十四 距離
無流は夜勤明け、北原の自宅で休むのが恒例となった。
無流の持ち物が徐々に増える和室で、彼は寝息を立てている。
勤務を終えたら北原の住まいに迎え、軽く食べた後、夕飯の頃まで眠る。特別なことがない限りは、無流の非番と画廊の休みを合わせ、そのまま二人で過ごす。
少しでも早く眠って疲れを取れば、その後の非番には恋人同士で長く過ごせるからと、北原がねだった。出掛けるのもいいが、日常を共に過ごすことが嬉しい。
無流は寺では僧と離れ、和美たちと暮らしていて、身の回りのことは自分でしているらしい。最初は北原に世話をかけまいと遠慮していたが、休んだ後に家事を分担するということで落ち着いた。
他人同士のまま適切な距離を保つには、相手によって様々な役割を演じる必要があるものだ。思えば、刑事と店主としての関係は、出会った日のうちに変わったのだろう。演じる必要はすぐに無くなった。
会う度、お互いを知りたいという興味が増し、距離が縮まった。
恋心を伝え合った頃にはもう、二人の間には深い愛情が育っていた。
やり取りはともかく、心の動きはごく自然な流れだったが、北原には初めての感覚だった。今まで巡り合えなかった、面倒な自分と複雑な人生をさらけ出せる相手だ。そしてお互い、それを理解し合えるという確信に戸惑う。
北原から「ずっといてもいい」と言ったこともあるが、同居したいという意味には取られていないだろう。今すぐ和美や寺と引き離したいわけでもないから、ちょうどいい移行過程だ。
夕飯の用意ができたので、無流を起こしに向かう。
捜査協力で泊めていた無流が去ろうとしたのを引き留めた、あの夜のことを思い出す。
「私は、面倒な男ですよ」
そう往生際の悪い台詞を吐いた北原に、無流は笑った。
「別れたくなくて始めるなら、きっと続けられる」
無流の笑顔や言葉は、真っ直ぐに北原を満たす。
「そう――ですね」
気まずくなったら酒のせいにしろと仕掛けた北原を、無流はしっかり抱き寄せて、逃げないからと笑った。刑事なのだから、人を捕まえるのが北原より上手いのは道理だ。
無流は酒のせいにも、北原のせいにもしないから、駆け引きの必要はない。素を知られているのに芝居などしても、恥ずかしいのは自分だ。
血縁者である英介や愛子といる時と同様に、素の自分でいていいことが嬉しい反面、動揺していた。
自分が本当に思っていることを正しく相手に伝えるのは、簡単なようで難しい。言葉の端々まで気をつけて発しても、ひとつも理解してもらえないこともある。
無流は、北原が発したひと言ひと言をきちんと受け止めて、大事にしてくれる。話す度に、言葉を交わすことの意味を実感する。
距離が縮まるのが速かったから、何か別の気持ちと勘違いしているのではないかと何度も精査した。
でも、何度考えても、無流が自分を忘れて誰かと親密になるのを想像すると、どうしようもなく苦しくなった。
無流の幸せを理屈では望みながら、それを受け入れられない自分に気付いた。
孤独な自分の独占欲だけで、気持ちを押し付けるのは嫌だ。一歩引いてみようとしても、会って話せばそれ以上に、自分が間違いなく恋をしているのだと思い知る。
お互い惹かれ合っているとわかっても、自分が望むことは、うまくいかない確率の方が高い。今ある社会で、男同士の恋愛が少数派だというだけでも――
「面倒な男っていうのは――どういうところを気にしてる?むしろ俺が面倒かけてる。同性だからってわけじゃないなら、何か特殊な嗜好とか?警察やってるといろいろ見るんで、耐性はある方だと思うが」
無流は本当に勘が良かった。言い出しにくいことを言いやすくさせるのが上手い。
「嗜好ではなくて、生き方です。不器用なんでしょうね。好きなのに、何を怖がっているのか、自分でもよくわからなくて」
「いつも本気だから怖いんじゃないかな。それに、俺が怖いわけじゃないと思う。事件で色々あったし――渋井とも過去に何かあったんだろ?高梨先生に少し聞いた」
英介が個人的な話をするのは、それで事態が好転することを望んでいる時だ。
北原の抱える問題の解決に、無流なら力を貸してくれると思ったのだろう。
「あなたになら、どんな部分を見せても大丈夫だと信じられた。知ってほしいのに、全部を話すのは難しくて――そう思える相手がいなかったから、戸惑ってるのかもしれない」
「無理しなくていい。でも、いつでも聞きます。とりあえず俺は今日、引き止めてくれて嬉しかった。またすぐに来るつもりでいたし。それがどんな意味で、これからどうなるか、わからなくても」
自分の生き方に馴染んでくれそうだと思って、それは実証されてしまった。
北原の家にも店にも、周囲の人間関係にも、難なく無流は馴染んだ。
女性が好意を持って一緒に過ごしたら、すぐに添い遂げる選択肢が浮かぶはずだ。刑事の仕事の特性は、家庭生活には難があるのかもしれないが、公務員で僧籍もあるのだし、見合いの話も来ているだろう。むしろ、安全な結婚相手を探している人間にこそ、魅力的なのではないか。
人一倍、疑り深い北原でさえ、そうなったのだから。
「理性が邪魔で、酒癖に賭けたんです。八割がた振られると思ってましたから。泣き落としして迫っても、気まずくならないと思えた。そういうところも好きで……」
「愛子ちゃんは北原さんの気持ちを伝えてくれましたけど――十二割くらいで言ってきてると思ってたから、あなたに今日はっきり誘われるまで信じてなかった。捜査の間は、色気に反応しないようにするのが大変でした」
育ちや職業柄もあるだろうが、確かに煩悩を抑えるのは上手かった。
しかし、顔には出ていた。溢れんばかりの親愛の情がはっきりと。それは今まで北原を困らせてきた、過剰な好奇心や欲望に満ちたものとは全く違った。
「私は上手くできませんでした。真面目に仕事してるのに、ご迷惑でしたよね」
「迷惑じゃない。それがどんな愛なのかは別として、あなたの気持ちは愛情なんだと伝わったから」
北原が無流に対して思ったことを、無流も感じてくれていた。
無流はいつでも、目の前の人間の問題を解決したいと願っている。それに加え、北原に対しては心から楽しませ、喜ばせようとしているのが伝わっていた。北原と過ごすのが楽しいと思っているのも、幸福感で満たしてくれようとしているのもわかった。
自分がしたいことだけを押し付ける気は一切なく、北原が望むことをどう叶えられるかを探っているのが、眼差しだけでわかった。
最初からはっきり好きだと言ってもきっと、受け止めてくれただろう。
「愛子も無流さんを好きなのに、よく協力してくれたなと思います」
「愛子ちゃんは、あんたが好きなんだよ。だから、あんたを独り占めして、愛子ちゃんを仲間外れにする輩は嫌いなんだ。あんたのいない間、色々教えてもらった。俺はあんたが思うより俗っぽくてずるいし、隠し事は上手い」
「確かに、ずるいです」
「されたくないことは止めてくれれば、無理にはしない」
北原がそう望んでいると知った瞬間から、その色気は一気に放たれた。思うように素直になれない北原の様子さえ楽しむように、無流は優しく笑ってまた、ゆっくり口付けた。
「……っ」
口付けた後、無流に縋るように抱き付いたら、そのまま抱き上げられた。胡座を組んだ窪みに横向きに収まり、上体は無流の腕と上半身に支えられた。
「大丈夫ですか?触られるのは苦手かと思ったが」
その通りだ。よく見ている。
でも、傷痕に触れられても平気だった。無流の手には邪気が無い。それどころか、癒されているように感じた。
雷に撃たれた直後は、意識が朦朧とし、片目を覆われた状態でいた。鎮痛剤や鎮静剤のようなものが合わなかったのか、火傷の痛みや不快感によるものか、ひどい悪夢にうなされた。自分が覚醒しているのかさえ曖昧で――
無流が微かに唸り、もそもそと起きる気配に、北原は意識を現実に戻した。
「ん……おいしそうな匂いだな」
「おはようございます」
「おかげさまで良く眠れました」
「冷えるので気を付けて」
着替える無流から離れ、薄手の半纏を用意する。着替えを終えた無流の肩にかけたところで、触れた指をやんわりとつかまれた。
「北原さん、調子は?指先が冷たい」
触れられても大丈夫なのは、無流の手が温かいからだろうか。
「お得意様が亡くなったり――色々あって」
「なら、胸を貸します。身体に力が入ってる」
言われるまま素直に抱きしめられて、無流の肩口で深呼吸する。
「――あったかい」
背中を撫でる手が心地好くて、身体が解れるのを感じる。
「葬儀に行かれるんですか?お邪魔でなければ付き添いますが」
僧らしい気づかいと、囁く声が心地好い。
「いえ、もう全部済んでいました。知るのが遅くて」
「そうか。お別れを言えなくて、残念でしたね」
身体を少し離すと、温まった指先を確認するように、また手を包まれる。
「ええ。残念です。執事の方から、瀬戸さんが好きそうな話はたくさん聞けましたけど」
「そりゃまた、複雑そうだ。ゆっくり聞かせてください」
北原がどんなに短時間でも無流に会いたいのは、何より、その優しさに触れたいからだ。
「ちょうど無流さんと会える日で、良かったです」
会えると思っただけで、気持ちが楽になる。
大きな手に肩を解すように撫でられながら、廊下に出たところで視線が絡んだ。
そのまま見つめていたら、耳元に手が添えられる。北原は目を閉じ、口付けを受け入れた。
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