけれど、本当に浩一さんが来たら何をしでかすか……」

 洋がはっとしたようにうなずく。

「たしかに、火をつけるとか、そんな無茶もしかねない……」

 幸子はうなずく。

「あなた方は私から離れていて。私は父さんに守ってもらう」

 大介が言った。

「気持ちが落ち着いたようだな」

「真実が知りたい……。浩一さんが何をしようとしているのか、知りたい……。だから、こんな淋しい場所に閉じこめないで……」

〝病院でもらった睡眠薬がバッグに残っている。薬を晩酌のビールに入れれば、父さんだって眠る。自由になれる。今夜のうちに浩一さんを探さなくちゃ……〟

 二時間後、彼らは札幌に戻っていた。さらにその夜、実の娘に睡眠導入剤を盛られた大介は、テーブルに突っ伏して寝息をたてていた。

 むろん、部屋に幸子の姿はなかった。

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