十二 静物

 教室で静物画の課題を進めるも、どうにもうまく進まない。

 白い布が敷かれた段差に、秋の果実が浅い竹笊たけざるからこぼれるように配置されている。

 ほとんど描けている。今までなら、どこまで描くか感覚的に区切れたが、事件の後から変に欲が出てしまったのだろうか。

 課題と割り切って片付けることはできる。ただ、自分の作品と言うには、味が足りない。

 静物を描く時は、眼帯を着けた方が描きやすい。他の学生の発する光を交え、教室の空気を足した方がいいのかもしれないが、それは、才能でも技術でもない気がする。


 この体質が無ければ本当に自分には何もない。だからといって、体質を引いて描くのも無意味だろう。背が高いとか、暑がりだとか、左利きだとか、食いしん坊だとか、そういうことでも絵に差は出るだろう。啓だけがそれを加味してはいけない世界ではない。それが個性として重宝されればいいが、そうでなければただの誤差だ。何がもてはやされるかは運でしかない。

 英介のおかげで、自分らしい描き方の方向性は見えてきたと思うが、それを筆で絵に込める力が足りない。

 疲れているのか、やる気を失っているのか。恋の進展でぼんやりし過ぎているのか。進展する前の方が、認めてもらいたい気持ちが絵に込められていたのか。

 自由課題なら、英介に伝えたいと仮定すれば描ける。今回は、他人にモチーフがあらかじめ設定された静物画だから、自分が見て解釈して演出し、鑑賞者に伝えようとするべきだろう。伝わらないとしても、伝えるつもりで描くのだ。

 今日の講義はこれが最後だ。あと十分弱あるが、啓はだらだらと片付けを始めた。


 すると、講義の間も開放されている後ろの出入口から、雉と鴨の剥製を抱えた学生が入ってきて、備品棚に向かった。

 大柄で姿勢が良く、人目を引く男だ。おそらく上級生だろう。啓以外の学生も数人、彼を見ている。どこかで見た覚えがある。

 ざっくりと編まれた大きめの綿のセーターにジーンズ、紐のない浅い運動靴。袖のまくり方、裾の巻き方が絶妙で、垢抜けて見える。


 和美が好きそうな人だな――と思う。


 癖のある長い髪のゆるい曲線が、浅黒い肌によく似合う。角度のある凛々しい眉。長く濃いまつ毛に縁取られた気だるげな目。濃く華やかな顔は神秘的で気品があり、それでいて妙に隙が無い。自然体なのに艶と色気があり、野生の肉食獣のような迫力を醸し出している。


 自分が彼だったなら、何だって上手くやれる気がするのに。


 啓は眼帯を着けていた右目を開放し、こっそりと彼を盗み見た。

 彼が纏う光の色を見るためだ。

「えっ」

 思わず声を上げた。

 廊下に出ようとしていた彼が、啓を振り返る。

「どうした、大丈夫か?」

 彼の声は存外に優しげなものだった。

 ちょうど、講義終了のベルが鳴り始める。

「あの、和美を」

「え?」

「和美を探しているんですか?」

 啓の質問に、彼は目を見開いた。

「君はいつも飯田くんと一緒にいるから――坂上くんだよな」

 あまり顔には出ていないが、微かな狼狽の色が見える。

 和美本人だけではなく、和美が描いた絵、和美をモデルに描いた絵が彼から発信され、啓に届く。

 その画像は啓が日頃、和美を見て感じる温かな光を伴っている。英介が啓の絵の話をしている時に知覚する光とも似ている。


 知り合いではないようだ。この人と知り合いなら、絶対に啓にも話しているだろう。

「この時間は別の講義です。伝えておきましょうか」

「俺は今週はもうこれで終わりで……変に近付こうとすると警戒されると聞いたから、月曜もいるなら、自分で名乗る」

「昼は食堂で会えます」


「ありがとう。近江おうみです。近江錦弥おうみきんや。君の絵は好きだ。今回の展示はいつもと印象が違う感じだったな」

「ありがとうございます。近江さんって日本画の――和美も僕も、あなたの絵は好きです。いつも構図がかっこよくて」

 大きな手を差し出され、握手する。

 彼の絵は好きだ。和美が本人についても何か言っていた気がするが、あまり思い出せない。多分、学内の有名人の一人だ。


「それは嬉しい。見てくれてるんだな。よろしく、坂上くん」

 カンバスに視線が行ったので、急に恥ずかしくなる。

「この課題は全然、楽しんで描けなくて」

「あぁ……席は先生に指定された?」

「ええ」

 近江は頷いて啓の椅子に座ってから、徐々に目線を上げていく。

「描き直す余裕があるなら、このくらいの視点の方が好みじゃないか」

 そう言われ、椅子に座ったところより少し上から見直す。

「あ……本当だ」

 構図が上手いだけあって、的確な助言だ。

「俺はもっと縦長の構図にしてしまうだろうけど、君なら――あ、あんまり先入観を持つのは良くないな」

「はは、ありがとうございます」

「一応、次の回までに考えてみるといい。じゃあまた」

「はい」

 いい人だし、絵が好きなのは間違いない。

 月曜に、和美に紹介できるのが楽しみだ。

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