12

 続く二日間も、苦行は続いた。

 北署から派遣された婦人警官には、思い出したくもない暴行時の様子を聴取された。手柄を焦る長崎には、意味不明の質問やテストを繰り返された。被害者の自分がなぜそのような苦痛に耐えなければならないのか、幸子には納得できない。精神的なストレスが昂じて、不眠症の傾向さえ見せはじめていた。

 病室から解放された幸子は、医師が処方した睡眠導入剤をたっぷりと持たされるはめになった。

 退院の日の昼前、幸子は病院の玄関で浩一を発見した。わざわざ友人から借りたという軽自動車で待っていたのだ。

 浩一はアルバイトを休んでいた。一人で自分の部屋へ帰ることを覚悟していた幸子は、涙を流して浩一にすがりついた。二人が向かったのは浩一の部屋だった。

 浩一は、小綺麗な新築アパートに住んでいた。外観はコンクリートのたたきのままで、一昔前に流行した無機的なデザインだ。だが内装には木をふんだんに使って、温かみを感じさせる。公称は十二帖のワンルームだが、建物全体のデッドスペースの関係でコの字型に折れ曲がった間取りになっていた。しかも一階で、窓の正面が駐車場になっているために騒音が多い。建物のオーナーは浩一の雇い主だった。使いづらい部屋で借り手が見つからないため、格安で住むことになったのだという。

 幸子には贅沢すぎる部屋に見えたが、浩一はその分生活を切り詰め、家具も多くは置いていない。几帳面に片付けているわけではなかったが、生活感の薄い住まいだった。壁に貼られたミュージシャンのポスターや一本のアコースティックギターが妙に目立つ。

 出逢った頃の浩一は手の怪我に包帯を巻き、ギターを弾ける状態ではなかった。テーピングが取れて一か月ほど過ぎたこの頃は手に取ることもあるが、思い通りに指が動かずに苛立つ浩一と目を合わせることが幸子を悲しませた。

 浩一の気持ちを安らげようと、幸子は時折、花を残した。木の内装にとけこんだ季節の花は、幸子の心も癒した。いつかは結婚し、この部屋から新しい生活を始めるのが望みだ。

 鍵を開いた浩一に続いて、幸子は部屋に入った。真っ先に下駄箱の上に飾られた数本のチューリップに気づく。

 浩一は照れたように言った。

「退院祝いだ。花屋に入るの初めてだから、恥ずかしくってな」

「うれしい……」

 胸を詰まらせた幸子は、それだけ言うのが精一杯だった。

〝私のために……〟

 浩一のアパートには、甘い煙草の匂いがしみついている。馴れ親しんだはずのその香りが、幸子には新鮮な驚きだった。

〝ついこの間、来たばかりなのに……〟

 事件が起こったのは四日前の夜、浩一の部屋から帰った直後だ。幸子にとって、四年間にも思えるほど長かった。

「やっと帰れたのね……」

 部屋の奥に置かれたソファーに崩れるように座った幸子は、浩一が呆れるほど長い溜め息をもらした。

 外は快晴だが、陽が差し込まない部屋は冷えきっている。ファンヒーターのスイッチを入れた浩一は、ソファーの傍らに立ったまま幸子の髪を撫でた。

「疲れたんだね。今、紅茶を入れる」

 浩一は部屋の角に配置されたキッチンに向かった。

 幸子が腰を上げようとする。

「私が――」

 振り返った浩一は命じた。

「だめ。しばらくは俺が面倒を見る。お前にはまた、子供を作ってほしいからな。今度は絶対に守ってみせる」

 口調は、いつもの浩一に比べてもはるかに荒っぽかった。

 だが幸子は、にじむ涙をこらえられない。

「ありがとう。もう迷わない。あなたの赤ちゃん、産みます」 

 電気ポットのスイッチを入れた浩一は、幸子を見つめる。

「決心は変わらないな? 親父さんを説得しなくちゃならない。俺はもちろん、おまえの気持ちがぐらつくようじゃ一緒になれない」

 幸子もきっぱりとうなずいた。

「お父さんを捨ててもいい」

「今日からここに住め」

「はい」

 二人は互いの目を見つめて微笑み合った。

 その時、浩一の胸ポケットでコールドプレイの着メロが鳴った。浩一はわずかに舌打ちをしてから、仕方なさそうにiPhoneを取り出す。

「ディス・イズ・トム・スピーキング」

 バンド関係者に対するいつものジョークだ。幸子を見つめながら用件を聞く浩一の顔が曇る。

「――今から、ですか?」

 敬語を使うのは、相手が雇い主だからだ。

 幸子も不安を顔に出した。ようやく二人きりになれたのに、何があるというのか……。今夜は一人になりたくなかった。

 浩一はあきらめたように言った。

「分かりました。すぐ出ますよ」

 iPhoneを戻した浩一は、突進するように幸子にしがみつく。幸子の髪に顔を埋め、耳元につぶやいた。

「バイトに呼び出されちまった」

 幸子は観念している。

「行くんでしょう?」

「一日休むって言ったのにな……。仕方ないんだ。スタジオの仕事をしてればバンドの練習も安くすむし」

「いいのよ、気にしなくて……」

「抱きたかったのに……」

「バカ。次の検診まで禁止」

 浩一は幸子の耳を軽くかじった。

「掟破りはミュージシャンの特権さ」

 幸子は笑いながら浩一の身体を突き放す。

「急ぐんでしょう?」

 浩一が真顔になる。

「本当に大丈夫か?」

「平気。ミュージシャンの妻だもの。ツアーの間、一人で我慢するのよ。慣れておく」

「なるべく早く切り上げてくるから」

「待ってる」

 もう一度幸子の髪に触れた浩一はクローゼットを開けてシャツを着替え、壁のフックにかけたばかりの革ジャンをつかんで部屋を出ていった。

 ドアが閉まると、真空状態のような静寂が訪れた。幸子はまた長いため息を漏らした。ゆっくりと立ち上がってクローゼットから毛布を出すと、それかぶって再びソファーに横になった。思わずつぶやく。

「疲れた……」

 幸子は、いつの間にか眠った。病院では味わえなかった、深く、安らいだ眠りだった。

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