8

 夜だった。

 時間は分からない。部屋は暗い。ベッドの上に常夜灯がぼんやりと点っているだけだ。遮光カーテンの隙間から満月が見えた。淡い光が、かすかに幸子の顔を照らしている。

 目覚めの前の、朦朧とした時間はなかった。スイッチを入れた電球のように、全てが目を開くと同時に頭に浮かんだ。

 ここがどこなのか、なぜ自分がいるのか、何が起こったのか――。

〝私、また気を失ったのね……。今まで、そんなことなかったのに……〟

 幸子は意識を回復したとたんに、浩一を殴り倒した父親の言葉を思い出す。

『……三枝を殴った……』

〝浩一さん、怪我は⁉ 父さんに本気で殴られたら――〟

 その瞬間、異変が起きた。数時間前まで全く思い出せなかった暴行事件が、鮮明に脳裏に沸き上がったのだ。

 滑り台の冷たい階段、黒ずくめの暴漢の息づかい、口に入り込む砂粒、毛糸の帽子の肌触り、股間をまさぐる手の感触、そして野良犬の糞の臭い――。

 思い出したくない記憶がひと固まりになって、氾濫する。

 それは、脳が正常に戻ろうとする、残酷な本能だった。

 幸子は無言で涙を流した。

〝そうだったんだ……だから赤ちゃんが……浩一さんの赤ちゃんが……。こんな記憶、消えたままでよかったのに……〟

 そう考えた瞬間、思わず口に出していた。

「だめ。そんな弱気じゃだめ。私は浩一さんと結婚する。誰が何と言おうと結婚する。強くなるのよ。父さんを捨てるんだから……」

 幸子は、自分が発した言葉に驚いた。

 これまでの幸子にはなかったことだ。困難から顔をそむけ、自分の弱さを宿命と言い聞かせ、逃げ続けていた過去――。浩一との関係も、その弱気が原因で一線を超えられずにきた。結婚をせがんで破局を迎えるより、不安定な関係を引き延ばすことを選んでいた。

 なのに、浩一は本気だった。父親に殴られてまで、結婚を懇願した。妊娠、そして流産を知っていたのに――。

 逃げるわけにはいかない。

〝大人になるのよ。父さんから離れなくちゃ……〟

 と、ドアがスライドする微かな音が聞こえた。

 ゴロ……。

 幸子は身をすくめた。暴漢に襲われた時の息苦しさが、タイムスリップしたように蘇る。冷たい滑り台に押し付けられた時そのままに、全身が凍りついた。声も出せない。

〝いや……〟

 ゆっくりとドアが開いていく。

 ゴロゴロ……。

 身体と同じように痺れかけた脳の中で、片隅に追いやられていた理性が、恐怖を押し退けて叫ぶ。

〝強くなるのよ!〟

 幸子は震える声を絞り出した。

「誰……?」

 相手の返事は、まるで『セサミストリート』の住民のように屈託がなかった。

「あら、起きてた? よかった、体温を計りにきたの。照明、点けてもいい?」

 若いナースだった。

 幸子は詰めていた息をそっと吐き出した。

〝現実なんて、こんなもの……。びくびくすることはない。怯えるから、恐いだけ。私が思っているほど、この世は悪くないのよ。もっと常識を身につけなくちゃ……〟

 ナースは穏やかに繰り返した。

「電気、いいかしら?」

 幸子は我に返って答えた。

「ええ」

 部屋に蛍光灯の鋭い光があふれた。二十歳そこそこにしか見えない小柄なナースは、口元にかすかな笑みを浮かべている幸子を意外そうに見た。

「元気になったわね。見違えちゃう」

「ずっと見ていてくださったの?」

「仕事、ですから。患者さんが回復していくのって、見ていてすごく楽しいの」

 幸子は、ナースのうちとけた口調に素直にうなずく。

「私、なんだか生まれ変わったような気分。雷にでも打たれたみたい。ひどいことばかり起こったけど、世の中には同じぐらいいいこともあるのよね」

「劇的な体験ね。神様でも現われた?」

 ナースは毛布を除けると、慣れた手つきで幸子の脈を取り始める。

 幸子は照れながら言い訳ぎみに言った。

「神様なんて大げさなことじゃないけど……。私って気が弱いから、追い詰められないと簡単なことにも気づけないみたいで――」

 ナースは唐突に声を上げた。

「あ、そうか! あなた、あの彼の⁉」

 幸子は反射的にナースの手を両手で握った。

「浩一さん? 怪我は⁉」

 ナースは幸子の目をじっと覗き込んで大きくうなずく。

「大丈夫。見た目ほどひどくはなかったわ。ナースステーションは彼の話で持ちきり。結婚を申し込んでお父さんに殴られちゃったんだって? 目撃できなくてがっかり。あ、ごめんね、不謹慎よね。でも、本当に映画みたい。彼、アメリカの方? トム・クルーズに似てない?」

「お父さんがハーフ。浩一さんもこの病院に?」

 ナースはうなずいた。

「ご心配なく。出血は多かったけど、浅い切り傷と打ち身。骨は無傷。傷が治ったって、鼻が曲がったらがっかりだものね。彼みたいな美形が壊れたら、全女性の損失よ」

〝よかった……無事だったんだ……〟

 しかし、浩一を殴った瞬間の父親を想像したとたんに、幸子は顔を曇らせた。

「父さんの手は?」

 ナースは体温計を取り出しながら答えた。

「指の骨に一本、ひびが入っていたって。相当痛んだはずだけど、テーピングだけでずっとあなたを看ていたのよ。十時頃に警察から呼び出されて、帰ったそうだけど。なんであんなに怒ったの?」

 言いながら、ナースは体温計を幸子の脇の下に差し入れる。

 幸子は父親が帰ったと聞いて安心した。ナースの打ち解けた口調にも、すっかり気を許していた。ゴシップ話の材料にされる危険も思い浮かばずに、ありのままを答える。

「結婚に反対なの」

「赤ちゃんのこと、言ってなかったんだ」

「それだけじゃないけど……」

「だからって、殴らなくったってねえ」

「かっとすると見境がなくなるから……」

「刑事さんなんでしょう?」

「暴力団相手。だから、気が荒くて……。でも父さん、本気で怒ってた。浩一さん……死んじゃうかもって、怖くて……」

 ナースは肩をすくめた。

「ほんと、二発めのパンチが当たっていたら、病院の出番はないわね。わざと外したみたい。うち、建物が骨董品並みでしょう。コンクリートが剥げちゃってさ。ま、やっと建て替えることが決まったから、壊れてもかまわないんだけど」

 幸子は事実を知った。

 大介は怒りを吐きだすために壁を殴った。そこまで高ぶりながらも、浩一の命を危険にさらすことを避けたのだ。土壇場での冷静さは、刑事という職業に欠かせない才能なのかもしれない。

「それなのに父さん、ずっと私を看ていたんだ……」

 ナースはうなずく。

「まるで奥さんに付き添っているみたいに、ね」

「父さん……」

 と、ナースは不意に笑い声をもらした。

「そうそう、外科の先生があなたのお父さんはもう診たくないって。『三枝を娘に会わせたら殴る』って脅かされたらしいの。はっきりは言わなかったけど。あの先生ね、『ジムで磨いた筋肉を見たいか』って、ホテルに誘うのよ。大胸筋をぴくぴくさせて。びびったなんて言い触らされたら、格好悪くて奥の手が使えないものね」

「父さん、そんなことまで……」

 ナースは、幸子の浮かない表情に気づいたようだった。

「あら、ごめんね、私って話しすぎ。いつもこうなの。怒った?」

「いいの。ただ私、父さんが帰ったって聞いたんで、うれしくて……。一人で育ててくれた父さんなのに……」

 ナースはさらりと答えた。

「父親よりカレシが大事。まして相手が彼なら」

「でも……」

 と、ナースは真剣な目で幸子を見つめた。

「今は、そんなこと考えないの。彼が大事なら、頼り切ってしまいなさい。この仕事をしてると、心を病んだ人にもたくさん出会う。それって案外、病気で死んでいく人を看取るよりつらいの。あなたは恐い体験をした。それを一人で抱え込んじゃだめ。お父さんに済まないなんて思ってもだめ。楽しいこと、うれしいことだけ考えなさい。お父さんへの償いは、元気になってから考えればいいから」

 幸子は、子供っぽく思えたナースの、経験に裏打ちされた言葉にうなずかされた。

「そうね。退院するのが先よね……。でも、今は浩一さんに逢えないんでしょう……?」

 ナースは含み笑いをこらえる。

「三枝さんは一晩だけの入院だって。明日の朝は 退院できる。でも、今のあなたの身体じゃ会わせるわけにいかないな。ラブホじゃないんだから。私たちだけならともかく、うるさい先生も多いしね」

 幸子は顔を真っ赤にしてつぶやく。

「そんなつもりじゃ……」

「バカね、冗談よ。で、どう? 具合は? どこか異常はない?」

「ええ、別に……」

「トイレは?」

「トイレ……って?」

「おしっこ、うんちはしたくない? この部屋、トイレが付いてないから、連れてってあげるけど?」

 幸子は思わず小さな笑い声をもらした。

「ナースさんって、お小水とか言うんじゃないの? なんだか、幼稚園の先生に『お昼寝しなさい』って言われたみたい」

「私って、そんなに変? だって、若い患者さんにお小水って言ったって『それ、何ですか』って聞き返されるんだもの」

 幸子は、相手がナースだとはいえ、自分の排泄物を見られたくはなかった。

「自分で行きたいんだけど……」

「中までは入らないって。体温を計ったら、一緒に行ってみようか」

 五分後、幸子は薄暗い廊下を自力で歩き、トイレへ向かった。ナースはいつでも助けられる体勢で、ぴったり後をついてきた。ベッドを降りても幸子の足は震えず、壁の手摺りに捕まってゆっくり進めば問題はない。

 結局最後まで手を出さずに幸子を見守っていたナースは、トイレの前で微笑んだ。

「もう一人で大丈夫。あなた、自分で思っているよりずっとしっかりした人よ。素敵な恋人もいるんだから、自信を持ってね」

 幸子は驚いたようにナースを見つめた。

「そんな……」

 ナースは明るく応えた。

「じゃ、他の患者さんのところにいくから。何かあったら、ボタンで呼んで。トイレや廊下に、呼び出しボタンがついてるから」

 幸子も微笑み返す。

「ありがとうございます」

「いろいろあるみたいだけど、頑張ってね」

「うん。浩一さんがいるから」

「ほら、やっぱり。ホント、羨ましいわね」

 ナースは小さく肩をすくめてから、次の病室へ向かった。

 廊下の端の暗がりにとけ込んでいく白衣の背中を見つめながら、幸子はつぶやいた。

「そうよ……もっともっと羨ましがられるように、幸せになってやる」

 それは深夜のトイレにとり残された不安を拭い去る呪文のようでもあった。ひんやりとした薄暗い廊下は、なぜか暴漢に襲われた公園を思い起こさせる。

 幸子はおぼつかない足取りで、トイレのドアを押した。古いドアの蝶番が軋んで、予想もしていなかった大きな音をたてた。

 ギ……。

 一瞬、ブランコが軋む音に思えた。悪魔の囁きにも聞こえる。

〝なんか、恐い……。ナースさんに待っていてもらえばよかった……〟

 振り返ってナースの後ろ姿を求めたが、すでにどこかの病室に入ったようだ。

 心の片隅に恐怖がにじみ出す。張り詰めた心にあいた、蟻の巣のような穴――。

 トイレの中も明るくはなかった。蛍光管は一本残らず黒ずみ、タイル張りの壁もくすんで見える。床からは消毒の匂いとアンモニア臭が立ちのぼってくる。

 かすかだが、幸子にとっては無視しようがない刺激臭だ。犬の糞の臭いが甦る。

 うっとむせて鼻に手を当てた幸子は、足元をふらつかせた。しかし、尿意は限界に近い。ナースに排泄を促されるよりは、消毒の匂いに耐えるほうがたやすい。

 幸子は意を決して、トイレの入り口に並べられていたスリッパに履き替えた。自分に言い聞かせる。

〝恐いのは、夜中だから。病院に暴行魔は来ない。それが常識。常識を信じなくちゃ〟

 スリッパがタイルをこする音が、異様に大きく反響する。一番手前のドアに入って便座に腰掛けた幸子は、自らを励ました。

〝トイレでびくびくするぐらいじゃ、とうていお父さんを説得できない〟

 放尿の快感が、緊張を和らげていく。ふっと意識が遠のくような甘い虚脱感の中で、幸子は横の壁に取り付けられた赤いボタンを確認していた。

〝何かあったらこのボタン、ね〟

 放尿を終えた時、かすかな物音がした。

 ぱたん……ぱたん……。

 トイレの中ではない。入り口前の廊下を歩くスリッパの音らしい。

〝誰か来たの?〟

 緊張がよみがえった。幸子の背に、ちくちくするような痛みが走る。それを打ち消すように、素早く理性が動きだす。

 深夜でも、患者がトイレに来ることはある。自動販売機を利用する者、喫煙室に向かう者もいるかもしれない。廊下の足音など、恐れるに足りない。

 それが常識だ。

 幸子は急激に高鳴る心臓を抑えようと、深呼吸をした。

「常識よ……大丈夫……大丈夫だから……」

 しかし言葉とは裏腹に、動悸は激しくなっていく。またしても、公園の暗がりの情景が浮かび上がった。出血でぬめる股間の感触までがくっきりと蘇る。

〝いや……思い出したくない……お願い、通り過ぎて。トイレに入らないで……〟

 ぱたん……ぱたん……。

 音が止まった。そしてドアが開かれる。

 ギ……。

 悪魔の囁き――。

 幸子は息を殺して強ばった。力が抜けた腰を便座から離せず、両手を固く握りしめる。

 思い過しであることは分かっている。ほんの数分間の恐怖をこらえれば、相手が誰であれ、用をすませて戻っていく。そして、自分の気の弱さを笑い飛ばせる。それが常識だ。理性が支配する、この世の仕組みだ。

 ほんの数分、我慢すれば……。

 間違いだった。

 トイレに入った何者かは、女にしては異様なほど低くかすれた声でうめく。

「やっぱりな……バカな奴」

 そして、照明が消された。

 非常灯のグリーンの明かりは残ったが、無意味だ。個室に届く明かりはわずかで、蛍光灯に慣れた目には暗黒に等しい。

 幸子は、自分が息を呑む音をはっきりと耳にした。

〝誰⁉〟

 声は出なかった。再び悪魔の囁き――。

 ギ……。

〝誰かがまた来る! 恐い!〟

 怯えていることを認めた瞬間、身体の呪縛が解けた。暗がりの中、必死に壁を手で探った。突起物が触れる。探し求めるボタン。

『何かあったら――』

 指でボタンを押し込むと立ち上がり、無意識のうちにパンティーを上げていた。

 ぱたん……。

〝あ……〟

 さらなる足音を耳にすると同時に、幸子の足から力が蒸発した。

 幸子は海底から釣り上げられた軟体生物のように、ぐにゃりと倒れた。蓋を開けたままの便器に腰が当たって身体が傾き、壁との隙間に上体が挟まる。自分が脆く崩れるのを感じながら、それでも幸子は姿勢を保つことができなかった。

 壁が頬に冷たく当たる。不意に、強烈なアンモニア臭が鼻に飛び込んだ。ナイフの刃のように脳に突き刺さる、排泄物の匂い。

 幸子の意識は、深夜の公園に飛んだ。

 犬の糞。コンビニのアイスクリーム。ナイフ。血の匂いがするブランコ。出血。ジャングルの昆虫――。

 手で触れられそうなほどに現実的な記憶が、ダリの絵画のように歪み、絡み合って膨れあがる。そして狂暴なイメージは、一つの姿に収斂した。

 強姦魔のナイフで股間から掻き出される胎児――。

 幸子には、気を失うことさえ許されなかった。

〝ベリーショートにしなくちゃ……〟

 誰かが悲鳴を上げる。消毒と排泄物の匂いが充満したトイレに、運命の瞬間を迎える死刑囚のような悲鳴が炸裂する。

 悲鳴を上げたのが自分だと分かったのは、次の恐怖に直面した時だった。

 個室のドアが叩かれている。激しく叩かれている。誰かが、何か叫んでいる。だが、その言葉の意味は幸子の脳に届かない。

〝やめて、やめて! 放っておいて!〟

 耳を塞ごうとした。手が動かない。壁と便器に挟まって、自由にならない。

 ドアが叩かれている。誰かが叫んでいる。

〝来たんだ……あいつが来たんだ……私を犯しに……また来たんだ……なぜ……〟

 幸子は理解した。

〝運命なの?〟

 そして決断した。

〝戦う〟

 幸子は立ち上がっていた。

 墓穴から現れる幽霊のように、狭い隙間から一瞬で立ち上がった。鍵を解除する。

 外側からドアが開かれた。

 誰かが立っていた。薄暗い空間の中に、さらに暗い陰。暗やみからにじみ出てきたような黒い人物。幸子をつけ狙う、何者か――。

 幸子は力任せに陰に体当たりしながら、個室から飛びだした。陰が何か叫ぶ。声は耳に入らなかった。幸子は黒ずくめの相手の口が――そこだけ真っ赤に彩られたような口が、ぱくぱくと開かれるのを見ただけだった。

 幸子は出口に向かって走ろうとした。だが、後ろから腕をつかまれた。

 幸子は叫んだ。

「いや!」

 おもちゃ屋の店先で駄々をこねる幼児のように叫んで、身を捩る。意識は真っ白で、何も考えられない。ただ身体が、激しい恐怖に突き動かされる。

 幸子は腕を大きく振り回した。陰の手が離れる。勢い余った幸子の手は、手洗い場の棚のガラスのコップに当たった。コップは跳ねとばされ、反対側の壁にぶつかって砕けた。ガラスの破片が舞い飛ぶ。その一片が、幸子の手のひらに突き刺さった。

 幸子は動きを止めた。

〝あ……〟

 幼い頃に切った手の傷が、ざっくりと開く。鮮血が吹き出す。血しぶきが、トイレの壁一面を真っ赤に染め上げていく。

 かつて一度だけ見て吐き気をもようした、黒澤明の『椿三十郎』の決闘シーンのように――。

「いやぁぁぁ!」

 不意に、幸子の身体は自由になっていた。誰かの叫び声がする。意味は分からない。分からない。

 幸子は、ドアに体当たりして廊下に飛びだした。

 そこにも男がいた。全身真っ黒で、顔の分からない男。もうひとつの陰。

 陰が先回りをしたのか――。

〝うそ⁉ なんで外にいるの⁉〟

 真正面に立った男が、両手で幸子の肩を抑える。男の顔の真ん中で、真っ赤な口がぱくぱくと動く。太りすぎた錦鯉のような口。

 分からない。分からない。分からない。

 幸子は陰をなぎはらい、無意識のうちに自分の病室をめざした。走り出した幸子を追いかけてきたのは、匂いだった。

 深夜の公園で嗅いだ、柑橘系のコロン。

〝あいつだ! 殺される!〟

 続いて足音。引っきりなしに聞こえてくる陰の声は、意味がまったく頭に入らない。それなのに、かすかな足音だけはくっきりと聞こえる。

 ぱたん……。ぱたん……。

 急いではいない。しかし、確実についてくる。

〝追ってくる! 殺しにくる!〟

 幸子は走った。壁に手を突きながらも、全力で走った。走っているはずだった。

 だが、ゆっくりと後を追ってくるスリッパの音は、幸子から少しも離れない。

 ぱたん……ぱたん……ぱたん……。

〝もっと走るのよ!〟

 と、手が壁に吸いつくように止まった。

 幸子の身体は、壁から離れようとしない手に引き戻されて反転した。壁に目が止まる。

 禿げた塗料。えぐれたモルタル。かすかにこびりついた赤黒い色……血、だ。

 大介が怒りに任せて拳を叩き込んだ場所だった。

〝助けて……父さん、助けて、殺される……〟

 幸子の足から力が抜けた。その場で座り込む。

 ぱたん……ぱたん……ぱたん……。

 幸子は両手で頭を抱え込む。だが、理性はひとかけらだけ残っていた。

〝戦うのよ! 浩一さんのところへ帰るのよ!〟

 幸子はうずくまったまま目を開いた。上目づかいに陰を探す。

 陰は、目の前に立っていた。怯えてうずくまった幸子を、じっと見下ろしている。

〝いや!〟

 陰の中の真っ赤な口が開く。何かしゃべっている。

 分からない。分からない。分からない。

 黒ずくめの陰から、手がのびた。そこだけ白い手のひら。何かが光る。光る。

〝ナイフ⁉〟

 陰は、幸子に向かって手を突きだした。

 幸子の肩に衝撃が走る。またも吹き出す鮮血――。

 真っ赤な口が、にやりと歪む。陰はさらに幸子を刺そうと身構える。

〝やめて!〟

 と、陰は不意に手を止めた。素早く振り返ると、薄暗い廊下を走り去っていく。

 幸子は痺れた頭でぼんやりと考えた。

〝助かったの……? なぜ……?〟

 傷口が熱かった。いや、もしかすると、信じがたいほどに冷たかった。幸子は、死ぬかもしれないと怯えた。

〝熱い……冷たい……熱い……冷たい……熱い……〟

 今度こそ、幸子は意識を失った。

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