十九 列車

 長距離を列車で移動するのは久し振りだ。旅行自体もしばらくしていなかった。行けるところまで列車を乗り継いで、宿の最寄駅に迎えの車が来るという。

 早朝から移動して最後の乗り換えをしてすぐ、仕事中とは違う凪いだ瀬戸の声を聞いていたら眠くなってしまって、志賀は少し眠っていた。

「……晴己はるき

 起きたことを知らせるため、本を読んでいる瀬戸に呼びかけた。

「あと三十分ほどで着きます。よく眠れましたか?」

「お前はいつも楽しそうだな」

 若いからというのもあるだろうが、瀬戸はあまり、ぐったりしているということがない。志賀も仕事中は大丈夫だが、瀬戸と二人でいると気が緩む。無流は、独りの時は特に警戒心を強めがちな志賀に、人の緊張を解すのが上手い瀬戸が合うとわかっていたようだ。

「楽しいです。エツさんにまで、エツさんと温泉旅行に行くんです!って自慢しそうで」

「頭は悪くなってるな」

 ただ浮かれていて元気なだけかもしれない。

「だって、エツさんと温泉旅行ですよ?」

「結局言うのか」

 笑うよりあくびが出て、呆れた顔になる。

「その顔、無流さんにもされました」

「だろうなぁ」

「エツさんは楽しくないですか?」

「いや、楽しいよ。渋井は余罪が多いから、まだやることは山ほどあるが、お前のおかげで一段落したからな」

「えへへ、頑張りましたよね。お疲れ様です」

 やっと頭がはっきりしてきたので笑んで見せると、瀬戸は本をしまい、二人分の手荷物を手元に移動した。

「馴染みの宿なのか」

 旅行の計画は自分に任せてくれと言うので、あまり質問をしないでいたが、そろそろいいだろう。

「そうですね。宿というか、小さい洋館です」

 瀬戸は手帳から古い写真を一枚取り出し、志賀に渡した。

 志賀の家に似た雰囲気の、いかにも瀬戸が好みそうな白い壁の洋館だ。しかし、客室はあまり多くなさそうで、温泉旅館という風情ではない。

「洒落てるな。いつも恋人と行くのか?」

 瀬戸が過去に付き合っていた恋人の話はあまり聞かない。話すほど深い仲になる相手がいなかったと本人は言うが、これだけ気遣いのできる男なのに――と、些細なことでも訊くようにしている。瀬戸ははっきり答えてくれるし、勝手にもやもやと邪推して嫉妬するよりいい。

「人を連れて行くのは初めてです。明治の文豪気分になれて中々いいですよ。気に入ってもらえるはずです。エツさんは普段からベッドだから洋室がいいと思って。壁も厚いし、静かな部屋でゆっくり眠れますよ」

「お前の身長でもはみ出さないといいな」

「二人でも余裕です」

 あさっての方を見ながら、瀬戸が答える。

「……ベッドが二つ無いのか?」

「ありますよ」

 新婚旅行に使う別荘のようなものだろうか。

 それとも本当に、文豪が籠るような風情なのだろうか。

「男二人でそんな部屋、借りられるもんかね。そういう客層の宿か」

「迎賓館とまではいきませんが、外国からの来賓用なんです。一人用でも充分大きい」

 繁忙期というほどではないだろうが、相談してある旅費よりも格上に思える。

「聞いてる限り、言われた旅費で足りると思えないが」

「心配ないです。顔がきくので」

「身内の持ち物か?」

「そんなところです」

 いつもなら長々と説明しそうなところで、あまり具体的な答えが返って来ない。驚かせたいだけならいいが、少しだけ文句を言いたくなる。

「お前の大好きないわくつきか。幽霊が出るとか」

「出るかもしれませんね。怪談はエツさんの方が好きでしょう」

「まあな」

 瀬戸も志賀も怪談は好きだ。瀬戸は科学的な分析もするし、情緒や浪漫を温存することもできる。土着で伝承される民話というのは、人間の罪深い業を覆い隠すような闇の深いものも多いが、自然現象を怪物に例えたり、説明のつかないものにかたちを与えるというのは興味深い行為だ。

「いつもより話す時間はたくさんあります。こんな時くらい、遠慮なく自分語りをしてください」

「酔った時に散々、聞いてるだろ」

「しらふの時に聞きたいです」

 穏やかに微笑んではいるが、眼差しは真剣だ。

「わかった。何かきっかけがある度にそうしてみるよ。俺よりお前の方が、話は上手いし声もいいがな」

 わざと色気を混ぜて見つめ返すと、瀬戸はいつも通り犬のように笑った。

 志賀だって瀬戸の話はいくらでも聞きたい。知識や想像力で膨らむ話題が面白いからというのもあるが、瀬戸個人の過去については意外と知らない。

 ここまでの全てを話せと言っても、人間の人生は複雑で、主観で感じた感情や思考と得た記憶は混沌としているものだ。適切な問い方をしないと引き出せない事実はあるだろう。瀬戸の過去を知る誰かがもう一人いればと思うが、家族とは縁が薄いらしい。志賀自身も家族についてはあまり話したいことが無いので、自分から話したいことが無いのだと思っていたが、それも、今回は聞けるかもしれない。

「昨夜は、エツさんと付き合い始めた頃のことを反芻していました」

「ああ、お前もか。あの時のお前と、受け入れられた自分に感謝してる。おかげで随分、豊かな人生だと思えるようになった」

 自分でも不思議なくらい、すらすらと伝えたい言葉が出てきて、日常や仕事と離れることの意義を知る。

「……無流さんに恋人ができて、さびしいですよね」

「その話はずいぶん前に済んだだろ。お前と恋人になってもう二年だぞ?」

「僕への気持ちを疑ってるわけじゃなくて――単純に、さびしい気持ちはあるだろうなって。あなたはずっと、無流さんを見守ってきたわけだから」

「見守られてたのは、俺だ。無流に甘えるのは、いい加減やめろってことだろ。俺にはお前がいる。もう、お前がいればいいんだ」

 確かに付き合いが長い分、知り合ってすぐ出来上がった無流と北原のことは気になる。自分が北原のような条件を持っていたら、どうなっていたのか考えてしまうこともある。何故、気持ちを伝えられなかったのか悔やむような、何とも言えない過去の好意が複雑に渦巻くこともある。

「僕が無流さんみたいに器の大きい男なら、もっと上手に支えられるのに」

 瀬戸は逆に、そんな志賀の気持ちにさえ寄り添おうとしてくれる。

「酔ってさらした醜態は、全部覚えてる。お前がそれをどうなだめて、酔っ払い相手に何を言ってくれたのかも」

 志賀は込み上げる感情の波を抑えながら、そう低く呟いた。

 瀬戸の言葉にどれだけ救われたか知れない。例え伴侶に選ばれなくても、自分が愛されていると知らされて、何も無いと思い込んでいた自分も、人を愛せているのだとわかった。

「――もっと甘えて欲しいです。頼りないと思うけど」

「無流は後ろに神仏がついてるし、そもそも器じゃない。底も、蓋も無いんだろうよ。俺がお前とうまくいってるから――今度は北原さんを救いに行ったんだ。お前だって器は大きいよ。家とか、巣とか、大きいベッドみたいな――明るくて、柔らかくて、優しくて、あったかい感じがする。いつも安心させてくれて、感謝してる」

 単純な言葉でも、素直に伝えられることが嬉しい。

 無流には生まれつきの人助けの才能があると思うが、瀬戸には瀬戸自身が作り上げた美学と哲学がある。

 山あいに入り、列車内は静かに薄暗くなる。

「……エツさんは」

「うん?」

「初めは、古い事件簿みたいな人だな――と思いました。厚紙で挟んで、紐を通す形の」

 いつもより低めの声で、瀬戸はそう語り始める。

「事件簿、か」

「起こった事実は詳細に書かれていて何一つこぼしていないけど、エツさんの気持ちは一切、書き込まれていない。だから、読み手は想像するしかない。質問され、答えた記録は残るけど、それが本心なのかは行間に書いていない」

「過去しかないってこととは、違うのか」

 ふとしたことで後ろ向きになっていた自分を思い出す。

「許容できないことはあるし、それははっきり拒絶するんですけど、基本的には受け身なんです。悟っているというか――私欲が入っていないというか――かたちさえ合えば、どんな紙でも大丈夫だし、紐を通す穴さえ開ければ、いくらでもページを足せる。でも、先に紙を余分に挟んでおいたりはしなかった。いつ死ぬかわからない。いつ死んでもいいと思っているから、裏表紙は死の象徴です。誰にも何にも期待していなくて、ただ淡々と事実を受け止められる。エツさんが人に見せる、最小限の公式な記録だったんです」

 好き嫌いもこだわりもあるのに、どうしてもそれが欲しくて悪あがきするというようなことが苦手だった。何度か他人からも指摘されたが、自分はそういうもので、変われないのだと思い込んでいたのだ。

「つまらなそうだな」

「いえ、確かに淡々とはしていたんですけど、少なくとも無流さんと僕には面白かったんです。だから、例えるなら無流さんは筆記具を渡して、あなたに質問した。お酒が鍵です。あなたに、たくさん話して言葉にさせて、気持ちを聞いて、書きそびれていた事実を足していったんだ。無流さんが小さい頃から見ていたあなたの様子も、全部」

「確かに、そうかもな」

 受け身でした反射的な行動だと思っていても、何故その時そうしたのか理由を考えてみると、個人的な価値観や着眼点が見えてきた。

「でもきっと僕は、日記帳を渡したいんです。更に自分の気持ちや遊び心のようなものを足して、清書するようにと。持ち運びやすくて洒落た日記帳で、百二十歳くらいまで生きても大丈夫な冊数が用意してある」

「はは、誰が読むんだ」

 百二十歳と聞いて、おかしくなる。瀬戸は現実的で合理的なのに同時に、非合理で未知なる可能性の幅も、無限に用意しているのだ。

「僕と一緒に――家とか巣とか大きいベッドみたいな、明るくて、柔らかくて、優しくて、あったかいところで、何度でも」

「多分、俺が先に死ぬのに」

 まだ先だと思いつつも、少し寂しい気持ちになる。

「そうしたら僕が本にします。先立ったからといって、あなたのことを考えなくなる日は多分無いでしょう。一生かけて、僕の人生も足して――きっと凄く」

「それは――面白そうだな」

 温かいもので胸がいっぱいになり、涙が出そうになる。

 瀬戸は無理に志賀のために何かしているわけではなく、自分がしたいからと、当然のことのようにそうするだろう。

「……本当に?」

「ああ。楽しみだ。死んだ後の分は、天国でも地獄でも、お前が後から持ってきてくれ」

「どうせなら天国に行きましょうよ」

 木陰を抜け、一気に明るい日射しが入ってくる。そろそろ到着するらしい。

 ブレーキで変則的に揺れる列車に翻弄されながら、手荷物を抑える。

「お前との乱れた性生活は、鍵付きの別冊にすればいいのか?初めての温泉旅行編は激しそうだな」

 志賀がいつも通りの下世話な冗談を仕掛けると、瀬戸も笑って、目配せする。

「煽らなくても、そうなりますよ。僕だって大きいベッドがいいですから」

「お前の日記も読ませてもらえるんだろうな」

 速度を落とし安定したところで立ち上がり、瀬戸の肩につかまる。

「それは、僕が口頭で語ります。声が好きなんでしょう?」

「嫌いなところがないから、どんどん好きになって困るな」

「僕も好きなんだから、困らないですよ――嬉しいです」

「はは」

 最後のブレーキに乗じて志賀を抱き締めるように支えながら、瀬戸はまた、犬みたいに笑った。

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