春の訪れ

 嘘だ、嘘だ、嘘だ。


 繰り返されるのはその言葉だけ。


 親衛隊は追ってこなかった。


 ハザマは無我夢中で走り続けた。永遠に続いているかのような薄暗い通路を、ひたすら走って進んだ。


 誰かにぶつかった気もするし、素材不明な硬質の壁に何度も身体をぶちあてた。そのたびに、ハザマの肉体は死に近づいていった。


 それでも走り続ける。一度も振り返っていないその先にいるであろう強大で邪悪な魔物の気配に追いたてられ、ただ前に進む以外の選択が取れなかった。


 嘘だ。こんなこと、あっていいはずがない。


 肺が千切れそうな思いでいながら走ることをやめられないハザマは、我が身に迫った現実を否定することでしか心を保てないでいた。


 故郷を旅立った時、決死の覚悟だったのだ。二度とこの共同体には戻れないかもしれないし、そこに住む彼らを救えないのかもしれないと。


 しかし、こんな結末は予想すらしていなかった。


 あのままハナコに捕まってしまったら――。


 想像だけで、ハザマのボロボロの脚はさらに高く上がった。


 命は保証されるだろう。しかし、あの気の狂った妄執を実現した『彼』のように、ひたすら少女を産み、ハニカムランドのメインリソースを提供するだめだけのシステムと化す。


 生きながらにして、ヒトとして扱われない。ハニカムランドの新たなる女王ハナコによって、未来永劫少女たちに『搾取』される道具と化すのだ。


「ぢくしょう、クソっ、あぁうう」


 恐ろしい想像に絡めとられて、限界をとっくに超えたハザマはに溢れた。


 本当に馬鹿だった。あんなおとぎ話を信じて、貧しいながらも女たちに世話されて生きていくことのできたな故郷を飛び出すだなんて。


 のために生ける屍になんてされてなるものか!


 最悪の結末から逃れたい。


 もう分不相応な夢は見ない。


 だから、故郷で、穏やかに暮らしていた頃に戻してほしい。


 かつては大願と勇気を抱いて大雪の世界に進み出たハザマの望みは、それだけだった。


「ハザマ」


 聞き覚えのある声を、わずかではあるが、ハザマの鼓膜は間違いなく拾った。


 急に走りを止めたハザマは、勢いを殺せずそのまま派手に転んだ。


 冷たく固い床が、ハザマの身体に新たな傷を作る。


 しかし不思議と痛くはなかった。それどころか、限度を超えた活動のせいで脳から妙な薬が出ているのか、感覚が冴えわたっている。


 足音が近づいてくる。


 ハザマは床にうつ伏せになりながら、通路の奥から現れる人影に目を凝らした。


「大丈夫? ひどい様子ね」


 やはりというか、そこにいるのはこの国で嫌というほど見た少女の顔だった。


 武骨で地味でずいぶんとガタがきている作業着姿だが、ジッと、どこまでも無垢な瞳を一身にハザマに注ぐその視線の持ち主は――。


「ハナコ!?」


 立ち上がることは、意思の力ではもう無理だった。


 しかし少女の方から近寄って来たので、ハザマは顔をほころばせる。


 やっぱり嘘だったんだ! 今日知らしめられた事実と呼ばれた情報は、何もかも嘘だった!


 どん底の闇に落ちていたハザマの心に、一輪の花が開いた。


「やっぱりあの玉座にいたのはミライだったんだな! やっぱりあいつが俺たちの仲を邪魔してたんだ!」


 ハナコが女王であるならば、その頭に王冠をいただいているはずだし、こんな作業着は着ていないはずだ。


「お前、どこに行っていたんだよ!? 俺はミライに捕まって大変だったんだぞ! 今からでも遅くない、さぁこんなヤバい国は出よう!」


 安堵が身を包み、ハザマはそのまま床にとろけそうになった。


 ハナコがどうしてここにいるのかは知らない。大方、ハザマという男がハニカムランドに潜入していることを知った女王ミライが、『彼』に対する苛立ちを、八つ当たりという形でぶつけてきたのだろう。


「あの女、自分が男にかどわかされたで大それた嘘までつきやがって、!」


 実にテンポよく、ハザマの中で新たなる事実が発展してく。


 ハザマに納得のいく形で、収束していく。


 ハザマは手を伸ばした。


 伸ばそうとして、少し指を広げることしかできなかった。


「ハザマ……」


「行こう、ハナコ」


 ハナコは使なのでハザマの意を当然ように察したらしく、自分の手を重ねたてきた。


 そのままぎゅっと優しく掴む。


 ハザマは目を閉じた。


 諦めかけていた故郷凱旋の夢が、また膨らみ始め――。


「女王様、ご指示を」


 その瞬間、ハザマの身体は宙に投げ出された。


 中空を浮いていたほんの一瞬だけ、少女と目が合う。


 少女は苦々しい顔をしていた。


 ぐるんと身体が回転する感覚があり、浮遊感を失った直後ハザマは少女のバックパックに足から落ちた。


「はいお姉様。身体保定」


 冷たい紐状の物体が身体をうごめく感触があった。


 バックパックからちょうど頭だけ出ていたハザマには何が起きているかわからなかったが、強い戒めが身体に施された瞬間、内臓が圧迫されて声が漏れた。


「グェっ」


「ご苦労様。あなたに任せて正解でした」


 首から下を外部から強く押されているせいで、ハザマは呼吸ひとつすらままならなかった。


 ぜぇぜぇと乱れた音の息を吐き出し、ハザマは急転した状況を見極めようとする。


 気づけば、目の前に、もうひとりの少女が立っていた。


 自身に無体を働いた少女とは比べようもない繊細でたおやかなドレスに身を包み、権威を示す王冠をその頭にいただいた、張り付けたかのように無表情な少女――。


「ハ……ナコ……?」


「ええハザマ様。あなたと一緒になると言ったハナコです」


 ハナコの周りにはぞろぞろと少女たちが集まってくる。


 少女たちは一様に、ハザマの顔を汚物をみるかのような目で見ていた。


「逃げないでよー! どうせ逃げらんないんだから手間かけさせないでよねー!」


「そ~そ~アンタはこれから新たなる女王のハナコサマと番えるのよ~。光栄に思いなさいよね~」


「サクラさん、お疲れ様っす。見事な手腕でした」


 サクラ。


 この少女は、今そう言ったのか。


「じゃあ……俺を捕まえたのは……」


 頭をいくら巡らせたところで、ハザマにはバックパックを、ひいては拘束したハザマを背負う少女の姿は見えない。


 ハザマは何も確かめられず、口を開けたままハナコを見つめることしかできなかった。


「あんた、やっぱ女王サマと他の子の見分けついてなかったんだねー!?」


「それで仲良くハナコサマと手と手を取り合って逃げる気だったの~? ムリムリおバカちゃんね~」


「服変わったくらいでコイビトの見分けつかなくなるとか……キツいなオメー……」


 ハザマの身体が小刻みに震えた。


 ハザマも震えていたし、ハザマを捕まえた少女も――サクラも、震えているようだった。


 きっとサクラは、ハザマとはあまりにも違いすぎる感情が発露しているのだろうが。


 己の中に広がる常識と理解と感覚がぶつかり合い、頭が弾けそうな気持ちだった。


 見間違えた。約束の少女を、未来を約束した少女を、見間違えた。


 しかも――これは、二度目のことだ。


「……………………」


 頭がぐるぐると回って、めまいで吐きそうになって、胃の中が空っぽで何も出てこなくて、そして次第に力が抜けていく。


 その果てにハザマは、自分を支配した脱力感の正体を知った。


「…………見分けなんか、つくわけ、ないだろ」


 その声はサクラにのみ届いたらしく、サクラが壁を拳で殴り、反動で戒めの中にあるハザマの身体はさらに歪められた。


「ハザマ様」


 親衛隊に止められながらも、ハナコは進み出た。


 そしてハザマの顔を覗き込む。


「これでヒトの形をしたあなたと話すのは最後なので、女王ミライが私に残した言葉を伝えておきましょう」


 最後、という言葉を胸に、ハザマはハナコと見つめ合う。


 上手くいっていれば。


 上手くいっていれば、こいつを故郷に連れ帰って、こいつの姉妹も故郷に呼びつけて、故郷の英雄になれたんだがな……。


 段々薄くなっていく意識で、ハザマはそう思った。


「ハザマ様。女王ミライはあなたに感謝してました。ようやく『彼』の呪縛から解き放たれ、新たなる『繁殖機』を狩りにいけると」


「たびだち……はん……き……」


 解せない、何もかもが、目の前の同じ顔をした人造の悪魔たちも、英雄になるはずだったこの身の不遇も、しかし何よりも。


 その最奥に位置する、最も解せない女がいる。


「女王ミライが外界任務に娘たちをやって集めた情報と、あなたが私に教えてくれたあなたの故郷のこと――。全てが、女王ミライをあなたの故郷へと導いた」


 女王ミライ。


 何世紀もの間、ハニカムランドの玉座に君臨しつづけた女。『彼』の理想と欲望を少女の肉体に押し込められ、狂人の国の女王となった女。


 ハナコの声が遠くに聞こえて、ひどくぼんやりとしている。


 意識が朦朧としていた。手足の感覚はとっくにない。


 大雪の中の放浪者であったあの日と違って、きっと再び目覚めを与えてくれるものはない。


 ハザマは、二度と帰ることの許されない故郷のことを思い返していた。


 貧しくて、原始的で、荒みきった人間しか住んでいない、大陸では珍しくもない種類の共同代コミューンであった。


 けれども、ハザマ少年は恵まれていた。珍しく教養も与えられていたし、貴重な資料を読み漁ったおかげで女にも権利があることを知れた。


 ハザマは、そこで一瞬意識が戻る。


 待て。


 今こいつは何と言った?


「いずれ、あなたの故郷から、たくさんの女王が産まれることでしょう」


 ハザマの記憶のちいさなほころびから、幼い頃目にしたミツバチの生態についての記述が漏れ出す。


 女王蜂は、自身のコロニーに次代の女王蜂が誕生すると、一定数の働き蜂を連れて新たなコロニーを創設するために旅立っていく。


 そしてハニカムランドというコロニーの女王蜂は、雄蜂を産むことはできない。


 しかし、ハニカムランドというコロニーの女王蜂とて、番う雄蜂がいなければ新たな働き蜂を産むことはできない……。


 自我の喪失の直前だというのに、次から次へと記憶の奔流があふれ出す。


 人工ながら優しい日の光の下、のどかなカフェテラスで語り合っていた遠く懐かしい日々。


 いつも冷たいくらいに感情の薄い少女は、実は好奇心旺盛で、よくハザマ自身やハザマの故郷について尋ねてきた。


 ハザマは得意になって、よく語って聞かせてやったものだ。


 故郷の風習、故郷の歴史、故郷の人柄、故郷の場所。


 故郷の、場所――。


 ハザマは心が漆黒に溶けていくのを感じていた。いよいよ、意識がこの世の最後を見始めている。


 ハニカムランドのはじまりの女王蜂は――。


 一体、どうして外界に働き蜂を送り込んでいた?


「大陸に春が来ます」


 ハザマは女王ミライの描いた未来の先にある故郷の様子を知って――。


 そして、ようやくヒトとして終わった。

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