十六 傷痕
「なんだか自分の記憶にも、自信が無くなってしまって。直接、
北原は老執事・
長い話だと前置きされたので、話題を広げず聞き役に徹したものの、謎を解きに行った先でまた、謎に出会う。
「確かに、瀬戸が好きそうな話だな」
無流はそう言って、熱い茶をすすった。
役に立てそうなのは掛け軸の件か。それも、自分ではなく住職に聞けばわかるだろう。というぐらいだ。無流より、志賀と瀬戸の方が教養はある。瀬戸は間違いなく謎解きに興味を示すだろう。
「聞いてくださって、ありがとうございました。警察の介入が無い方がいいのかもしれませんが、一人で抱えるのも重くて」
「そうだな……もし事件の匂いがしたら頼ってください。瀬戸たちはこの休みで温泉旅行に行くらしいんで、すぐには動けませんが」
「温泉ですか」
「もう、夜勤の間じゅう浮かれてましたよ。好きですか?温泉。いい所だったら北原さんと行ったらどうかって言われましたが」
無流の言葉に、北原は少し困った顔をした。
「温泉自体は好きですが――人前で肌を出すのは苦手です。火傷の痕はほとんど消えているし、湯治目的なら同じような方も多いでしょうけど。個別に入れる宿はいくつか知っているので、行く気があるなら」
「ああ、宿なら刑事より美術商の方が詳しいか」
「私は無流さんと過ごせれば、どこでもいいです。近場でも、この家でも」
「それは俺もです。機会があればってとこですね」
気を使わせるのも悪いので、話題を切り上げる。
「はい」
北原は常に気を使う性質だから、気を使わないでと頼むのも酷だろう。でも、無流が知って慣れることで、遠慮は減らせるはずだ。
洗い物をするのに食器を運び、流しに並んで立つ。
「傷のこと――俺の勝手な想像で、気分を害したら申し訳ないが」
「ええ」
無流が洗った物を北原がすすぎ、水切り場に重ねていく。
「生まれつき華やかな顔立ちだと、しなくていい苦労をしたと思う。だからって雑に扱ったら、そんなに綺麗なままにはならない。他のことへの評価と差が出ないように、凄く努力したんでしょう。厄介だと思っていたとしても、あなたは自分の顔を愛しているんじゃないですか」
何の話が始まったのかと戸惑っているようにも見えたが、北原は、無流と目を合わせて頷いた。
「確かに――それなりに努力はしました」
「大事に磨き上げたのに、望まない戦争に行かされて傷を負って、自分の作品を台無しにされたのと同じような気持ちになったんじゃないかと」
「大事な作品……」
皿を慎重に受け取りながら、北原はそう言葉を噛みしめた。
「出征しなければ、雷には撃たれなかった。本来関連しない原因の、どちらも不本意だ。例え誰かが肯定しても、自分が全力で表現できたはずの美には及ばない。受け入れるべきだと思ってもできない。それが悲しくて、悔しいんじゃないかな」
「それは――そうかもしれない」
無流の解釈を聞くことで、少しでも違う見方を得られるならと、話を続ける。
「もし俺が、この顔と身体にその傷を負った状態であなたに出会ったら、どう思う?」
北原は無流をじっと見上げて、首を傾げた。
「うぅん、気の毒だとは思いますが――生きてて良かったと思うし、人としてのあなたは変わらない」
「他の人にもそう思うはずだ。それに俺なら傷がある方がむしろ、強そうでかっこよく見えませんか。多分、隠さずに済むし、武勇伝にしたり、傷がある方がモテたかも。坂上くんもそうだが、問題は美貌や特異体質じゃなく、それ以外の条件がどれだけ面倒な輩に狙われやすいかだ」
「言いたいことはわかりますけど、無流さんが素敵なのは優しいからです。それはまた、違う話ですよ」
拗ね方が可愛らしくて、無流は笑ってしまった。
「じゃあ、俺が傷を気にして隠していたら、あなたはどうする?」
「傷の有無であなたの素晴らしさは変わらないと――そうですね。私も……あった方がむしろ、かっこいいと言うかも。あなたが私にそう言ったみたいに」
「友人同士ならそれで済む。でも、生涯の伴侶になるとしたら、家族や周囲への影響まで気になりますよね。相手が気にしなくても、自分のせいで誰かが損をするのではと。あなたの優しさはそういう気遣いでできてる。逆に、その傷に執着されて、無いと駄目だと言う人でも意味が違ってくる。そういうことで迷うのは、あなたが、自分が与えられる最大限の幸せを与えたいと思うからじゃないかな」
「私は――そんなに、立派な人間じゃないと思います」
北原は自分の仕事には確かな誇りと自信を持っているのに、自分自身への評価が厳しすぎる。目指す理想が高いのだろうとも思うが、もっと自信を持っていいと思う。
「その前提で、自分にも最大限の幸せを与えてくれる相手を選ぼうとするのは、欲張りだからじゃない。目的は自分が幸せになることじゃなくて、二人で協力して最大限の幸せを目指すことだからだと思う」
「ああ……確かにそうです」
無流の言葉に、少しだけ何かが解れたように見え、ほっとする。
自分に救えるなんて思うのはおこがましいが、何がきっかけになるかはわからない。できるだけ前向きになれるような言葉を、意識的に伝えるしかない。
「俺が妻を病気で亡くしたのと、あなたが天災で受けた傷には共通点がある。悲しみと、怒りや悔しさをぶつける相手がいなくて、痛みが消せない。いっそ相手が国家や戦争や敵兵なら、憎しみを向けられた」
「喪ったものの大きさが違う」
北原は、自分より傷付いている人間を助けたいと思っているから、無流に優しいのだろう。
「でも、あなたも死にかけたんでしょう?俺の身体は直接傷んでない。喪失感と精神的苦痛で辛くても、それは生きてるからで――あなたも、一度止まった心臓が再び動いたから――今こうして、想い合うことができる」
「……無流さん」
強く同意するには気まずいかもしれないが、無流自身も、北原と出会うまで、また誰かと想い合えるとは思えなかった。
北原の細かな気配りに表れる心の優しさに、人と人の関わりの尊さを再確認させられた。
「俺の傷は内側にあるから見えない。あなたの傷は目立つところにあるけど、その髪で覆うことで、今までとは違う美しさが生まれるとしたら、隠すことも能動的な表現ってことになると思う」
食器を洗い終え、布巾を渡す。北原の表情が和らいだように見える。
「ああ、なるほど。傷を負う前も、生まれつきの運や天恵というだけではなく、自分で容姿を演出できていたのに、それが重要なことだと自覚していなかったから――今ある私も自分の美的感覚による演出の結果なのに――隠すことにも見せることにも、違和感や迷いが生じているんじゃないかと」
「俺が客観的に見る限りは、そうです。画廊に集めている作品は、他の場では隠されるような世界観のものも多い。でもそれは美しいものなんだと、あなたの存在が保証する。隠されることで完成する美を、あなた自身が証明しているから」
北原の微かな迷いが消えた。無流の言葉は、確かに伝わった。
「あなたは画廊と作品を眺めて、そこまで読み取ったんですね」
「奇妙で不思議なものの存在や魅力を、異質なものとしてではなく、美しさとして肯定する感覚があった。あなた自身が無意識でも、そうすることで自分自身を肯定できると知っていたからだと思う」
「だから、絵を眺めているあなたを見て、自然に心を開けた」
あの日の感覚は不思議なものだった。単なる一目惚れではなく、もっと深い繋がりのきっかけだと思えたのだ。
「俺はあなたの今の顔しか知らないし、傷を含めて、凄く綺麗だと思う。器の修復技法の金継ぎとか、その傷に似た模様のある、忍石って鉱石もある。その傷は美を損ねたんじゃなく、新たに得た異なる美の要素なんだと思う。もちろん、無理に好きになれとは言いたくないが……俺はそう思います」
「少なくとも、私をあなたが見ることについては、気にしなくていいってことですね。なんだか、自分に説得されてるみたいです」
「理屈っぽさでは負けない」
「人情家だけど、凄く論理的だなと思います。いいお坊さんになれそう。美しいと連呼されるのは、さすがに照れますけど、嬉しいです」
「恋心や身体の反応だけに引っ張られることが怖くて置いた距離は、もう、詰めても大丈夫だと思う」
「……ありがとう」
北原の目が潤んでいる。
無流はまた素直に美しいと思い、北原の右目を覆う髪に、そっと唇を落とした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます