第六章『結界崩壊』
第01話 コード・バーミリオン
麒族たちの舞鶴市への侵攻が始まった。
美鶴神社では汎用コンピュータを駆使し、町内に発生した「結界の綻び」を次々に解析している。
初めは一か所だった綻びも、徐々に二つ、三つと増えていき、今では二桁に迫らんとする勢いである。幸いにも、現状の綻びの規模では二流麒族の侵入までが精一杯で、まだ一流麒族がやって来たという情報はもたらされていない。しかし、小さな亀裂から大きなダムが決壊することもあるように、全く予断を許さない状況だった。
また現在、攻類神道では麒族撲滅の特別キャンペーンを実施中で、麒族を倒す猛者である渡殺者たちが、日本全国に散らばってしまっていた。現時点で舞鶴市にいる渡殺者は、第三十八代風月丸である死ノ儀流一郎だけだ。流一郎は、お世辞にも百戦錬磨の戦士とは言いがたく、この緊急事態に完全対応出来る人材ではない。
このように現状は極めて厳しかった。それは、「美鶴神社の防衛は鉄璧である」という安全神話が崩壊した瞬間でもあった。
「弓矢の用意を! 境内で白兵戦になる恐れもあります!」
橘凛は、配下の巫女たちに檄を飛ばしていた。
彼女が要求した弓矢とは、矢じりが鬼包丁と同じ「まがつ鋼」で出来た特別製のもので、巫女たちにとっては唯一の飛び道具であった。この対麒族戦に特化した矢で、美鶴神社という「城」を守る籠城戦が始まろうとしているのだ。もしもこの防御を突破されれば、境内で薙刀を使った近接戦闘が始まることになる。そうなれば、怪我人はもちろんのこと、死者が出る覚悟もしておかなければならない。
「それだけは避けなくては――!!」
凛は自分の頬をパンパンと二度叩いた。
「凛様!」汎用コンピュータの操作をしている巫女の一人が声を上げた。
「何か!?」と凛が応える。
「市内ブロックFに一流麒族の反応あり! ブロックDへ向けて移動中!」
「一流麒族!? それは確かなの!?」
凛が疑うのも無理はなかった。ブロックFと言えば市内でも中心部に近い場所である。そこに本当に一流麒族がいるとすれば、なぜそこに到達するまでに感知出来なかったのか? 汎用コンピュータのデータをそのまま信じるならば、その一流麒族は突然その場所に出現したことになってしまう。
「詳細なデータをちょうだい!」
「只今解析中――三、二、一……出ました! コード・バーミリオン、対象の一流麒族はは餓鸞童子です!」
「何ですって……!」
凛は思わずよろけてしまった。確かに、流一郎が暮らす清風荘はブロックFにある。ということは、餓鸞童子が「出現」したという情報にも誤りはないのだろう。そしてそれはブロックDへ向かっているのだという。
「ブロックDと言えば……」
嫌な予感がした。
「オペレータ! 餓鸞童子が向かっている座標の詳細を解析して!」
「今やってます! ……出ました! ブロックDのセクター・ゼロ番です!」
「セクター・ゼロ番!」
嫌な予感は的中した。当該の場所には、「亀の甲」という小さな丘があり、そこには結界の要衝のひとつである道祖神が祀られている。この道祖神を破壊されたら、事実上、舞鶴市の結界は崩壊し、丸裸にされてしまうのだ。ほかの一流麒族の侵入を許すことにもつながってしまう。
「何とかして、それだけは阻止しないと」
凛の脳裏に、境内で死屍累々と横たわる巫女たちのイメージが浮かんだ。
いけない! 今からそんな弱気になっては! 凛は自分自身を鼓舞した。
「凛様、お電話が入っております!」
巫女の一人がコードレス電話の子機を持ってきた。
「電話ッ!?」
思わず大声で聞き返してしまった。凛もテンパっているのだ。
こんなときに誰からだろう? 不思議と嫌な感じはしなかった。
子機を受け取った凛は、受話口に向かって声を張った。
「はい、橘凛です!」
× × ×
「もしもし! 死ノ儀流一郎だ!」
流一郎は自宅の黒電話から、美鶴神社へ電話をかけていた。
はたして電話の相手は凛だったが、その背後では巫女たちの声が錯綜して騒然としている。おそらく、汎用コンピュータをフル回転させて現状の把握に努めているのだろう。
「風月丸様、もしやと思いますが鬼包丁を――」
「ああ、抜いた」
「――――……」
受話器の向こうで、凛が卒倒しそうになるのが分かった。
それは十分想定内の反応だった。
「詳しい話と処罰は後だ! 餓鸞童子の動静を把握しているなら現状を知りたい!」
「餓鸞童子は清風荘を出て、今、亀の甲に向かっています」
「亀の甲だって!?」
「はい。おそらくは、道祖神の破壊活動をおこなうものと思われます。今から特別隊を編成して、討伐に向かおうと考えていたところです」
「分かった。だが討伐隊は出すな。人員は美鶴神社の防衛にまわせ。亀の甲には俺が行く」
「お一人で大丈夫なんですか!?」
「失態を演じた代わりに、今の俺は鬼包丁を持っている」
「無理ですよ! その鬼包丁は、なまくらになってるじゃありませんか!」
「それでも、金属バットとは雲泥の差だ――また連絡する」
「ちょっと、風月――」流一郎はそこで受話器を置いた。
となりでは、生気を取り戻した宵子が、受話器に聞き耳を立てていた。
「聞いてのとおりだ。俺は今から亀の甲に行く」
「ここから近いの?」
「自転車で飛ばせば五分とかからない。美鶴神社から軍勢を出すよりはよっぽど早い」
言いながら流一郎は玄関へ駆けだしていた。宵子もあわててそれに続く。
相変わらず軋む鉄階段を駆け下りると、流一郎は階段の裏側にまわった。
街乗りタイプの細い自転車が一台、チェーンロックで階段裏のパイプにつながれていた。流一郎は、チェーンロックのダイヤル四桁の番号を手早く合わせると、解いたチェーンをサドルに巻き付けた。鬼包丁は多少乱暴だが前かごに差し込む。
「乗れ! 時女!」
自転車のサドルにまたがった流一郎が、申し訳程度の小さな荷台を指し示している。
宵子は、自分がセーラー服のスカート姿であることを思い出して一瞬躊躇したが、ええいままよ! と荷台にまたがった。
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