十三 観察

「あぁ……ばれたのか」

 江角久子えすみひさこ標文すえふみを好きだと知ったと話すと、英介はそう言って黙った。

 今日もまた指導の後で夕食をご馳走になり、お茶を飲んでいる。

「僕が知ったところで、何も変わらないと思いますけど」

「まあね。あの二人の関係が変わることも今後、無いと思う。ただ、変な噂が立ったり、二人が害されないように気を付けてあげて」

「はい」

 英介が公の場で久子に付き添っていたのは、男性優位の業界で、女性画家が被る面倒を最小限にするためなのだろう。二人は同窓で、対等な関係といえる。地位のある年配の男性に取り入って、実力以上の評価をされているなど、悪意のある噂を囁かれなくて済むからだ。

 英介と久子は噂になっても一貫して「良い友人です」と答えている。啓と標文という本命を隠せるし、実際二人の間には友情以上のものはない。それでいて、それは嘘で二人が恋人同士だと思われても、変な輩は寄りつきにくくなる。

 標文は今のところ愛妻家で通っているし、悪い噂は全く無い。英介が久子に被害が及ばないように気を配るのも、標文の影響が大きいだろう。標文に近い人間には嘘だとわかるが、噂を信じたい人間にはどちらでも関係ない。

 久子の好意が一方的であっても、悪い噂を立てたい人間にみすみす餌を与えることになる。

 誰も嘘はついていないし、隠していることはあっても、後ろめたいわけではない。ただ放っておいて欲しいだけだ。


「で、なんで、そんな話になったの?」

「和美と、素敵な人とは中々出会えないし、出会っても相手がいるって話をしてたんです。和美は仲のいい女性には全然興味ないのかなって、流れで」

 和美が啓を好きなことは、英介も知っている。

「新しい出会いを求めてるってことは、和美くんは君への好意を出会った時から自覚してたんだよ。既に出会った人の中に、君以上の人はいないんだろ」

「愛子ちゃんも八重さんも違うって言うんです。あんなに仲良くしてるのに」

 啓は英介に出会うまで、友達も恋人もいなかった。だから、親友と恋人の違いがわかっていないだけなのかとも思う。自分が特殊なのは自覚していても、他人より優れているとは思えない。彼女たちを差し置いて啓を選ぶというのが、よくわからない。素敵過ぎて自分では釣り合わないという気持ちならわかる。それでも、英介に対しては素直に好かれたいと思ったし、自分でもはっきり、他の人間といる時より一緒に過ごすのが楽しくて、嬉しかった。

「自分だって彼女たちとあんなに仲がいいのに、僕がいなかったら和美くんを選んでたんだろ?それと同じだ」

「……そうですけど」


「僕が付き添えないところでは、和美くんたちが上手くやってくれてるし、画家になるなら、あのまま久子に弟子入りするのはいいと思う。恋愛関係じゃなくても、長く続くいい関係に見える。女生徒も増えていくなら、彼があのアトリエにいると品位が保てて、安心だと思うよ」

「江角先生は、和美のお姉さんと似たところが多いんだと思います」

「そういえば事件の時、無流さんとも気が合ってたな」

 実際、外見の雰囲気もかなり似ているようだ。二人でいて、姉弟や親戚だと思われていることも多い。

「じゃあ、北原さんは江角先生を警戒すべきなのかな」

「無流さんが叔父と付き合い始めたのはその後だし、無いよ。君、割とそういう噂話が好きだよね」

 自分は放っといて欲しいと思っているのだから、人の恋路をあれこれ邪推するのはおかしい。矛盾には気付いているが、邪魔するつもりはない。

「そうなんですかね。なんでだろ。江角先生と英介さんの仲が気になってたのは、不安だったからですけど」


「右目で見てそういうの、わかるんだろ?噂や情報を集める必要ある?」

「よく会う人の色や光の変化なら、ある程度は。人間関係は二人の色の混ざり方に特徴があって――下世話で申し訳ないですが、それで言ったら、無流さんと北原さんはまだ、キスぐらいしかしてないと思います。家族みたいな絆の方が強くて――二人ともそういう相手を望んでるんだなと思った」

 初めて会った時は眼帯を着けていたからわからなかったが、北原の纏う光は耽美というより宗教者っぽい雰囲気で、清らかな印象だ。求道者的な純粋さが見て取れる。

「君、そんなことまで分析できるようになったんだ。瀬戸さんみたい」

 自分の力と向き合えるようになったら、思った以上に観察が好きなのだと自覚した。標文も英介も観察と分析は好きだから、瀬戸より、二人の影響の方が強いだろう。

 画家に必要な力ではあるから、その点では向いているということだ。

「人間関係が深まったり、拡がったから、今まで見ていただけだったことの説明がつくようになったんだと思います。瀬戸さんじゃなくて、英介さんとお祖父さまの影響だと思いますよ」

「前から君は鋭いよ。でも、このところ大人っぽくなってるのはそのせいもあるな」

「無流さんは煩悩があっても消せるみたいで、あんまり見えないんです」

「はは、叔父さんもそう言ってた。あの人は、色気を消せるって」

 消せるとわかったということは、消していない状態を見たのだろう。それでも、二人の関係はその辺の恋人同士の学生より清純に見える。

「本人たちに事実確認が難しいので、あくまで予想ですけど――多分、北原さんと無流さんはまだ、友達と恋人の間です。北原さんの緊張感が強くて、頭か身体のどちらかが行動を抑えているように見えます」


「まだ、恐怖症が治ってないのかも」

「恐怖症?北原さんが?」

「そう。昔は動物好きだったのに、目のことがあってから、動物や人に触られるのが苦手になった。感覚が半減したからかもしれないが、戦争の後遺症だと思う。自分から触るのは大丈夫みたいだ。感覚が半減したというより、触覚が過敏になっただけなのかな。かなり良くなってきたはずだけど――」

 意外な要因が提示され、啓は軽口を言い過ぎたと反省した。

「そういう理由なら、二人の間に隙があるわけじゃないんですね」

「どうなってほしい?他人がどう望んでも、二人の問題だけど」

「二人の問題に出来ればいいですけど、目立つ人間には、他人が望んで干渉しますよ。人間関係を継続するには、社会や周りの関与が凄く影響すると思います。さっき英介さんだって、それを心配してたんでしょう」

「確かにそうだ。僕も君も、それが二人だけの問題で済むように、できるだけ守ってあげたいのかな」

 近しい人間に対して余計なことを考えてしまうのは、それかもしれない。

「彼らが僕たちに、そうしてくれるように」

「そうだな」

 理解者に恵まれていることは、毎日有り難く思っている。気持ちが変わらなくても環境が変わったら、引き離されたり、嫌な思いをたくさんするだろう。

 特異な能力に対する理解と、社会的少数派に対しての理解は近いから、啓はごく自然に守られているのだろう。身に染みてそれを実感したから、啓も大事な人を守れるようになりたいのだ。


「学内展の時は、お祖父さまと何の話をしてたんですか?ずいぶん話し込んでたみたいですけど」

 話題を変えようと、学内展での様子を思い出す。

「君がここで熱を出して寝込んでいた時に、小出くんの夢を見た仕組みは、どういうことなんだろうって話」

「夢見が悪いのはいつもです。でも、あの後、同じような夢は見てないです。熱のせいじゃないかな」

 啓は一度きりだと思っていたが、標文は啓の両親から、小さい頃、高熱を出した時に似たことがあったと聞いたそうだ。

「標文先生は、君が人より強く受信する能力を持っているなら、強く発信する人間がいるんじゃないかって――それが小出くんなら、表現者同士の能力かもしれないと」

「小出とは油絵、学校、この画室。それから先生、和美、三蔵と、共通点が多いし、親近感もあった。脳波みたいなものが同調する機会が多いからかなって」

 和美と仲がいいこととは別に、小出は感覚を共有できそうな親近感がある。

 和美にはない暗さや弱さ、歪み。屈折率が近いとでも言えばいいだろうか。

「思考が重なる共通点が多く揃ってたからか」

「先生も近くにいたし――あと」


「ん?」

「僕が目を覚ました時、額に濡らした手拭いが乗っていて、ベッドの脇に洗面器がありましたよね。額の汗を拭いてくれたんですか」

「うん。何度か空気を入れ替えて、額の手拭いを交換した」

「それで、感覚が過敏になっていたからかも」

 さきほど北原が恐怖症だと言っていたことにも繋がる気がする。

 目を閉じた方が聴覚や触覚に集中できるといったことだ。

 英介は頷いているが、啓を探るように目を合わせる。

「――水じゃないか?」

「え?」

「君の絵は、普段は光や色の粒子を描いてるような感じだ。でも、あの時は雨が降ってた。水の粒子の動きがそれを君に伝えたのかも。霧にライトを当てると、光が線になって見えるだろ?ああいう感じで。窓を少し開けた時に外から入ってきた湿気、君の熱でこもった蒸気と、濡れた手拭い。小出くんと猫が外で君のことを思い浮かべていたのが、水の粒子を伝わって君に届いた」

 また新しい説が生まれたが、本当のところはよくわからない。次の機会にそれを探るにも、熱にうなされている状態は確実な要件に思えるから、検証は難しそうだ。


 啓には他にも思い付いたことがある。

「僕は――先生が増幅装置みたいなものなのかと。発信する能力じゃなくて、僕の能力を拡張する能力があるのかも」

「僕?」

「人の気配を感じると、感覚が鋭くなるのかなって――好きな人が側にいると、特に」

 意識が過剰になるというより、普段より多くの何かを受信、吸収しようとする感覚だ。

「僕と接触する時に、無駄なものまで多めに受信してるってこと?」

 わざと茶化すように英介は言ったが、伝わってはいるだろう。

「大体、そういう時は気持ちにそんな余裕はないですけど……普段は遮断してる感覚が、好きな人といる時は開放されるのかもってことです」

「だから、ここで描く方が絵も上手く描けると」

「それも多分、そうです」

 褒められたいからというのもあるだろうし、右目のことを気にせずにのびのびと描ける場でもある。その安心感とは別に、英介の存在はやはり大きい。

「やっぱり特定はできないな。全部かもしれない。わかったら教えて」

 英介は茶碗や皿を片付け始め、啓も一緒に流しに向かう。


 台所には柿が置いてあり、啓は静物画の講義のことを思い出す。

「今日の講義の課題も全然上手く描けなくて」

 洗いものを手伝うため、並んで立つ。

「先週からやってる静物画か」

「先生がいないと上手く描けないなんて、半人前の甘えみたいじゃないですか。実際、半人前ですけど」

「僕が増幅するんなら、二人でいるとそれ以上になるってことにしよう」

「人の影響を受けやすいのかな」

「それは、感受性が豊かで強いからだ」

 形のいい手が器を洗うのを目で追いながら、少し照れる。

「静物画を描いてる教室で、近江錦弥おうみきんやさんと会いました」

「ああ、あの日本画の凄く上手い――輸入画材の会社の御曹司。北原画廊とも少し取引があるはず」

「え、御曹司なんですか」

 そんな話を和美がしていたような気もするが、絵に気が行っていたせいで、全く記憶に残っていない。

「愛子が美男子だって盛り上がってたな」

「ええ。凄くかっこいい人でした。いい人そうだし、いろんな意味で強そう」

「君も良い影響を受けそう?」

「構図は前から好きです。僕の絵の構図にも助言をくれました。あ、でも僕じゃなくて和美を探してたんです。和美の絵も思い浮かべてたから、ファンなんだと思います。モデルを頼むつもりみたいです」

 面食いなのは知られているから、要らぬ誤解を生まないようにそう言ったが、英介は意味ありげに横目でにやりと笑った。

「それで今日はずっと、そわそわしてたんだな。縁結びか」

 水を止め、布巾を手渡される。

「そわそわしてます。月曜まで内緒なんです」

 その前に明日は、愛子と和美と啓の三人で、甘いものを食べに行くことになっている。英介に見破られるなら、二人にも気付かれるかもしれない。

 渋い顔をしてそう答えたら、英介は「良い出会いになるといいね」と言いながら、啓の肩を軽く叩いて笑った。

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