十七 忠犬

 瀬戸晴己せとはるきの部屋は、米屋の上にある。元々米屋の一家で使っていたが、家族が増え手狭になり余所よそへ移った。

 部屋の壁は本棚が占め、あらゆる箱と隙間に本がある。その割にはまあまあ広い。瀬戸の身体の大きさや蔵書の量を考えて探すと、木造の集合住宅よりも丈夫な商店建築が良い。

 一階が米屋で地下が倉庫、二階が住まいになっている。隣は銭湯で、反対側はふとん屋、向かいは蕎麦そば屋。住宅地の駅前だけの小さな商店街だが、独身男性の独り暮らしには最高の立地だ。

 元はと言えば、駅前の駐在所に配属されていてできた縁だ。何かしら困り事を解決していたおかげで、部屋も米も風呂も、瀬戸の大きさに合うふとんも、ただ同然で手に入れられた。

 それでなくとも、身体が大き過ぎるせいで、腹を減らしていないかと、勝手に食べ物の心配をされるのが常だ。

 志賀を連れて来たい気持ちもあるが、この部屋で恋人らしいことはできまい。


 無流に鬱陶うっとうしがられるほど楽しみにしていたのだから、旅行の準備はとっくに済んでいる。本当は出発前から志賀の家で過ごしたかったが、上手く時間が噛み合わなかった。戻ってから楽なように、宿直勤務明けの細かい家事を終える。酒屋にもらった木箱で作ったベッドの上で、ぼんやりと志賀との馴れ初めを思い出しながら、睡魔を待つ。


 志賀悦時しがえつじは、美しい人だ。

 瀬戸は初対面の時から、志賀に惹かれていた。瀬戸に限らず、魅了される人間は多い。

 瀬戸や無流よりは小さいが長身で、顔は小さく、脚が長い。肩回りと胸板はしっかりしているし筋肉はあるが、全体的にすらりとしている。

 派手さや華やかさは控え目で、端整たんせいな顔立ちは冷酷な印象だ。義憤ぎふんに駆られるような場面では、正義感と言うより、侠気きょうきに似た不穏さをまとう。

 それなのに、不意に見せる笑顔は優しげで、驚くほどかわいらしい。

 知らない人間が、志賀を警察官だと予想するのは難しいだろう。弁護士、俳優、水商売、理髪師、詐欺師、代議士辺りがそれらしいだろうか。あまりに様になる三つ揃えの洋装と、紫煙しえんの似合う佇まい。くどさはなくとも粋と言うには強すぎる、酒のような酔いを感じさせる。只者では無さそうだが、何者かわからない。娯楽作品のスパイじみた独特な存在感がある。

 近付いて、その内面を垣間見る度、深く暗い樽の底で熟成されていく酒を嗅いだような心地になる。濃厚だが品のある、琥珀こはくのようなつや。喉をく荒さはないが、その香りは紫煙とともに臓腑ぞうふに染みてくすぶり、瀬戸の心を焦がす。

 志賀がウイスキー片手に煙草を吸うのを眺めながら、そんな気障きざで回りくどい形容が次々と湧いて、ときめきとともに胸に仕舞われていく。



 瀬戸が一世一代の告白をした日。途中で急に笑い出した志賀に戸惑って、しばし見守った。

「おもしれぇ」

 馬鹿にされているわけではなく、どうやら機嫌が良いようだ。酒の席でも、機嫌がいい時の志賀は普段の何倍も魅力的で、瀬戸は自分の話で彼が笑うのが大好きだ。

「あなたも面白いですよ。自分を誰かと比べて、ずるくて冷たくてつまらないと思い込むのはもったいないです」

 志賀は自身をずるくて汚い人間だと思っていると、瀬戸は感じていた。

 わざとそう振る舞うことで、汚されないように、誰かを汚してしまわないように距離を取る。硬派で正義感の強い本質を、作り込んだ毒気で覆っている。

「でも、俺が俺を好きになったら、お前は困るんだろ?」

 暴かれ、言い当てられているのに、心地好さそうだ。くすぐるような目が眩しい。もう瀬戸を信用してくれているのだろうか。

「大丈夫です。あなたが自分を好きでも嫌いでも、僕は好きなので」

 緊迫感は無いが、瀬戸もそれなりに緊張はしている。

 朝食を食べ終わってしまったので、飼い主の様子をうかがう犬のように、志賀の挙動に注目する。

「……うん。わかった」

 やっと笑いがおさまり、息をつく。

「わかったって……」

「そうだな。こんな、仕事の面接みてぇな付き合い方は初めてだが――今から恋人として、接すればいいのか?」

 他人ごとのようにそう言われ、見つめ合う。


「側に置いてもらえるなら、恋人でも、執事でも、愛犬でも、何でもいいです」

「恋人以外は死ぬほど悔しいのに?」

 いつもの二人に戻ったが、今までとは全く違う。

 上司と部下として間にあった壁は扉に変わり、内側から瀬戸を呼ぶ声がする。

「それは、エツさん次第ですから」

「俺にとってはお前次第だ。わがままなご主人様でいた方が楽ならいいが……お前の賢い忠犬みたいなとこは好きだよ。飼い主なんていなくても、独りで生き延びそうだし、執事にしたら全ての実権を握られそうだが、安心して暮らせそうだな」

「あなただって、僕がいなくても何でもできるでしょう。お互いがいないと駄目っていうことじゃなく、二人でいることで始まる物語があると――思いたくて」

「ああ、うん。話がそれたな……それはわかってる。俺がはっきり無流に振られておかなくていいのか?」

「妬けますけど、不自然に気まずくなるのは嫌です。共通の友人は大事だ。無流さんを好きでいるエツさんは可愛いですし、馬鹿言ってじゃれてるのは微笑ましいですしね」

「お前と無流もそうだろ。今まで長いこと無流を見てきたが、あんなに自分からガキみてぇに絡むのは、お前ぐらいだぞ」

「だから、そのままでいいです。でも、これからは妬いてくださいね。今までも妬いてたのかもしれませんが」

「――物好きだな、お前」

「お互い様です。退屈はさせません」

 弱いから、助けたいのではない。瀬戸が側にいることで自分らしくいることが楽になるなら、そうしてほしいだけだ。単に自分が好かれたいからではなく、志賀を楽しませたり、笑わせたいのだと伝わったらいい。


 志賀は無言で食卓の椅子から立ち上がり、歩み寄ってきた。瀬戸も立ち上がるべきか迷って、椅子を引きながら中途半端に腰を浮かせた。

 志賀は肩に触れ、瀬戸を押し留めるようにし、座面に斜めに座らせた。

「恋人も、執事も、愛犬も――全部お前がいい」

 志賀の表情は和らいでいる。微かにかすれる声は低く、チェロに似た余韻を響かせる。

「――エツさん」

 頬に手が滑り、静かに見つめられる。

「煙草は?元々家では吸わないし、苦手ならやめてもいい」

「どっちでもいいです。エツさんは美味しそうに吸うし、かっこいいから」

 いつも綺麗に分けて流している前髪は下り、随分と若く見える。悪戯いたずらを試す小悪魔めいた表情と、白いシャツの襟元から覗く鎖骨が悩ましい。

「お前から俺の煙草の匂いがするっていうのは中々、色っぽいかもな」

 耳、首、鎖骨、肩から胸元へと順番に、志賀の手が辿っていく。平静を保ってはいるが、徐々に視線が揺れ始める。

「署内じゃ煙くて嗅ぎ分けられない」

 どんなに平常心を装って返答しても、内心の動揺は伝わっているだろう。

 たぶらかそうとしなくたって、瀬戸はとっくに志賀のとりこだ。

「ん……味の確認は今度だな」

 目が合ったまま気だるくそう言った志賀に、膝に乗りかかるようにしながら口付けられた。

 少しずつ、探るように、瀬戸の覚悟を確かめるように、深くなる。


「はぁ……」

 うっとりと息をついた顔を、首を傾げて覗き込まれ、拗ねたように睨む。くらんでのぼせる顔が熱い。

「いけそうか?」

「信じてないんですか」

「気持ちや覚悟は疑ってねぇけど、俺が今その気だから、萎えられたら困る」

 志賀は膝に乗ったまま、瀬戸のシャツを開けていく。

「その気って言っても……」

 さすがに動揺する瀬戸に、志賀はもう一度軽く音を立てて口付けた。

「立つだろ?」

 鼻先を合わせたまま囁かれ、瀬戸は犬みたいな顔で困った。

「――無理はしないで欲しいです」

「無理なら誘わねぇよ。ちゃんとやりゃ入る。まあ、俺がお前に突っ込む方がイイんならまだ先だな」

 志賀は一旦身体を離し、シャツを着たまま、下に履いているものを全部脱いだ。

「あの、エツさん」

 瀬戸の席の奥にある電話台の引出しから何か取り出した後、志賀はそのまま床に膝立ちになり、瀬戸のベルトに手をかける。

「こういう展開は不本意か?もっとロマンチックな状況がお望みなら、その通りやるが――俺次第なんだろ?」

 思った以上に志賀の感情も、たかぶって見える。

 上目遣いに負け、椅子に浅く掛けるように腰をずらすと、ずるりと衣服を下ろされた。

「男性経験は無いのかと思ってました」

 煽られたせいで立ち上がり始めたものを、志賀はためらいもせず握り、根元から舌でなぞる。

「微妙なとこだな――最後までしたことはねぇよ。相手もいねぇ身で探求心がありゃ、一人遊びもする」

 切なげに吐かれた息にまた、煽られる。

 先ほど取り出したのはワセリンか何かだったのだろう。志賀の片手は、瀬戸からは見えない影で動いている。

「無流さんで、想像してたんなら……」

 野暮だと知りながら、そう口走る。反抗したいのに、身体は志賀の動きに翻弄されている。興奮と嫉妬、発言への後悔が入り雑じった瀬戸の顔を、志賀は面白そうに眺めた。

「嫉妬されるのも悪くないな。無流にはっきり振られたら、その顔は見られないってことか」

「意地悪するなら、し返しますよ」

 愉快そうに笑んで、志賀は瀬戸の先端を手でもてあそぶ。

「無流と俺で想像してたのはお前だろ」

「してません……最初から自分としか」

 志賀が目を細め、喉で笑う。

「わかってきた。無流は強くて賢いし可愛がりゃ懐くが、律儀なだけだ。俺はお前みたいなのに執着されたかったんだな」

 無流はただ心配で、志賀が自棄やけになって傷付くことのないように、守ってくれていたのだ。志賀に同情はしても、恋してはくれないとわかっていたのだろう。

「女性には、自分が忠犬になる方でしょう」

「無流には、尽くしたくて不憫ふびんな相手を選びがちだと言われた。相手は好きで不憫なわけじゃないから、一方的に尽くすのは良くないと――頭でわかっちゃいても――上手くできなかった」

「あなたに恩を返せないのが辛かっただけかも」

「多分違う。俺の執着心を受け入れてもらえるだけでいいと言いながら、本当は相手にも同じくらい執着して欲しかったんだろ――お前はなんで、俺に気に入られてると思った?」

「目が合うと構ってくれるし、すぐ名前で呼んでくれたし――無流さんがいても、僕にだけ構うことが増えたので」

 無流は特殊な例だ、あだ名や愛称に近く、皆からも無流と呼ばれている。それを除けば知る限り、志賀から下の名前で呼ばれているのは瀬戸だけだ。

「はは、勝ったなと思った?」

「無流さんを好きなままでもいいと……欲が出たんです」

「お前からわかりやすく距離を詰めてきたのは、この家に入ってからだよな」

「この家と本棚を見て、もっと近付きたいと思った」

 自分の蔵書と同じものも含め興味深い本、高価だったり古かったりで手元にはない貴重な本、志賀の内面の豊かさや教養をうかがえる本。

 何よりこの家は、瀬戸の理想が具現化したのかと思うほど素敵だ。

「俺の中にも入ってみたいと」

「――そうです」

 純粋に内面に触れたいという意味の方が強いが、そう言い切るには、志賀は魅力的過ぎるだろう。

 整えられた形のいい手、涼しげに整った耳の後ろ、隙のない襟元。細い腰と背広の間に腕を滑らせて抱き寄せ、ベストとベルトの間から覗くシャツを辿って手を忍び込ませる。髪を乱し、薄い唇を塞いで、長く引き締まった脚を撫でる――そんな想像を何度したか。

 それなのに今、もっと隙だらけの志賀を前にして、ただ座ったまま弄ばれている。

「いい声だな。お前の声聴きながら帰ってくると、よく眠れる」

「初めてこの家に来た時も、そう言われました」

「そりゃ欲も出るよな。俺がたぶらかしてたんだから」

 先走りと志賀の唾液が、手や口の動きに粘質な音を立て、血が集まる。手の動きはともかく、男相手に口を使うのは慣れていないようだったが、妙に楽しげだ。

たぶらかされて捨てられてもいいと思ってしまったので」

「捨てるかよ」

 そうされるのはいつも自分だ――そう言いたげなくらい眼をして、志賀はまた腿に上がる。きしむ椅子に構わず、口内を舌で犯すような口付けをしながら、ゆっくり埋め込むように、瀬戸を導き入れた。

 欲ばかりで経験が多いとは言いがたい瀬戸は、入念に解された志賀の中で容易に達してしまった。それでもまた血が集まり、一度では全く収まらないとわかる。


 その後の志賀の様子も鮮明に覚えてはいるが、意識はところどころ薄れていた。

 椅子が壊れるとか、お前が泊まるから床はきれいに掃除しただとか、若いとか熱いとかでかいとか、甘くなった声が犬みたいでかわいいとか――あんなに自制心を失ったのはあれが初めてだ。



 その感覚をふわふわと反芻はんすうしながら、瀬戸は深い眠りに落ちていった。

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