十五 酒癖

 瀬戸との旅行の仕度を終えた志賀は、一人掛けのソファの背もたれに頭を預け、ぼんやりと天井を眺めている。出発は明日の早朝だ。


 志賀の家は、志賀の生まれ年でもある大正元年に建てられた、白壁のモダンな一軒家だ。小さいが二階建てで、独り暮らしには少し広い。内装は洋風で、細かい意匠が凝っている。

 色々な事情が重なり、復員してすぐに、いくらか借金をして買い取った。

 志賀は三人兄弟の真ん中で、出征したが無事に復員した。軍人だった父親は戦死し、母親は長男夫婦と一緒に暮らしている。


 瀬戸晴己せとはるきが、志賀悦時しがえつじのいる刑事課一係に配属されたのは、三年ほど前だ。

 瀬戸は飯田無流と相棒になり、無流が酒の席に連れてきた。

 志賀は酔っても暴れも泣きもしないし、害はそれほどないが、何か面白い話をしろと絡む癖がある。下世話な話はいつでも、身内にはしらふでもするものの、酔っても判断力はそこまで鈍らない。

 昔馴染みの無流はいいとして、瀬戸には災難だろうと思っていたが、違った。

 瀬戸は放っておいても、そこそこ面白い話をずっと語れるし、酒も好きだ。そのうち、瀬戸の方から嬉々として誘ってくるようになった。

 無流には会話が成立しなくなる前に、頃合いを見てタクシーに押し込まれていた。鉄道路線の最寄駅は異なるのだが、瀬戸は、志賀と帰る方向が同じだ。タクシーに同乗し、志賀の家まで送り届けてくれた後、徒歩でも自宅に帰れる距離だ。初めて家まで送ってくれた時、二階の寝室まで付き添い、家をひと通り見た感想を気が済むまで述べて帰った。

 その内、無流抜きでも飲みに行くようになった。

 お互いの距離感に慣れた頃、非番の前日を選び、瀬戸はそのまま志賀の家に泊まった。客を泊める部屋は無いのだが、兄弟や母親が泊まる際は自分のベッドを譲り、屋根裏の古いベッドを使う。瀬戸は屋根裏に寝たがったので、そうさせた。


 起床したら風呂が沸いていて、風呂から出たら、朝食が用意されていた。

「お前か俺が女だったら――」

 と、口を滑らせたところで、瀬戸は真っ直ぐ目を見て微笑んだ。

「僕は男のままで構いませんよ。法律上、結婚はできませんが」

 男に口説かれるのは初めてではなかったが、驚いた。内容にではない。あまりに緊張感が無さ過ぎたからだ。軽口とはいえ志賀から仕掛けた手前、どう返すべきか思案していると、

「でも、エツさんが一番好きなのは、無流さんですよね」

 と、言い切られた。


 無流を好きなのは、自覚していた。


 それでも、どうしても、そういう関係にはならなかった。

 自分だけがわかる良さというわけでもなく、無流は人に好かれる。人より知っているのは、お互いの過去だ。無流も、志賀の好意に色気が含まれていると知っているだろう。職場ではともかく、二人のやり取りを知れば誰でもわかる。それでも無流が避けないのは、今以上の関係を望んでいないとお互いわかっていたからだ。

「俺よりお前の方が、俺に詳しそうだな」

 仕事でも酒の席でも、何気ない会話や、やり取りでも――瀬戸がしてくれることは、志賀が今まで自分でしていた方法よりもしっくり来る。

 それは瀬戸の才能の一つだ。

「確かに、ここにいる今のあなたの状態だけなら、一番わかるかもしれません。過去や未来の細かいことは、わかりませんけど」

「生来、観察者なんだな。観測者か」

「あなたも、知らないことを理解するまでにかかる時間が人より短い。無流さんもですが、あなたの方が更に短い。そういうところも好きです」

 そういう「好き」は、これまで何度も聞いた。単に肯定の意味だと思っていたが、愛情を含んでいたのかと、冷静に振り返る。


「お前は、男が好きなようには見えなかったんだがなぁ」

 志賀は自分でも認めざるを得ない程度には色男だ。冷酷な印象だが、整った顔は人目を引き、おまけに文武両道で優秀だった。瀬戸に限らず、想いを寄せられることは多かった。

 だからこそ、好かれて困る相手には近付かないようにしている。瀬戸には丸っきり、油断していた。

「女性が好きなようにも見えないはずです」

「そういえば、そうだな」

「エツさんも、どっちにも見えません。人の好みは細かいですが、性別や容貌が優先じゃない」

 この日が来るとわかっていたような顔をして、瀬戸は平然と朝食を食べている。

 志賀のする猥談は、自分の生々しい体験談などではなく、客観視出来る範囲のものだ。映画や小説の登場人物や女優がいい女だとか、そういう話だ。

 志賀は離婚歴があり、無流が妻を亡くしたと知っている。女の好みを掘り下げたり、恋人を作れと言ったりはしない。瀬戸にも恋人がいるのか、欲しいかぐらいは聞いた気がするが、それ以外の話が面白かったから、する必要が無かった。


 志賀も驚きはしたが、とりあえず、朝食に手を付けた。

「お前が俺を好きなのはわかってたな――この状況を、俺も少しは想定できてたってことか」

「話が早くて助かります。女だったらなんて、思ってないのに言うのは、もう止めていいです。男とは、女とは、妻とはどうあるべきかなんて思ってないくせに、わざわざ世間の多数派に寄せて見せなくても、僕とは会話できます。無流さんをはっきり口説かなかったのは、女性と比べられたら選んでもらえないと思っていただけでしょう。僕はそう思っていても、口説きますけど」

 もし気にせず無流を口説いていたなら、結ばれていたのかもしれない。現に、瀬戸が男であることには何の拒否感も無い。でもその勇気が無いと、見破られていたのか。

「俺はお前に世話を焼かれたいだけじゃないのか?抱かれたいのか」

 自問のように口に出す。

 瀬戸が世話を焼いてくれるのは嬉しかった。可愛いと思っていたし、好青年なのになんで恋人がいないのか、とも思った。

「襲われる警戒はいつでもしてますよね。エツさん、モテますし。僕に口説かれたり襲われるとは思ってなかったんでしょうけど、万が一そうされても、どうにかなるか――ぐらいは思ったんじゃないですかね。僕も、身の危険はないし、話せばわかる相手だと信用してもらえるようにしてましたから。部下を家に泊まらせるなんて、今までしたことあります?」

「……ない」

 好意は自覚していたし、高揚感も、幸福感もあった。


 ただ、そういう関係になれると思わなかった。それだけか。


「本当は、無流さんや僕じゃなくてもいいはずなんです。ただ、自分の過去や内面を全部曝してからでないと、あなたは人前で自分らしくいられない。どっちのエツさんも見られるのは、仕事中と、仕事から日常に戻る時だから、日常だけの相手には中々、機会がなかったんでしょうね。自分らしくない自分のことも、自分らしい自分のことも嫌いだし、その不器用さに同情されるのも嫌でしょう」

「あぁ――やんなるよな」

 不器用なのは自覚している。何か正解があるのだろうと思っても、そうできない。悩みはするものの、変われるとも思えない。何も間違ってはいないからだ。ただ、相性が合う相手とそういう関係になれない。逆に言えば、相性が合わない相手でも、お互い恋愛感情があるというだけで、恋人や夫婦になれてしまうことが問題なのだろう。

「だから、それをわかった上で、どっちのあなたも難なく、あなたより愛せる人間の出現を夢見ていたんです。夢でしかないと思って最初から探さずにいたようですが、それが多分、僕なんだと思います」

 いないはずの人間が現れたから、そうとわからなかった。そういうことだろうか。近いけどまあ違うだろう、そんなに都合のいいことはないから、どうせ夢かなんかだろうと、そのままにしたのだ。

「お前は俺に同情してないってことか」

「哲学的な悩み方ができるのは、知能が高い証拠です。僕は知能そのものが好きですし、知能では思い通りにならない肉体や感情も好きです。同時に、嫌いでもある。だから、あなたがなんで自分を嫌いなのかも理解できますし、人間らしくていいなあと思います」

「お前は?自分のこと好きか」

 少しわかってきた気がする。

「自分の分析力が嫌になることはありますが――好きですよ。使い勝手が良いので――どんなに望んでも、人生は消せないし、自分以外にはなれませんしね。だから、あなたと一緒にいても大丈夫だと思います。逆に、僕と個人的に長く接して、不快にならない人は少ないです。無流さんとエツさんは僕といてもお互い快適に過ごせる貴重な存在なので、絶対に縁を切りたくありません。もし僕以外の恋人ができても縁は切られないだろうと思っていましたが、僕が恋人になれたら簡単に幸せになれると気付いてしまったので、虎視眈々と機会をうかがっていました。お互い素面で二人きりになる機会があれば、話せるだろうと」


 誰かが瀬戸を不快に思うのは、瀬戸には全て見破られてしまい、隠し事ができず、嘘がつけないからだ。

 瀬戸も、志賀も、無流も、常に、真っ当で正直な善人であろうとしている。

 止むを得ず悪事を働いてしまうことは有り得るとしても、人は多かれ少なかれ、善人であろうとするのが当たり前だと思っていた。

 仕方なく良くない境遇に追い込まれることはあるし、善の価値観を知らずに育つことはあるだろう。だが、そうではないのに、自分だけ得をすればよくて、誰にも知られなければどんな悪事も厭わないような人間がいると身を持って知ったのは、成人してからだったと思う。それも、思っていた以上に多かった。

 そういう輩に嫌われるのは、志賀も同じだ。

 無流は、嘘をつかない方が楽だと知っている。志賀は瀬戸の言った通り――本当の自分を知ってほしいと思っているから――悪意を持って利用されるわけでなければ、隠し事や嘘を暴かれても何も怖くない。

 自分がなぜ瀬戸に心を許せたのかも、瀬戸がなぜ自分を好きなのかも急に納得がいって、呪いが解けたような気持ちになった。

「お前と恋人になれば、俺は幸せになれるのか?」

 宗教家に騙されている人間みたいな台詞を吐いて、苦笑した。

 瀬戸に聞いてどうする、と思うが、今のところ、自分の今までの選択した定石よりも、瀬戸が正しく感じた。

「できれば振る前に、付き合ってみてから決めて欲しいです。あ、身体の大きさとか顔とか、努力では変えられない部分が好みでないなら諦めます。性別も、実践してみないとわからないですし、もっと素敵な相手が見つかるかも。それは仕方ないです。死ぬほど悔しいし、エツさんはまだ僕以外にも合う人に会える可能性は高いのに、僕はエツさん以上の人を見つけられる自信がないので、全然諦めたくありませんけどね」

 自分の願望を述べつつも、感情を押し付けることはなく、志賀の気持ちを尊重し、駄々をこねている。もの凄く感情的でいて、揺るぎなく論理的な言葉の数々に、順番に納得させられていく。

 器用なのか不器用なのか。とりあえず、正直で純粋で素直だ。

 不意に笑いが込み上げてきて、志賀は素面では久し振りに腹から声を出して笑った。


 ――あれは、嬉しかったんだろうな。


 今でもよくわからないが、瀬戸とはうまくやれている。

 瀬戸がした中でも、最も面白い話の一つだ。

 志賀は思い出し笑いをしながら、ソファを立ち寝室に向かった。

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