十七 忠犬
部屋の壁は本棚が占め、あらゆる箱と隙間に本がある。その割にはまあまあ広い。瀬戸の身体の大きさや蔵書の量を考えて探すと、木造の集合住宅よりも丈夫な商店建築が良い。
一階が米屋で地下が倉庫、二階が住まいになっている。隣は銭湯で、反対側はふとん屋、向かいは
元はと言えば、駅前の駐在所に配属されていてできた縁だ。何かしら困り事を解決していたおかげで、部屋も米も風呂も、瀬戸の大きさに合うふとんも、ただ同然で手に入れられた。
それでなくとも、身体が大き過ぎるせいで、腹を減らしていないかと、勝手に食べ物の心配をされるのが常だ。
志賀を連れて来たい気持ちもあるが、この部屋で恋人らしいことはできまい。
無流に
瀬戸は初対面の時から、志賀に惹かれていた。瀬戸に限らず、魅了される人間は多い。
瀬戸や無流よりは小さいが長身で、顔は小さく、脚が長い。肩回りと胸板はしっかりしているし筋肉はあるが、全体的にすらりとしている。
派手さや華やかさは控え目で、
それなのに、不意に見せる笑顔は優しげで、驚くほどかわいらしい。
知らない人間が、志賀を警察官だと予想するのは難しいだろう。弁護士、俳優、水商売、理髪師、詐欺師、代議士辺りがそれらしいだろうか。あまりに様になる三つ揃えの洋装と、
近付いて、その内面を垣間見る度、深く暗い樽の底で熟成されていく酒を嗅いだような心地になる。濃厚だが品のある、
志賀がウイスキー片手に煙草を吸うのを眺めながら、そんな
瀬戸が一世一代の告白をした日。途中で急に笑い出した志賀に戸惑って、しばし見守った。
「おもしれぇ」
馬鹿にされているわけではなく、どうやら機嫌が良いようだ。酒の席でも、機嫌がいい時の志賀は普段の何倍も魅力的で、瀬戸は自分の話で彼が笑うのが大好きだ。
「あなたも面白いですよ。自分を誰かと比べて、ずるくて冷たくてつまらないと思い込むのはもったいないです」
志賀は自身をずるくて汚い人間だと思っていると、瀬戸は感じていた。
わざとそう振る舞うことで、汚されないように、誰かを汚してしまわないように距離を取る。硬派で正義感の強い本質を、作り込んだ毒気で覆っている。
「でも、俺が俺を好きになったら、お前は困るんだろ?」
暴かれ、言い当てられているのに、心地好さそうだ。くすぐるような目が眩しい。もう瀬戸を信用してくれているのだろうか。
「大丈夫です。あなたが自分を好きでも嫌いでも、僕は好きなので」
緊迫感は無いが、瀬戸もそれなりに緊張はしている。
朝食を食べ終わってしまったので、飼い主の様子をうかがう犬のように、志賀の挙動に注目する。
「……うん。わかった」
やっと笑いがおさまり、息をつく。
「わかったって……」
「そうだな。こんな、仕事の面接みてぇな付き合い方は初めてだが――今から恋人として、接すればいいのか?」
他人ごとのようにそう言われ、見つめ合う。
「側に置いてもらえるなら、恋人でも、執事でも、愛犬でも、何でもいいです」
「恋人以外は死ぬほど悔しいのに?」
いつもの二人に戻ったが、今までとは全く違う。
上司と部下として間にあった壁は扉に変わり、内側から瀬戸を呼ぶ声がする。
「それは、エツさん次第ですから」
「俺にとってはお前次第だ。わがままなご主人様でいた方が楽ならいいが……お前の賢い忠犬みたいなとこは好きだよ。飼い主なんていなくても、独りで生き延びそうだし、執事にしたら全ての実権を握られそうだが、安心して暮らせそうだな」
「あなただって、僕がいなくても何でもできるでしょう。お互いがいないと駄目っていうことじゃなく、二人でいることで始まる物語があると――思いたくて」
「ああ、うん。話がそれたな……それはわかってる。俺がはっきり無流に振られておかなくていいのか?」
「妬けますけど、不自然に気まずくなるのは嫌です。共通の友人は大事だ。無流さんを好きでいるエツさんは可愛いですし、馬鹿言ってじゃれてるのは微笑ましいですしね」
「お前と無流もそうだろ。今まで長いこと無流を見てきたが、あんなに自分からガキみてぇに絡むのは、お前ぐらいだぞ」
「だから、そのままでいいです。でも、これからは妬いてくださいね。今までも妬いてたのかもしれませんが」
「――物好きだな、お前」
「お互い様です。退屈はさせません」
弱いから、助けたいのではない。瀬戸が側にいることで自分らしくいることが楽になるなら、そうしてほしいだけだ。単に自分が好かれたいからではなく、志賀を楽しませたり、笑わせたいのだと伝わったらいい。
志賀は無言で食卓の椅子から立ち上がり、歩み寄ってきた。瀬戸も立ち上がるべきか迷って、椅子を引きながら中途半端に腰を浮かせた。
志賀は肩に触れ、瀬戸を押し留めるようにし、座面に斜めに座らせた。
「恋人も、執事も、愛犬も――全部お前がいい」
志賀の表情は和らいでいる。微かに
「――エツさん」
頬に手が滑り、静かに見つめられる。
「煙草は?元々家では吸わないし、苦手ならやめてもいい」
「どっちでもいいです。エツさんは美味しそうに吸うし、かっこいいから」
いつも綺麗に分けて流している前髪は下り、随分と若く見える。
「お前から俺の煙草の匂いがするっていうのは中々、色っぽいかもな」
耳、首、鎖骨、肩から胸元へと順番に、志賀の手が辿っていく。平静を保ってはいるが、徐々に視線が揺れ始める。
「署内じゃ煙くて嗅ぎ分けられない」
どんなに平常心を装って返答しても、内心の動揺は伝わっているだろう。
「ん……味の確認は今度だな」
目が合ったまま気だるくそう言った志賀に、膝に乗りかかるようにしながら口付けられた。
少しずつ、探るように、瀬戸の覚悟を確かめるように、深くなる。
「はぁ……」
うっとりと息をついた顔を、首を傾げて覗き込まれ、拗ねたように睨む。
「いけそうか?」
「信じてないんですか」
「気持ちや覚悟は疑ってねぇけど、俺が今その気だから、萎えられたら困る」
志賀は膝に乗ったまま、瀬戸のシャツを開けていく。
「その気って言っても……」
さすがに動揺する瀬戸に、志賀はもう一度軽く音を立てて口付けた。
「立つだろ?」
鼻先を合わせたまま囁かれ、瀬戸は犬みたいな顔で困った。
「――無理はしないで欲しいです」
「無理なら誘わねぇよ。ちゃんとやりゃ入る。まあ、俺がお前に突っ込む方がイイんならまだ先だな」
志賀は一旦身体を離し、シャツを着たまま、下に履いているものを全部脱いだ。
「あの、エツさん」
瀬戸の席の奥にある電話台の引出しから何か取り出した後、志賀はそのまま床に膝立ちになり、瀬戸のベルトに手をかける。
「こういう展開は不本意か?もっとロマンチックな状況がお望みなら、その通りやるが――俺次第なんだろ?」
思った以上に志賀の感情も、
上目遣いに負け、椅子に浅く掛けるように腰をずらすと、ずるりと衣服を下ろされた。
「男性経験は無いのかと思ってました」
煽られたせいで立ち上がり始めたものを、志賀はためらいもせず握り、根元から舌でなぞる。
「微妙なとこだな――最後までしたことはねぇよ。相手もいねぇ身で探求心がありゃ、一人遊びもする」
切なげに吐かれた息にまた、煽られる。
先ほど取り出したのはワセリンか何かだったのだろう。志賀の片手は、瀬戸からは見えない影で動いている。
「無流さんで、想像してたんなら……」
野暮だと知りながら、そう口走る。反抗したいのに、身体は志賀の動きに翻弄されている。興奮と嫉妬、発言への後悔が入り雑じった瀬戸の顔を、志賀は面白そうに眺めた。
「嫉妬されるのも悪くないな。無流にはっきり振られたら、その顔は見られないってことか」
「意地悪するなら、し返しますよ」
愉快そうに笑んで、志賀は瀬戸の先端を手で
「無流と俺で想像してたのはお前だろ」
「してません……最初から自分としか」
志賀が目を細め、喉で笑う。
「わかってきた。無流は強くて賢いし可愛がりゃ懐くが、律儀なだけだ。俺はお前みたいなのに執着されたかったんだな」
無流はただ心配で、志賀が
「女性には、自分が忠犬になる方でしょう」
「無流には、尽くしたくて
「あなたに恩を返せないのが辛かっただけかも」
「多分違う。俺の執着心を受け入れてもらえるだけでいいと言いながら、本当は相手にも同じくらい執着して欲しかったんだろ――お前はなんで、俺に気に入られてると思った?」
「目が合うと構ってくれるし、すぐ名前で呼んでくれたし――無流さんがいても、僕にだけ構うことが増えたので」
無流は特殊な例だ、あだ名や愛称に近く、皆からも無流と呼ばれている。それを除けば知る限り、志賀から下の名前で呼ばれているのは瀬戸だけだ。
「はは、勝ったなと思った?」
「無流さんを好きなままでもいいと……欲が出たんです」
「お前からわかりやすく距離を詰めてきたのは、この家に入ってからだよな」
「この家と本棚を見て、もっと近付きたいと思った」
自分の蔵書と同じものも含め興味深い本、高価だったり古かったりで手元にはない貴重な本、志賀の内面の豊かさや教養をうかがえる本。
何よりこの家は、瀬戸の理想が具現化したのかと思うほど素敵だ。
「俺の中にも入ってみたいと」
「――そうです」
純粋に内面に触れたいという意味の方が強いが、そう言い切るには、志賀は魅力的過ぎるだろう。
整えられた形のいい手、涼しげに整った耳の後ろ、隙のない襟元。細い腰と背広の間に腕を滑らせて抱き寄せ、ベストとベルトの間から覗くシャツを辿って手を忍び込ませる。髪を乱し、薄い唇を塞いで、長く引き締まった脚を撫でる――そんな想像を何度したか。
それなのに今、もっと隙だらけの志賀を前にして、ただ座ったまま弄ばれている。
「いい声だな。お前の声聴きながら帰ってくると、よく眠れる」
「初めてこの家に来た時も、そう言われました」
「そりゃ欲も出るよな。俺が
先走りと志賀の唾液が、手や口の動きに粘質な音を立て、血が集まる。手の動きはともかく、男相手に口を使うのは慣れていないようだったが、妙に楽しげだ。
「
「捨てるかよ」
そうされるのはいつも自分だ――そう言いたげな
欲ばかりで経験が多いとは言いがたい瀬戸は、入念に解された志賀の中で容易に達してしまった。それでもまた血が集まり、一度では全く収まらないとわかる。
その後の志賀の様子も鮮明に覚えてはいるが、意識はところどころ薄れていた。
椅子が壊れるとか、お前が泊まるから床はきれいに掃除しただとか、若いとか熱いとかでかいとか、甘くなった声が犬みたいでかわいいとか――あんなに自制心を失ったのはあれが初めてだ。
その感覚をふわふわと
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