第二章・拉致

 延々と続く古寺の階段を登るように、近田幸子はゆっくりと意識を回復していった。最初に感じたのは、木の匂いだった。胸いっぱいに広がる、すがすがしい森林の香り。だが、土臭さはない。生きた森から野性を取り除いた、人工的なエッセンスのようだ。品の良い香水にも似た、心を鎮める針葉樹の香り――。

 寝言のような声を出す。

「どこ……?」

 自らの間延びした声に導かれ、幸子の意識に外の様子が染み込んでいった。

 光、色、形――。

 ジグソーパズルの断面を重ね合わせるように、脳が覚醒していく。不快ではなかった。木の香りに包まれることによって、本能の奥に隠れた進化の記憶が呼び覚まされたようだった。安全な梢でうたた寝をする猿にも似た、奇妙な安堵感――。

 幸子の心はその時、全く無防備だった。そして、目を開いた。

 室内だ。幸子が横たえられたベッドの傍らに窓がある。強烈な光が差し込んでくる。壁は一面、淡い茶色に塗られていた。その壁にいく筋も横に走る黒い縞模様――。それが影だと分かったとたん、太い丸太を組んで作ったログハウスだと理解した。横たわったまま、顔を巡らせる。およそ十帖ほどの広さで、天井が高い。家具は木のベッドの他に見当らない。生活感を感じさせない、モデルルームのような部屋だった。

 厚そうな板のドアは閉ざされている。

〝どこ……? なぜ知らない場所に……?〟

 幸子は深呼吸で気持ちを落ち着けようとした。そして気づいた。

 そもそも高ぶってなどいなかったのだ。

〝そうか、つかまっちゃったんだ……〟

 何者かに拉致されたことはすぐに思い出した。監禁されていることも推測できる。なのに、気持ちは穏やかでいられた。

 それは眠っていた間に吸っていたログハウスの空気のせいだったのだろう。針葉樹の香りでリラックスした、深い睡眠。そうとは知らずにアロマテラピーを行なっていたようなものだ。筋肉が弛緩し、危機が迫っていることは理解できても、緊張感がわかない。しかも意識の一部で自分を冷静に眺め、落ち着いていられることに感嘆していた。

〝強くなったのかな……。それとも、キレちゃった?〟

 しかし、いつまでもぼんやりとしてはいられない。幸子をここに連れてきた人物は、必ず戻る。それまでに状況を把握しておかなければならない。頭を巡らせて窓に目を向けた。

 眩しい。ベッドは窓辺に置かれている。だが、窓の外に風景はない。真っ白にしか見えない。幸子は目を細め、じっと目を凝らした。何も描かれていないキャンバスのようにのっぺりとしている。それでも目が慣れはじめると、白い視界に陰影がにじみだしていく。

 雪原だ。見るからに厚い雪に覆われた大地。深い森だ。葉を落とした木々が立ち並んでいるのが見分けられる。

〝ニセコの景色みたい……〟

 札幌市内に、すでに雪はない。だが、ちょっと郊外に出れば、降り積もった雪はしぶとく大地にしがみついている。札幌からある程度離れた場所に違いない。

 幸子は車に乗せられたことを思い出した。車で一時間も走れば、ここと似た広大な森に容易に辿り着ける。

〝どこ……?〟

 孤立している。ログハウスが頑丈に作られていることは素人目にも分かる。雪に埋もれた森の中の、堅牢な建物。まるで、最初から誰かを監禁する目的で設計されたような家。そこで、一夜を明かしたのだ。

 幸子の心に、初めて恐怖が芽をふいた。

〝なぜ、私なんか……〟

 全ての事件は一つの流れに沿っている。公園での暴行、病院に現われた黒ずくめの男、アパートを襲った襲撃者。

 陰――。

 幸子は誰かに『狙われて』いる。

〝狙われているって……私の、何が?〟

 命、ではない。殺す気ならチャンスは何度もあった。金銭目当ての誘拐でもない。幸子自身や父親に財産はなく、親類もいないに等しい。自分自身が苛立つほど気弱な幸子には、他人から恨まれる過去もない。凡庸な外見の自分が、ストーカーにつけ狙われることも考えにくい。幸子は、自分がドラマの主人公になれるなどと自惚れたことはない。

 たった一つ、浩一との恋を除いては……。

〝誰なんだろう……〟

 はっと気づいて、着ている服を調べた。着たままだった。拉致された時と同じ服装だ。靴は始めから履いていない。

〝脱がされていない……私に何をしようというの……?〟

 目的が何であれ、陰は自分を狙っている。恐怖が茎をのばした。

〝誰なの? なぜ私をそっとしておいてくれないの……? 浩一さんと歩きだす決心をつけたのに……〟

 犯人は近くにいる。おそらく建物の中に――。

 ベッドから出ようとした時、物音が聞こえた。窓の外からだ。

 グシュ……。

 かすかな音だったが、幸子の研ぎ澄まされた聴覚には銃声のように轟いた。呼吸が止まる。

〝足音……?〟

 グシュ……。

 雪を踏み込む音だ。その足音は、さらに大きくなる。

 グシュ……。

〝いや! 来ないで!〟

 足音は、目の前の窓で止まった。恐怖が葉を広げ、心に深く根を打ち込む。幸子は窓から目をそむけられないまま、堅く目をつぶった。

 窓の外から部屋を覗き込む陰の気配を感じる。金縛りにあったように動けない。薄目を開ければ、相手の正体は確かめられる。だが、開けられない。見られていると思うだけで、意識が真っ白に濁る。息を殺してじっとしていれば、空気のように透明でいられるとでもいうように……。

 窓の外では、物音が続いている。木と木がぶつかり合うような音。幸子の目蓋越しに、さっと影がよぎる。何かが一瞬、太陽の光をさえぎった。そして、幸子の耳を襲う大音響。

 ガン! ガン! ガン!

 釘を打っている。幸子は陰の意図を理解した。窓を塞ぐために、板を釘づけしている。窓越しの物音の一つ一つで、何をしているのかが手に取るように分かった。窓に板を当てて、釘を打つ。右に三本、左に三本。次の板を上に置き、また三本ずつの釘――。

 作業は手早かった。時たま作業が止まった時は、幸子は陰の視線を感じた。目蓋を突き抜ける光は、打ち付けられた板が増えるたびに弱められた。部屋の中は暗く、寒くなっていく。それでも、幸子は動けない。恐怖に駆られて吸い続けた空気で、肺がはち切れそうに膨らんでいる。うまく吐き出せない。呼吸の方法を思い出せない。

〝閉じこめられる……なぜ……助けて……浩一さん……助けて……父さん……助けて……逃げられない……〟

 音が途切れた。そして、足音。陰が窓から去っていく。幸子は遠ざかる足音を聞きながら、薄く目を開いた。

 窓を塞いだ板には、いく筋かの狭い隙間が残っているだけだ。もう、外は見えない。外からも、中は見えないはずだ。幸子は胸いっぱいに吸い込んでいた空気をゆっくりと吐き出した。同時に、全身の緊張が解けていく。

 状況が悪化したことは分かっていた。今の幸子は陰の思うがままだ。命さえも、自由にされかねない。それでも、陰が近くにいなければ呼吸ができる。人並みに考えをめぐらせることもできる。

〝私、動かなかった。まだ眠っていると思っているはず。隙を見て逃げなくちゃ……〟

 ドラマやハリウッド映画では、戦うヒロインを何度も目にしている。しかし、一度も感情移入できたことがない。うらやましくは感じても、自分にそんな離れ業が可能だとは思わなかった。戦いなど、望んだことはない。しかし、目前に苛酷な現実が横たわっている。自分を強姦しようとした陰に、どことも知れぬ場所に監禁されている。戦わなければ、死よりも苦しい苦痛を味わわされる。

 袋小路の現実――。逃れるには、陰を出し抜く以外にない。

〝逃げなきゃだめ……このままじゃ、もう浩一さんに会えない……浩一さんに……〟

 それが全てだった。

 もう一度浩一に会う――。

 気持ちを奮い立たせる唯一の支えだ。

〝戦わなくちゃ!〟

 試練の時はすぐに訪れた。再び、足音。木の床を歩くスニーカーの音か……。今度は室内だ。ドアの外で止まる。

〝戦うのよ!〟

 鍵を開く音。陰はドアに鍵をおろし、幸子の逃亡を防ごうとしていたのだ。窓まで塞いだ以上、ドアを開け放しておくはずがない。

 幸子は顔をドアに向けた。大きく目を見開いたまま、自分に問う。

〝ドアを開けた瞬間に飛び出せば……〟

 理屈では、そう考えられた。だが、身体は従わない。

 ギ……。

 ドアが開く。幸子は固く目をつぶった。陰を直視する勇気はわいてこない。身を強ばらせたまま、音を頼りに陰の動きを探った。

 陰が部屋に入ってくる。重いものを引きずっているらしい音がする。床板の継目でごとんと鳴る音が混じった。枕元にそれを置くと、足音がドアの外に消える。ドアが閉じられた気配はなかった。

〝眠っていると思っている! 今なら!〟

 幸子は気力を振り絞って、かすかに目蓋を開いた。陰が置いていった物が目に入った。カントリー調のデザインの武骨な椅子だ。重そうな椅子の向こうに、開け放されたままのドアが見える。

〝逃げるのよ!〟

 身体を動かそうとした時、視界に男の姿が現れた。陰は手に盆を持っていた。幸子はそれが何かを確かめる前に、また目を閉じてしまった。

〝だめ! こんなんじゃ逃げられない! 戦うのよ!〟

 怯えてすくんだ幸子の脳には、自らを励ます言葉が虚しく響くだけだった。陰は再び部屋に入ると、ドアを閉めた。そして、椅子の上に盆を置く。幸子は匂いを感じた。トマトスープの香り。空腹だったことを思い知らされる。

 陰は独り言のようにつぶやいた。

「こんな缶詰しかなくてね。どうせ、長いことじゃない。我慢してくれ。……この部屋、寒いな……一晩ストーブをつけているのに……光を塞いじゃったしな……」

 聞いた声だ。だが、誰かは思い浮かばない。記憶が機能していない。そして陰は、壁に歩み寄ったようだった。ギ……っと、かすかにドアが軋むような音。幸子は、クローゼットが造り付けられているのだろうと、意外な冷静さで考えていた。陰はそこから何かを取り出すと、ベッドに近づいてきた。

〝いや……来ないで……〟

 陰は言葉で幸子を愛撫するように、静かにつぶやく。

「もう少し眠っていてくれ。今度鍵を開く時には、何が起こったのか知ることになる。僕なら、知りたくない。こんな惨いこと……。せめてそれまで、眠っていてくれ……」

 幸子は必死に叫び声をこらえていた。

〝なによ、惨いって! 全部あなたのせいじゃない! 放っておいてよ!〟

 と、陰の気配が幸子に近づく。

〝いや……いや……いや……〟

 幸子は、かすかな重さを感じた。陰は幸子の上に毛布をかけたのだった。その瞬間、柑橘系のコロンの香りを嗅ぎ取った。

 危険な香り――。

 幸子の頭に恐怖の断片があふれ、重なり、溢れだす。

 深夜の公園、ナイフ、病院のトイレ、アパートを襲った襲撃者――。

〝いやぁぁぁ!〟

 幸子は反射的に目を開いていた。身体が、あっけないほど容易に起き上がる。毛布をかぶせようとおおいかぶさっていた陰を押しのける。不意を突かれた男はバランスを崩して、ベッドの脇に尻もちをついた。

 恐怖は幸子の身体をすくませた。だが、危機は恐怖を粉々に砕いた。すくんだ身体に、生存本能が蘇る。幸子は素早くベッドから飛び出していた。椅子に置いてある、湯気をたてるミネストローネの皿を手に取る。皿を投げつける。

 頭からスープをかぶった陰は、悲鳴を上げた。

「やめて! 僕だ!」

 男は頭を両腕で抱えながら、猫背になって立ち上がった。それでも、体格がいい事は分かる。背丈も幸子をはるかに越えている。格闘になったら勝ち目はない。幸子は男を見もせずに、裸足のままドアに向かって走った。鍵はかかっていない。

 ドアから飛び出すと、広いリビングがあった。木の床はつやつやと光り、ログハウスが真新しいことを物語っている。丸太を重ねた壁には石作りの暖炉がある。だが、火は入れられていない。その上にはお約束だというようにシカの首の剥製がかけられていた。リビングの中央には大きなテーブルがあった。十人が同時にフルコースのフレンチを食べられそうなサイズだ。その周囲に、男が部屋に持ち込んだ椅子と同じ物がたくさん並べられている。全てがカタログの写真のように、清潔で整っている。

 無我夢中で走る幸子は、テーブルの角に腰をぶつけて倒れた。痛みはなかった。不意に傾いた視界に、不自然さを感じただけだ。自分が走っていないことに気づいたのは、男が部屋から飛び出してきた時だった。

 男が叫ぶ。

「逃げないで!」

 幸子は立ち上がった。だが、腰がぐらつく。力が戻らない。

〝逃げるのよ!〟

 足が思い通りに動かない。今走っても、つかまる。戦うしかない。幸子は振り返り、必死の形相で男に向かい合った。

 男が止まって、幸子を見すえる。

「僕の言うことを聞くんだ!」

 幸子はようやく男を正面から見て、その正体を知った。紺のダウンジャケットにジーンズをはいた男――。

 西城洋だ。

〝やっぱり……〟

 それが、幸子の頭に最初に浮かんだ一言だった。全てを無意識のうちに予測していたのだ。公園の暴漢、病院の男、アパートを襲った襲撃者。誰もが、同じコロンの匂いをさせていた。病院へ見舞いに来た洋もまた、かすかにそのコロンを漂わせていた。事件はいつも香りと共にあり、洋には香りがあった。理由は分からない。だが洋は幸子を拉致し、監禁した。幸子はずっと、洋につけ狙われていたのだ。

 洋は、顔にかかったスープをジャケットの袖で拭った。

 幸子は身を守るように両手で胸を抱きかかえ、つぶやく。

「洋さん……なぜ……?」

 洋は動きを止め、じっと幸子の目を見つめた。

「落ち着いて。話を聞いて」

 幸子はただ、理由が知りたいだけだった。

「なぜ? なぜ監禁したの? なぜ、今さら……」

 洋はすがりつくような目で幸子に訴えた。

「じっくり聞いてもらわなくちゃ分からない。君を守るためだ! 今、戻ったら命が危ない!」

「命を狙っているのはあなたでしょう⁉」

 洋は言い訳しようとはしなかった。

「君は今、興奮している。僕の話を理解できる状態じゃない」

「こんなことをされて冷静でいられる女なんていない!」

 洋は、わずかに退きながら口調を穏やかに戻した。

「もっともだ。だから、落ち着くまでここにいてほしい。窓を釘付けしたのは、君を出さないためだ。眠っていると思っていたんだ」

「出さないため……? だから、なんでそんなことを⁉」

「もうすぐ君のお父さんが来る。美樹が迎えに行っている。四人でじっくり話せば、事の重大さが分かる。君は聞きたくない話だろう。だが、真実だ。だから、出せない。監禁もやむを得なかったんだ」

 父親の名が出ることが理解できない。

「なぜ父さんが……? 監禁されることを知っているの?」

「詳しくは話してはいない。でも、分かってくれる」

 幸子は不意に最悪の事態を予感した。

「浩一さんのこと……? そうなのね? 父さんが来るだなんて、浩一さんが関係したことなんでしょう⁉」

 洋は小さくうなずいた。

「あいつは危険だ」

 幸子は堅く目をつぶってつぶやいた。

「父さん……何をする気なの? 私たちをそっとしておいて……」

 と、玄関のドアに物音がした。

 幸子は目を開いて振り返った。開いたドアを手で押さえ、高橋美樹が立っていた。

 かつての恋敵。幸子から洋を奪った女友人――。

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