13

 幸子が目覚めたのは、日が落ちはじめた頃だった。うす暗い部屋で、ぼんやりと天井を見つめる。

「こんなに寝ちゃったんだ……」

 そして、テーブルのバッグに目を移した。中には浩一と色違いのケースを付けたiPhoneが入っている。そのまま十分以上が過ぎる。

 暗い部屋でまどろんでいたかった。身体中に根を張った疲れが溶けて消えるまで、何も考えずにいたかった。だがそれは、甘えだ。自分の弱さと決別すると決めたのだ。行動しなければならない。

 幸子はゆっくり立ち上がった。仕方なく、照明を付ける。蛍光灯の光が、眩しく突き刺さる。

 幸子は目を細め、いかにもだるそうにiPhoneを取り出した。かけたくない電話だった。というより、かけたくない相手だった。だが、今のうちに用件をすましておくしかない。

 浩一の負担を減らすためだ。父親との関係を断ち切るためだ。 

〝確かめなくちゃ……〟

 だが、大介は携帯の電源を切っていた。仕方なく、職場へかけた。相手は、一回の呼び出し音だけで出た。

『はい、組織犯罪対策局』

 その声は知っていた。父親に連れられてたびたび遊びに来ていた坂本という刑事だ。父親が坂本と自分を結婚させたがっていたことも読めている。すでに浩一とつき合っていた幸子には、父親のやり方が腹立たしくてならなかった。

 坂本は幸子を嫌っていないようだった。そのことが言葉を歯切れ悪いものにさせた。

「近田幸子ですが……」

 坂本の声が明るくなる。

『あ、幸子さん。どうしました? 事件のこと、聞きました。大変でしたね。僕にできることがあったら――』

 本気で幸子を心配している。気が滅入る。

「父はいますか?」

 坂本は唐突に声を落とした。

『幸子さんも知らないんですか…… 実は、みんな捜しているんですけど……』

 意外な返事だ。坂本の口調には後ろめたさを隠すような雰囲気もある。

「探してるって……?」

『大介さんから連絡があったら、私に居場所を教えてくれませんか? なんか、上の方で大騒ぎになってるんです。監察官が動いているみたいで――』

〝監察官⁉ 何で父さんが⁉〟

 監察官室は警察官の不祥事を調査する部門だ。それは、大介が不正を犯して内部調査の対象になっていることを意味する。

 不意に言葉を切った坂本の背後にざわめきが起こった気配がする。

『え⁉ あ……マジかよ……。あ、今、大介さんが来ました』

「すみません、変わってください」

『あ、はい』

 回線が保留にされ、単調な電子音で『エリーゼの為に』が流れる。

 大介の声はぶっきらぼうだった。電話越しのざわめきは明らかに大きくなっている。

『何だ?』

「父さん、何かしたの⁉ 監察官だなんて――」

『お前には関係ない。またすぐ出る。用件は手短に』

 願ってもない。

「三日前、西城洋さんと会いましたか?」

『ああ、署に来た。お前を見舞いたいというから、病院に連絡した』

「余計なことはしないで。彼とは何の関係もないんですから」

『つき合っていたんじゃないのか?』

「だから、会いたくないんです。分からないの?」

『私が帰るのを一時間以上待っていたというんでな。お前には誰かがついていてほしかった。私が行ければよかったんだが……』

「浩一さんだけで充分」

 大介は急に声を落とした。怒りをこらえている。

『それは許せん。奴とはすぐ別れろ』

 幸子は予期していた言葉を耳にして、いきなり通話を切った。

 大介がなぜ監察官に追われるのかは気になる。しかし、最悪の場合は縁を切る覚悟も決めている。用件もすんだ。洋の言葉に偽りがないかを確かめたかっただけなのだ。

〝洋さんは、なぜ急に私のところへ……? 昔つき合っていたからといって、身体を許したわけじゃないし、婚約もしなかった。まして、美樹ちゃんと結婚間近なのに。美樹ちゃんが一緒に来たならともかく、男一人で……。美樹ちゃん、知っていたのかな? 黙って来たら怒るはずよね。あんな性格だし……〟

 謎だった。いくつもの疑問が頭にこびりついている。

 重い溜め息をもらしながら、幸子はソファーに戻って横になる。

〝どうして洋さんは……〟

 と、iPhoneが鳴った。嫌な予感が頭をよぎる。

〝父さんかも……。電源、切ればよかった……〟

 iPhoneはほとんど浩一との連絡だけに使っていた。フェイスタイムを使えば無料でテレビ電話が出来るからだ。だから番号は、大介と職場の上司を含めた数人しか知らない。だが、モニターには登録した名前ではなく、見知らぬ番号が表示されている。

〝間違い電話? あ、病院かな?〟

 幸子は通話ボタンを押した。

 相手はいきなり言った。

『その部屋から出ろ! 危険だ! そこにいちゃだめだ! チャンスは今しかない! 三枝は危険だ!』

 浩一でも大介でもない。

〝誰⁉ 何⁉ その部屋、って――〟

 通話を切る。自分では気づかぬうちに、全身に激しい震えが広がっていた。

 相手は今、幸子が一人で浩一の部屋にいることを知っている。

〝チャンスは今しか――? ……まさか……見張られているの⁉〟

 と、玄関のドアが叩かれる。鉄のドア越しのくぐもった声――。

「逃げるんだ! ここを開けろ!」

 幸子は悟った。

〝狙われている。助けを呼ばなくちゃ!〟

 相手を選ぶ余裕はない。敵が悪質なストーカーなら、大介の助けを借りるしかない。幸子は激しく震える手でiPhoneを操作した。

「近田幸子ですが――」

 いきなり大介の声だった。

『なぜ切った⁉ 奴はまともじゃない。別れろ!』

 幸子は必死に懇願した。

「お父さん、聞いて!」

『聞く必要はない! 今すぐ私のマンションに戻れ!』

 幸子は反射的に通話を切っていた。

〝助けて! 助けて! 助けて!〟

 ドア越しの声。

「開けるんだ! そこを出ろ!」

 幸子は浩一に電話をかけた。クローゼットの中でコールドプレイの着メロが鳴る。

「早く! ドアを開けて!」

 幸子はバッグをつかんでiPhoneを突っ込むと、決心を固めた。

〝逃げるのよ! 交番に駆け込もう!〟

 幸い、部屋はアパートの一階だ。幸子は窓際へ戻って、外の様子をうかがう。

 再びドアの声。

「お願いだ、開けてくれ!」

〝まだドアにいる。逃げるなら、今!〟

 窓を開いた。すでに薄暮を過ぎている。幸子の目には、真っ暗やみに見えた。恐怖心をおし殺して窓枠を乗り越える。

 アパート裏は、アスファルトを敷いた駐車場になっている。周囲を建物で囲まれ、日差しも差し込まない。素足で外に着地した幸子は、その冷たさに悲鳴を上げそうになった。

 靴がないことに気づいたが、取りに戻るわけにはいかない。

〝逃げるのよ! 交番はどっちだっけ⁉〟

 走り出そうとした瞬間、幸子は後ろから何者かに腕をつかまれた。

 幸子は反射的に叫んでいた。

「いや!」

 振り返る前に、鼻孔に激しい匂いが突き刺さる。

 恐怖の香り――柑橘系のコロン。

 幸子の全身から気力が抜ける。その場に座り込みそうに、腰の力が萎える。襲撃者が幸子を支えながら何かを言った。その声が頭に歪んで反響する。

『逃げるのよ――騙されて――危険だから――殺される――』

 そして、まるで爆発するかのような車のエンジン音が幸子の耳に襲いかかった。襲撃者の腕から逃げることができない幸子のすぐ脇に、車が止まる。幸子はその車に押し込まれた。

〝どうしよう……交番に行けない……浩一さん……ごめんね……〟

 幸子は意識を失った。

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