二十 ピエタ
北原にしては珍しく、昼近くまで眠ってしまった。
このところ考えることが多くて、疲れが溜まっていたのだろう。
夜の間も無流は話を聞いてくれて、隣で眠ってくれた。
無流が掃除をしてくれている間、昼食用のつゆを作り、蕎麦を茹でている。
――何故、人から触れられるのが苦手になったのか
「あの……良かったら私の部屋で話しませんか?恋人らしいことは、しなくていいので」
「眠い?気分が悪いなら運びましょうか」
様子をうかがうように、無流の大きな手が北原の首に触れた。
人を思いやる時の仕草が優しげなのは、義弟である和美の面倒を長年見てきたせいもあるだろう。だから、親しくなるにつれ、甘えてもいいのだという気にさせる。
「あなたといる時は気分はいいです。でも――愛子にしてたみたいにしてくれるなら、運んで欲しいかも」
事件解決を祝って集まった際、愛子が無流とじゃれていたのが羨ましかったのだ。
「いいですよ。じゃあ一旦立ち上がって、腕をここに」
言われた通りしているうち、あっさり抱き上げられ、目を合わせる。
きょとんとする北原が面白かったのか、無流はいたずらっぽく笑った。
「つま先を壁にぶつけないように気を付けて。灯りと戸はお願いします」
「はい」
もたつきながらも廊下に出て、童心に帰ったような気持ちが幸福感に上乗せされる。
「はは、楽しいな。これ」
無流は北原を抱きかかえたまま、ベッドに腰掛けた。
「ありがとうございます。すいません、大人げなくて」
「俺には可愛い人に見えますよ。気にせず甘えてください」
さすがに顔が赤くなってしまい、目線をそらした。そっと見守られているのがわかる。
「この体勢、疲れないですか?」
決して小柄ではない北原を、あまりに自然にそうするものだから、恐る恐る確認してみた。
「降りたいですか?」
「いえ……大丈夫みたいです」
自分が過剰な反応をしてしまうのではないかと恐れていたが、無流に触れられるのは大丈夫なようだ。
北原は無流に恋してからずっと、太い首や腕に触れ、広い胸や背中にもたれたいと思っていた。思えばそれは、恐怖症が克服できるきっかけだったのかもしれない。
「うん?」
無流の眼差しは明らかに色気を増していたが、同時に慈愛の気も濃くなった。毒気も緊張感もすっかり抜け、満ち足りた気持ちになる。その、ふわふわとした幸福感にまだ、浮かれていたかった。
「ミケランジェロの彫刻に、こういう構図のものがあって」
「あぁ、なんだっけ――ピエロみたいな」
「ふふ、ピエタです」
聖母マリアが、磔刑で息絶えたイエスを抱えている場面。
「それだ。俺が聖母とはまた、大胆な解釈だな」
「死の淵から引き戻してもらえたような気分なんです」
「あなたが救われたいと思ったからですよ。俺の力はほんの少しだ」
「怪我の話――失っても落ち込むなとはよく言われましたが、新しいかたちを得たと言ったのは、無流さんが初めてです」
「生まれ変わった感覚か」
「無流さんは……複雑だとか面倒だと思われることを、一つ一つちゃんと見て、あるべき場所に戻すのが上手なのかな。問題解決が得意なら、警察官は天職ですね」
「向いてはいるかな。観察することと、安定することは好きだ。物が落ちたら拾う、ぶつかりそうなら避ける。そういう反射的な行為で――幸い、身体が強いから手を貸すのが人より苦じゃないし、人の話を聞くのも好きだ。それが優しさかどうかはわかりません。ただの習慣かも」
「正直なのは確かですね」
問題解決が自分のためであっても、良い結果には違いない。
「何の情も込めていなくても、相手が感謝してくれた時は嬉しい。裏目に出ることもある。貸し借りがきっちりしている相手の方が上手くいくこともあるし、なかなか思い通りにはいかない」
感謝や見返りを得たいと思わずにいる方が、むしろ純粋な善行なのかもしれない。役割や運命ですらなく、ただそこにいてできることをするだけ。でもそれも、本当は簡単なことではない。
北原が恩を感じて世話を焼きたいことが無流を困らせてしまうとか、そういうことだろう。善意の押し付けほど断りづらいものもない。
「側にいてくれるだけで、安心します」
「それは、あなたもだ。あなたが優しいから、俺も力になりたいと思える」
「優しくない。あなたに好かれたいだけです」
「嫌いなところは今のところ、一つかな」
ちらりと顔を見て、無流はそう言った。
「……え」
何かしてしまったかと困惑する前に、無流は真剣な、少し哀れむような顔で北原をじっと見詰めた。
「人の人生を自分が左右してはいけないと、他人の厄まで全部、自分で背負おうとしてませんか?俺をわざと誑かすように振る舞ったのだって、断る罪悪感を感じさせないためでしょう。防衛本能だと思いますが、本当に自分を守れるよう、俺が手伝います。この関係は、俺が考えて選んだ結果、俺があなたに決めた。責任は俺にもある」
その通りなのだろう。北原の思考の癖を、短期間でよく見抜いている。自分でその考え方をやめようと思っても、味方がいないとどうしても自信が持てなくなる。加害と被害の構図を避けるあまり、二者間の関係で問題があった時、問題を無かった事にしたり、自分が相手に加害されたのではなく、自分が加害者であり被害者であることに逃げてしまう。
「――相手を幸せにできる自信がすぐ、無くなってしまう」
「大丈夫。俺は幸せです。あなたといるとそれが増えるだけ。あなたも自分を不幸だとは思っていないでしょう。最大限、自分を幸せにできてるから、他人もそうなって欲しいと思えるし、独りでも自分の美学を貫ける」
「後ろ向き過ぎる?」
「あなたは惚れた弱味みたいに言うが、最初は結構、怖がられるんですよ?俺だって一目惚れしたんだ。あの日はずっと画廊で見たものと、あなたが頭の中にいた。そういう目で見ては失礼かと思ったが、思った以上に笑顔が眩しくて」
「好きだから、そういう風に笑えたんです」
「右目のことなんてすぐ、なんとも思わなくなった。それを調べに来たのに」
「無流さんが、どんな意味でも私を好きだと思ってくれるなら――自分の現状を受け入れられそうだと思えた」
「時間はたくさんあります。もし大丈夫そうなら、ここで一緒に眠ってもいいですか?色気は出さずにいますから」
感情の扉を開放してしまったことで、いたずらに別の感情が顔を出す。
「気持ちははっきり――心も身体も深く繋がりたいと思っています。あなたよりその気持ちは強いかも――でも」
「無理はしなくていい。別々に寝た方がいいならそうする」
「隣で眠る分には大丈夫だと思います。あなたは不安を和らげようとしてくれるし――ただ、もう少しはっきり不快な理由がある。話す覚悟ができました。聞いていただけますか?」
北原は決意し、無流を見つめた。
「北原さん、風呂掃除は済みました。おっ、蕎麦ですか」
「ああ、はい。いただいた鴨肉が少しあるので、鴨南蛮蕎麦です」
「昼から豪勢だな」
昨晩の回想はひとまずそこまでで止め、北原は茹でた蕎麦を器に盛り始めた。
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