9

 幸子は病室で目を覚ました。

 公園での暴行の翌朝のように。血まみれになった夜など、存在しなかったかのように……。

 だが、脳にこびりついた恐怖は鮮明だった。目覚めのまどろみの隙間に、麻薬常習者の禁断症状にも似た悪夢となって忍び込む。

 幸子は叫んだ。

「やめて!」

 誰かが、ベッドから跳ね起きようとする幸子の両肩を押さえた。

「落ち着いて!」

 幸子は、部屋が明るいことに気づいた。

 夜は去った。

 暴行魔も去った。

 恐怖は去った――。

 それが分かると、幸子の全身は弛緩した。固めのベッドに身を委ねる。それでも、心臓の高鳴りははっきりと聞こえた。

 自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

「朝なんだ……」

 幸子を押さえた男が、その手をゆっくりと離す。

「いきなり叫ぶから、びっくりしたよ」

 幸子は首をめぐらせて、始めてそこに人がいることに気づいた。反射的につぶやく。

「浩一さん……?」

 男は幸子を見つめて、微笑んだ。

「久しぶり。恋人でなくて、すまないね」

 男の口調は軽やかだった。軽やかな演技を命じられた役者のように。

 幸子はぼんやりと男を見つめた。意識が焦点を結ばない。

 太い眉と角張った顔、がっちりと張った肩。隙なく着こなしたスーツ――。

 幸子の胸はまだ大きく脈打ち、頭が働かない。男が誰だか分からない。親しい人物だという確信はあるが、思い出せない。気まずそうに視線を外す。

 と、サイドテーブルの本に目が止まった。男が読みかけの本を投げ出していたようだ。背表紙の題名が読める。『塵よりよみがえり』――レイ・ブラッドベリだ。営業員風のブリーフケースの上に置いてあった。

 男の正体に、ようやく思い当たった。

〝うそ……〟

 幸子は、驚きとともに上体を起こし、つぶやく。

「洋さん……いえ、西城さん? なんであなたが……?」

 西城洋は、文学サークルで将来を語り合った男だった。初恋の、そして手痛い失恋の相手だ。

 この病室にいることなど、絶対にないはずの男――。

 洋は幸子と目を合わせずに言った。

「高橋さんから聞いた。その……事件のことを。で、心配になって……。ナースさんも、容態はいいはずだからといって部屋に入れてくれた。元気そうじゃないか。安心したよ」

 幸子は小さく息を呑んだ。

 洋を見た驚きで頭から消えていた昨夜の恐怖が蘇る。

〝容態って……夜の怪我は⁉〟

 あわてて血まみれになった手のひらを見る。古傷の上に小さな切傷が一筋ついているだけだった。手当ての痕跡はない。

 洋の不思議そうな視線を気にしながら、薄い白衣の上からナイフでえぐられた肩に触れる。治療の痕跡はなく、痛みもない。

 記憶ははっきりしているのに、傷がなかった。

〝あれって……夢?〟

 幸子の動揺をいぶかる洋は、ゆっくりと言葉を選びながら説明した。

「夜、恐い思いをしたそうだね。ナースが廊下で取り乱している君を見つけたんだって。先生が駆けつけて鎮静剤を打ったらしい。その先生――精神科の若い女の先生なんだけど、実は君を一人にしたくないそうでさ。僕が暇だと言ったら、午後まで話相手になってほしいと頼まれちゃって……。今日は君のお父さんが忙しいそうで……」

 幸子は棘を含めた口調で言った。

「でも、なぜあなたが……」

 同時に、昨夜の恐怖の正体を思い知った。

〝妄想……だったんだ……〟

 だが、妄想に振り回されたことを深く考える前に、洋への怒りが湧き上がる。

 洋は、幸子が会いたくない男の一人だ。忘れ去ろうと決めた、忌むべき過去だ。

 その過去が、否応なしの幸子の脳裏に蘇る――。

 出会ったきっかけは、持っている本が同じだったことだ。レイ・ブラッドベリの『何かが道をやってくる』。幸子がアマゾンで探したその文庫を、洋は中学時代から愛読していたと言った。二人はブラッドベリを、そしてあらゆる文学を語り合った。幸子には、洋の逞しさがまぶしかった。

 酒乱の父親、言いなりの母親、絶え間ない暴力――。それが、幸子が聞かされた洋の幼年期だ。高校時代に父親が死に、生活はどん底まで落ちたという。それでも洋は本を読み、学力を磨いて奨学生の権利を獲得した。アルバイトで学資を稼ぎ、空手の段位まで手にしていた。確かに、他の学生に比べて洋の暮らしぶりは慎ましかった。だが、何事にも前向きだった。幸子は敬意を抱いた。貧しさをはねかえすような、賢く、明るく、優しい青年の生き方に感動し、共に生きたいと願うようになった。

 洋も、幸子に好意的だった。だが結局は、幸子の友人との交際を選んだ。

 洋への愛情が深かっただけに、落胆も大きかった。幸子は浩一に出会うまで、洋のことは忘れられないだろうと諦めていた。

 ようやく忘れたその時に再会するなどと、予想できるはずもない。

 洋は、当然の事のように言った。

「友人じゃないか。見舞いぐらいは当然さ」

 幸子はしかし、苛立ちを隠せない。

「友人、ね……。便利な言葉よね……。でも、お医者さんはどうして面会を許したのかしら……。暴行された直後なのに……。友達だって言っただけで信用しちゃうわけ?」

 思わず口にした言葉は、病院の保安体制への疑問というよりは、洋がそこにいるという現実への不満だった。

 洋はしばらく考えてから、ゆっくりと応えた。

「先生は言っていた。君の身体に異常はない。すぐに退院できるほど回復してるって。でも、問題は心にある。事件のショックで精神状態が不安定なんだそうだ。こんな時は世間話でもしているのが一番薬になるらしい」

 幸子は心の内でつぶやいた。

〝なにが友達よ。裏切ったくせに。一緒に暮らして、あなたのお母さんを『お母さん』と呼びたかったのに……。話相手は欲しい。でも、あなたはいらない〟

 洋は幸子の冷たい視線を見返せずに、またも目をそらした。

〝後ろめたい気持ちが残っているの?〟

 と、幸子に疑問が芽生える。

「何曜日?」

 洋は幸子を見た。

「え?」

「今日は何曜日?」

「水曜……だけど?」

「会社は? 勤めているんでしょう?」

「たまたま休みが取れたんだ。誕生日休暇ってやつ。誕生日は今日じゃないけど、前後一ヵ月の間に休みがもらえる」

 誕生日――。

 幸子は不意に、洋と祝った誕生日を思い出した。父親には女友達と一緒だと偽り、洋のアパートで小さなデコレーションケーキを切った。朝まで帰らなければ、幸子の人生は違った道を進んだかもしれない。しかし九時を過ぎた時、幸子は『門限が厳しいから』と言って部屋を出た。

 門限などなかった。恐かったのだ。

 幸子にはなぜか、幼い頃から性への抵抗があった。年頃になっても、女友達があからさまに語りあう体験談を、義務として聞き流していた。洋と知り合うまで、男と触れ合うことには不潔さしか感じなかった。

 洋には抱かれたかった。だが、できなかった。性への嫌悪を乗り越える時間の猶予も与えられなかった。

「そうか……誕生日、だよね……」

 洋はうなずいた。

「あさって、二十六。オヤジ 、だよな……」

 幸子の心に、奇妙な懐かしさがあふれた。

〝私、わざわざケーキに洋さんの名前を書いてもらったんだっけ……。子供みたいだなって笑われて、その後で、生まれて初めてだって涙をぽろぽろ落として……〟

 憎むべき相手なのに、怒りの矛先が鈍っていく。心臓の鼓動が、また聞こえてくる。

「美樹ちゃんと結婚してないの?」

 高橋美樹――。幸子から洋を奪った、親友だ。大学卒業後、美樹は東京に就職したと聞いた。それ以来、連絡は取っていない。

〝でも、美樹ちゃんがどうして事件を知っていたの……?〟

 洋はすまなそうに言った。

「六月に式を上げる。式には君にも来てほしいんだけど……」

 幸子は無視した。再びベッドに横になる。

「昨日の晩……何があったのかしら。覚えていないの。ただ恐かったことと、血まみれになったことしか……」

 洋は幸子の素っ気ない態度に不満も見せずに、うなずいた。

「先生が教えてくれた。君がトイレに入った後、患者が電気を消したんだって。つけっ放しにしたと勘違いして、気を効かせたらしい。トイレの電気は消さない決まりになっているらしいけどね。閉じこめられたと思った君は悲鳴を上げた。電気を消した患者は中に戻って、助けようとした。でも君は興奮して、暴れたらしい。コップを割ってちょっぴり怪我をした。誰かがガラスのコップを置きっぱなしにしていたそうだ。君はそのまま廊下に飛びだした。すぐにナースが来て、先生を呼んだ。で、鎮静剤を打った。まあ、ひどい事件に巻き込まれた後だから、気持ちが高ぶっていて当然だよね」

 幸子は、ぼんやりと洋を見た。

〝あれ……やっぱり妄想だったんだ……。そうよね……怪我だって、かすり傷なんだから。現実のはずはないか。疲れたのかな……〟

 と、昨日の恐怖のひとかけらが、妙に鮮明に思い浮かんだ。

 割れたコップ。血染めの壁。トイレの中に人を残して廊下に飛び出すと――そこには黒ずくめの陰が立ちはだかっていた。

 あの、陰が――。

〝あの男も妄想……?〟

 洋が言った。

「おいおい、昨夜のことを思い出してるんじゃないだろうね。忘れなくちゃだめだって」

 幸子の目に意志の光が戻った。

「トイレに来た患者さんの他に、廊下に誰かいなかった?」

「は? 聞いてないけど」

「廊下に男がいるのを見た気がする。私を待ち構えて、捕まえようとした男……。私、狙われているのかも。公園で私を襲った、黒ずくめの男に……」

〝そうよ、だからこんなにどきどきするのよ。初めて面会に来た男を個室に入れてしまうなんて……。『友達だ』なんて嘘なら、誰にだってつけるもの。もしも誰かが私の命を狙っているなら――〟

 洋は言った。

「待ち伏せしていたなら、ナースに姿を見られたはずだ。思い過しじゃないか?」

〝思い過し……? 簡単に言ってくれるわよね。公園で襲われたのに。でも……結局傷はなかったし……やっぱり神経質になりすぎかな……〟

 幸子は白い壁を見つめてつぶやいた。

「そうよね……もし変質者が夜の病院をうろついたら、大事件だものね……」

「そもそも、誰かが君を狙っているなんてことが考えすぎだ。事件は、通り魔の仕業さ。相手は誰でもいいっていう変質者だ。君を選んで襲ったわけじゃない」

「そうならいいんだけど……」

「心配かい?」

「正直言って、すごく恐い」

 洋はわずかに考えてから答えた。

「僕がボディーガードになろうか?」

 幸子は首を回して洋を見た。

 洋の言葉が冗談なのか本気なのか、表情からは判断しかねた。

 洋は空手が得意で、人を護衛できる実力を持っている。だが、一度見捨てた女に、それも精神的なダメージを受けている女に言うべきことだとも思えない。

 しかも今の幸子には、浩一がいる。

「ありがとう。でも、守ってくれる人はいますから」

 洋は苦笑いを見せながら言った。

「にらまなくたっていいよ。でも、役に立てることがあるなら遠慮しないで言ってほしい」

 幸子は繰り返した。

「ありがとう」

「他人行儀だな。まあ、それも仕方ないけど……。でも、これだけは忘れないで。心配はいらない。君がつけ狙われるなんてことは、絶対にないんだから」

「どうして断言できるの?」

「他人に恨まれるような人じゃない。僕にはよく分かっている」

 幸子は心の中で自嘲気味につぶやいた。

〝その程度の女、って意味。ストーカーに狙われるほど、美人でもチャーミングでもない。恋人を友達に奪われるような、間抜けな世間知らず。浩一さんがいてくれなければ、誰にも相手にされないオバサン……〟

 その気持ちを見透かしたように、洋が言った。

「彼氏ができたと聞いて、うれしかったよ」

「誰が言ったの?」

「高橋さん」

 幸子はうんざりしたように溜め息をもらす。

「何でも知っているのね。連絡も取ってないのに」

 関係を絶った高橋美樹が、近況を詳しく知っていることが不可解だった。しかも美樹は東京に勤めを持っている。札幌に住んでいるはずの洋と結婚話が進んでいるというのも奇妙だ。だが、かつての恋敵の消息を詮索する気は、もちろんない。

 もはや、自分とは関わりのない別世界の出来事だ。

 洋は視線を床に落とした。

「彼女は彼女なりに、君を心配している。直接連絡しなくても、友人に尋ねたりしてね。僕の件があるから余計に気を使っちゃって。ま、僕自身もこんな事件がなければ、君に会おうとは思わなかったけど……」

 幸子の心に、明確な疑問が浮かんだ。

〝美樹が私のことを気にしていた……? だからって、どうして入院まで知っているの? どうしてこんなに早く洋さんが来たの?〟

 じっと洋の表情を観察しながら、問う。

「あなた、正木さん覚えてる?」

「真奈美さん……かい? ああ」

「美樹ちゃんから、真奈美のこと何か聞いてない? 札幌に帰ってきたって聞いて電話したんだけど、会えなくて……」

 洋は気まずそうに目をそらしたままだ。

「何も聞いていないけど」

〝なぜ私のことしか知らないの……?〟

「美樹ちゃん……どうやってこの病院を探したのかな?」

 洋は幸子と目を合わせなかった。

「偶然さ。君に連絡を取ろうとしたんだけど携帯番号が変わってて、お父さんに聞いたらしい。で、大変なことになっていたと分かった」

「連絡? 何年も話したこともないのに?」

「だから、僕たちの結婚のことで……」

 洋は言いよどんだ。身体と心に傷を負ったかつての恋人に言うべきことではない。

「父さんに連絡したの?」

「うん。僕も今朝、警察へ行って会ってきた。お父さんから、僕が見舞いに行くことを病院に伝えてもらったんだ。だからこうやって病室に入れてもらえた」

 幸子は、病院の保安体制にミスはなかったことを納得した。

 大介は、一度だけ洋と顔を会わせている。娘の恋人、として。

 大介は洋を嫌い、失恋後の娘の落ち込みようも目のあたりにしてきた。洋の顔は忘れていないはずだ。

 幸子はふと考えた。

〝父さんが浩一さんを遠ざけようとするのは、二度目の失恋を恐れているからなのかも……。でも、それならなぜ洋さんを来させたの……? あれほど落ち込んだ失恋を思い出すって分かりきっているのに。洋さん……なぜ、あなたは来たの……? 美樹ちゃんと結婚するのに……〟

 そして幸子は、気持ちを固めた。父親に結婚を懇願する浩一の姿を頭に思い浮べて、平静を装う。

「偶然ね。私も近々結婚することになりそう。一緒に式を上げたりしてね」

 洋は、かすかに引きつったような微笑みで応えた。

「どんな男?」

「気になる?」

「君にふさわしい人ならいいな、って……」

 幸子は洋から目をそらさなかった。

「私は愛されています。それだけで充分。あなたたちの結婚式には、浩一さんと一緒に出席するわね」

「浩一……?」

 幸子は心の中でつぶやく。

〝しらばっくれて。名前ぐらい知らないわけがないじゃない。私はもう、同情されるほど哀れな娘じゃないのよ〟

「旦那様になる人よ。ハーフのミュージシャン。きっとビッグになると信じてる。私たち、必ず幸せになるわ」

 洋は幸子の信念の強さに驚いたように彼女を見つめてから、小さくうなずいた。

 その時、病室のドアがスライドした。開けたのは浩一だった。左の頬に大きなガーゼが貼られ、テープで止めてある。

 幸子は飛び起きながら言った。

「浩一さん! 大丈夫⁉」

 男の見舞い客がいることを知った浩一は、戸口で止まった。振り返った洋をしばらく見下ろす。そして、ゆっくりと言った。

「俺はもう退院だ。手加減してくれたおかげだな。壁、見たか? あの前に立たされていたら『天国への階段』だった。この方は?」

 幸子が説明する前に、洋が席を立って頭を下げた。

「西城洋です。幸子さんとは大学時代の友人でした。今回の事件のことを知り合いから聞いて、お見舞いにあがりました」

 浩一は鋭い視線を洋に叩きつけている。

「あんたか。幸子を捨てて、社長令嬢とよろしくやってる坊やは」

 幸子は浩一に、過去を隠してはいなかった。洋のことは、出会って半月ほどした頃、最初に抱かれた翌朝に話している。その頃は、隠し事をしてやましい気持ちで交際するより、真実を告げて破綻した方が楽だと思っていたのだ。

 自分が浩一とは不釣り合いなことは分かってる。いつか破局が訪れることも覚悟していた。あえて自分に不利な過去を打ち明けたのは、無意識のうちに浩一の気持ちを計ろうとしたからかもしれない。

 幸子は浩一に言った。

「お願い、そんな言い方はしないで」

 言ってしまってから、幸子は自分の言葉を不思議に思った。

〝なんで洋さんをかばうの? 腹が立って仕方なかったのに……〟

 浩一は幸子を優しく見つめる。

「相変わらずのお人好しだな。だが、事実だろう? お前には、俺がいる。こんな男に気を使うな」

 洋は言葉を返さなかった。

 浩一は洋をみらみつけた。

「何のつもりで来たのか知らないが、あんたの用事は終わった。出口はこっちだ」

 浩一は病室に入って、戸口を指差した。

 洋は幸子に軽く頭を下げ、自分の荷物を取った。

「じゃあ、お大事に。また連絡する」

 浩一は洋の腕をつかんで、振り回すようにして廊下に押し出した。

「もう用はない」

 そして浩一はドアを閉め、椅子に座った。

「あいつ、何しに来た?」

「お見舞い……って言っていたけど」

「信用できるか?」

「え? どういうこと?」

「何年も会っていないんだろう? なんで急に?」

 幸子も素直にうなずいた。

「私も不思議……」

 浩一は身体を乗り出して幸子の目を覗き込み、声をひそめた。

「さっき、ナースから妙なことを聞いた。お前、トイレで気を失ったんだって? その時廊下で、男の人影を見た気がするって言うんだ。逃げるような後姿を……」

 幸子は息を呑んだ。

〝本当に男が来ていたの……⁉〟

 その瞬間、幸子はかすかな柑橘系のコロンの香りを嗅いだような気がした。

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