11

 女子高生と言っても通りそうな、小柄で幼い容貌の臨床心理士――長崎晴美は、身を乗り出して幸子に顔を近づけた。勢いで丸椅子がカタリと音を立てる。

「本当にあなた、小さな頃に虐待されたことはなかった?」

 ベッドに横になったままの幸子は、わずかに身を遠ざけた。

 きつすぎる香水が幸子を苛立たせる。静かに身体を休めるための病室が、警察の取調室のように息苦しい。

 幸子はわざとらしくため息をもらした。

〝お医者さんになったばかりで一生懸命なのは分かるけど……〟

 最初に病室でのカウンセリングに現れた時、晴美は目を輝かせていた。幸子が記憶を失ったことを聞いて、自ら担当を申し出たという。患者である幸子にも、その意図を隠そうとはしなかった。

『初めてのケースなの! お願い、協力してね! 珍しい症例を手がければ、男どもの鼻を明かしてやれるんだから』

 馴れ馴れしい態度も、街にたむろす娘たちを思わせた。最初こそその率直さが好ましく思えたものの、幸子はすでにこの面接にうんざりしている。

「虐待なんてありません。何度もそう言ったのに」

「覚えていないっていうこともあるのよ」

「覚えていないなら、いいじゃないですか」

「良くないわ。トラウマ――つまり、心の傷は、気づかないうちに行動を規制して――」

 幸子は珍しく声を荒らげた。

「もうやめて! そんなに私をモルモットにしたいんですか⁉」

 晴美は身体を離してしばらく考えた後、意外なほど真剣な眼差しで答えた。

「はっきり言うわね。ほんの一日でも、あなたが完全に記憶失ったことが気にかかるの。もちろん、私は目立った実績が欲しい。だから、あなたが珍しいタイプの患者――そうね、たとえば一般に言う『多重人格』みたいな症例だったらラッキーだななんて妄想もしたわ。でも、前の面接でちょっと恐くなっちゃって……いろいろ勉強してきたの。で、暴行事件の記憶を失くした原因は根が深いかもしれないって感じた。あなたは恐ろしい事件に巻き込まれた。それが恐ろしいことだけに、普通なら事件があったことは忘れられないでしょう?」

 幸子はつぶやいた。

「細かいことまで覚えていられないわ……」

「細かい記憶が不正確なのと次元が違う。あなたは、事件そのものを消してしまったのよ。記憶を『抑圧』したのかもしれない」

「抑圧……?」

「精神医学の専門用語。受け入れがたい恐怖を無意識の領域に閉じこめて、封印すること。心を傷つける現実を記憶の底に埋めてしまうの。そうして、過酷な体験を忘れる。主に幼児期に起きる現象で、性的虐待に遭った子供たちに多い症例よ」

「私はもう大人です」

「だからやっかいなの。『抑圧』っていうのは心を守ろうとする本能で、癖にもなりやすい。子供時代にこの方法で困難をやり過ごしてきた経験があると、成人してからもとっさに『抑圧』に逃げ込むケースがあるわけ。それこそ、多重人格の原因にもなったりする」

「ちょっと忘れていただけで、決めつけないでください」

 しかし晴美は、引き下がらない。

「気がかりなことは他にもあるわ。あなたは流産を悲しんでいない。私は赤ちゃんを失ったショックを一番警戒していたんだけど、むしろほっとしていたように見える」

 幸子は子供嫌いを見透かされたようで、ムキになった。

「いけませんか?」

 晴美はじっと幸子から目を離さない。

「ほら、苛立っている。図星? あなたは子供が好きじゃない。でも、それを隠そうとしている」

〝だって、浩一さんが赤ちゃんをほしがっているんだもの……〟

「だったら、どうだって言うんです?」

 晴美は幸子の質問を無視した。

「そしてもう一つ、気がかりな点。あなた、セックスを怖がっていない?」

 幸子は、自分の顔がいきなりほてったのを感じた。

「変なこと聞かないでください」

「今までの面接で、そんな風に見えたから。でもこれ、大事なことなの。これこそが、トラウマの具体的な症状なのかもしれないし」

「浩一さんとはうまくいっています。赤ちゃんもできたし」

「他の男の人とつきあったことは?」

 晴美に食ってかかるように反論していた幸子の勢いが鈍る。

「そんなこと……関係ないじゃない……」

 晴美は、納得したように小さくうなずく。

「いいのよ、話したくなければ。でも、私が言いたいことは分かったでしょう?」

「はっきり言ってください」

「あなたは子供の頃に心に深い傷を負った。それが原因で子供を嫌う――というより、恐れるようになり、妊娠につながるセックスも避けるようになった。そんな可能性がある」

「何も覚えていません。それなのに、いきなり虐待だなんて……」

「覚えていないことが恐いの。あなた、お母さんがいないと言っていたわよね。お母さんがいなくなったのが四、五歳かしら。その時期に『抑圧』しなければならないほどの恐怖を受けたなら、今回の一時的な記憶喪失は説明できる」

 背筋に、わずかな寒気が走り抜けた。

 幸子は母親の写真すら持っていないのだ。

〝母さん……? 私、母さんのことはよく知らない……。父さんは、『性格が合わなかった』と言うだけだし……覚えているのは……〟

 何年かぶりに思い出した記憶。泣いている母親。それを責める父――。

〝すっかり忘れていたのに……〟

 おそるおそる聞き返した。

「恐怖って、たとえばどんな……?」

「性的虐待や暴力。あからさまな無視や言葉での侮辱。あなたに直接被害がなくても、夫婦間の暴力という可能性もあるわ。子供にとって、親の喧嘩は恐怖だから。いずれの場合も、決定的に愛情が欠けていたはずね」

 泣いている母親――。

「私、愛されていました」

 晴美は皮肉っぽく応える。

「お父様に、でしょう? 娘の恋人を殴るほど、真剣に愛しているようね」

「父を悪く言うんですか? まさか、父から性的虐待を受けてただなんて――」

「そんなことは言ってません。でも、ちょっと過激な人だっていうことは確か。愛情の質も、行き過ぎてる感じ」

〝父が異常者だって言ってるようなものじゃない!〟

 腹は立ったが、父親の話題は避けたかった。浩一が殴られたことを思い出したくはない。

「母にだって愛されました」

「本当に?」

「だって、嫌いじゃないもの。嫌なことなんか一つもなかったもの」

「お母様との思い出は? はっきりした出来事を何か覚えてる?」

〝あなたには話せない〟

 幸子はたった一つの記憶を慈しむように目を閉じた。

 母親の顔が、ちらりと見えた。と、さらに細部が鮮明になる。

 目だ。

 悲しそうに、許しを乞うように幸子を見つめる母の目……。学生時代は、時折夢に見た。決まって、卵のようなのっぺりとした顔に、その目だけが張り付いていた。

〝母さん、つらいことがあったのかな……。まさか、父さんに暴力をふるわれていたとか……。だから、離婚したの……? いやね! 父さんがそんなことをするはずがない!〟

 やはり、正直に話す気にはなれない。

「まだ小さかったから……」

 それは、本心だ。両親の関係について知っていることは、ほとんどない。

「そうよね。つまりあなたの心には、あなたの知らないつらい過去が潜んでいる危険があるってこと」

「確実なことなんですか?」

「私の早とちりならラッキーだけど。可能性は低くない」

「でも、それで不都合があるんですか?」

「死ぬまで何も起こらないかもしれないし、今後の人生に重大な影響を与えるかもしれない。ただ、『抑圧』された記憶は、ちょっとしたきっかけで甦ることがあるの。パンドラの箱が開くみたいに。その時は危険よ。もしもあなたが子供時代の記憶を『抑圧』しているなら、そうしなければ生きていけないほど苦しかったから。そんな記憶が津波のように溢れ出したら、心がうち砕かれるかもしれない」

「じゃあ、どうしろって言うんですか……?」

「じっくり時間をかけて過去を探ること。そうすれば、極端なショックは避けられる。任せてくれる?」

 幸子は気づいた。

〝そうか。結局は実験台にしたいんだ〟

 幸子は、この個室から逃げたい衝動に駆られた。

「決めるのは退院してからでいいですか?」

「もちろん。急ぐことじゃない。でも、自分の心に恐ろしい記憶が埋まっているかもしれないことは覚えていてね。万が一の場合、気持ちの準備ができている方が有利だから」

 幸子は渋々うなずいた。

「分かりました。あの……ちょっと疲れたんですけど……」

 晴美はにこやかに答えた。

「眠った方が良さそうね。ま、あんまり考えすぎないで。今すぐどうこうって問題じゃないでしょうから」

 幸子は心の中で言った。

〝考えさせているのは、あなた。自分の手柄のために他人を病人にさせようとして。こんな病院へ戻るもんですか〟

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