第05話 抜刀の刻

 清風荘の二〇一号室に戻った流一郎は、八畳間の中央に直立する鬼包丁の前であぐらをかいてまんじりと見つめていた。それはまだ最後の決心がついていないことを意味している。

 この鬼包丁による封印には、両親の命がかかっていた。この封印のおかげで、舞鶴市は七年間、安寧あんねいとした日々を送ることが出来たのだ。それを次代の風月丸である自分が、エゴに近い感情をもって抜き去っていいのか? そういった考えが頭をよぎるたび、答えはおのずと「NO」に傾く。

 鬼包丁が放つ青白い光は光度を増していて、昼間だというのに、淡く光っていることが見て取れた。この輝きが、死んだ両親からの激励のメッセージなのか、それとも封印されている餓鸞童子の誘惑なのかは、今の流一郎には分からない。ただひとつ言えるのは、この輝きの変化こそが「時代が移った」ことを意味している、ということだけだ。

 流一郎のなかで小さな決心が芽吹いたとき、二〇一号室のドアが荒々しくノックされた。

 ドンドンドンドン!

「死ノ儀くん! いるんでしょう!? 入ってもいい!?」

 それは、時女宵子の声だった。

 流一郎はすぐには返事をせず放置していたが、やがて玄関のドアが小さな軋み音を立てて開くのが分かった。

 軽めの足音が、廊下を伝って近づいてくるのが感じ取れる。

 やがて八畳間に姿を現したのは、先程までと同じくセーラー服を身にまとった時女宵子その人であった。

「やっぱりいたんだ――」と言った宵子の表情は安堵に包まれている。

 彼女は流一郎のそばに近づくと、さも当然の権利のように、その隣に正座した。

 二人で、鬼包丁の前に並んで座った。

「時女――」

「私も色々考えたんだ。麒族を目の当たりにして思うところもあった」

 宵子は流一郎の瞳をのぞき込むようにして見つめた。

「死ノ儀くん、やっぱり逃げちゃ駄目だよ。この鬼包丁は七年間この町を護ったけど、もう限界が来ているんでしょう? それってまだ終わってないってことでしょう? 餓鸞童子はいずれ復活を遂げる。まだこの事件――いや事変っていうのかな、それはまだ途中なんだよ、続いているんだよ」

 そう言う宵子の瞳には迷いがなかった。さっきまで過呼吸で倒れていたとは思えないほど、まっすぐで力のこもった眼力だった。

 流一郎は視線を鬼包丁に戻した。

 青白い光はさらに輝きを増していて、まるで今の宵子の言葉に反応しているようでもあった。

 それが指し示すのは何なのか?

 光の源が、流一郎の両親であっても、あるいは餓鸞童子であっても、等しく「この鬼包丁を抜け」と訴えているのではないだろうか。

 流一郎は決断を下した。

「そうだな、時女――俺もそう思う」

 そういうと流一郎は、あぐらを崩して立ち上がった。当然のように宵子も立ち上がる。

「俺は、風月丸として立たねばならない男だ。そこに鬼包丁がある限り、戦い続ける宿命にある人間――渡殺者なんだ」

「死ノ儀くん……」

「鬼包丁は抜く。餓鸞童子は倒す。そしてそのほかの麒族たちも全て祀る。三十八代続いてきた歴史の糸は、今日から俺が紡いでいく」

 心は決まった。いよいよ流一郎が鬼包丁の柄に手を伸ばす。

「時女、そう言えば美鶴御前から賜った護符はちゃんと身に付けているか?」

「うん。持ってるよ」

「餓鸞童子を相手に、その護符がどこまで効くかは分からないが、そのまま身に付けておいてくれ」

 そう言った後、流一郎は一瞬考えてから言葉を継いだ。

「だが、気休めにしかならないかもな。きみはこの町との因果が根深すぎる」

「そのときは死ノ儀くんが守ってくれるんでしょう? この鬼包丁で」

「ああ」

 流一郎は、鬼包丁の柄を握る右手に力を込めた。

「これで私も共犯だね」

 宵子はある種の喜びを感じている。

 流一郎は、空いた左手で「印」を結ぶと、「舞鶴の早九字」と呼ばれる言霊を口にした。「滅・裂・亡・殺・壊・無・闇・崩・死」

 鬼包丁の輝きがみるみる増していき、やがて直視出来ないほどの光を放つ。

 それとシンクロするように、宵子の胸は、再び脈動するようにうずいた。

「抜刀!!」

 流一郎は鬼包丁を、深々と刺さった畳から引き抜いた。

 鬼包丁の刀身が、七年間蓄積したエナジーを解放するかのように光り輝く。

 それは鬼包丁の刀身に使われている「まがつ鋼」の特性で、目も眩むほどのその輝きは、あまりにもまぶしすぎて眼球の奥深くに痛みを残していった。

 一瞬ののち、八畳間に静寂が戻ると、あまり間を開けずに子供の声が鳴り響く。

「そんなボロボロの刀じゃ、僕はもう割れないよ、愚か者」

 それは初めて耳にする餓鸞童子の肉声だった。

 鬼包丁が刺さっていた畳の穴、そのあたりから黒髪の頭がぬっと湧き出てきた。

 そのまま上昇するように顔、胴体、足が姿を現す。

 特徴的な「かむろ頭」に山伏の装束、背中から生えた羽根はからすというよりも白鳥のそれに近い。左手に持った鉄扇で優雅に風をあおぐその姿は、強いて言えば「小天狗」といったそれに近いものがあった。だがそれはあくまで先入観に基づいた見た目の話だ。彼は、れっきとした一流麒族であり、まさに超一流と名付けても語弊のない存在なのだ。

「餓鸞童子――!」

「はじめまして、三十八代目の風月丸。きみのことは三途の川のほとりから、ずっと見つめていたよ」

 流一郎は、無言で鬼包丁を腰だめに構える。餓鸞童子の言葉に耳を貸すつもりはなかった。どうせ世迷い言で人間をたぶらかすだけに違いないのだから。

「ああいやだ。その構えは二度と見たくないと思っていたのだけど、さすが親子だねえ、まるで先代の生き写しじゃないか」

 パシッ! と餓鸞童子が鉄扇を畳んだ。

 彼の得物はこの鉄扇なのだろうか? 長さ三〇センチほどに折りたたまれた鉄の棒で、鬼包丁を相手に剣戟を繰り広げるというのだろうか?

「ウフフフ……鬼包丁なくして風月丸とは言えない。鬼包丁と風月丸は不可分の存在なんだ。そういう意味では、今日がきみの初陣というわけだねえ、三十八代目」

「やはり、その口から吐き出されるのは戯れ言しかないというわけだな」

「なんだい、なんだい、僕はきみの門出を祝福してあげているというのに。そういう言いかたをされると、僕もすねてしまうよ」

 そう言うと、餓鸞童子は畳んだ鉄扇を流一郎のほうに向けた。

「僕は強いよ。本当に強い。鬼包丁の秒殺だって、幾度となくかわしてきたんだ。だから僕を怒らせないほうがいい。何度も忠告したりはしないからね。僕を怒らせないほうがいいよ」

「――そうかい!!」

 ダンッ! と流一郎が畳を蹴った。

 この狭い八畳間では、先の先を取ったほうが勝つだろう。そう判断した流一郎の剣戟であった。

「秒殺!!」

「甘いね!! シュガートーストのように甘いよ!!」

 突進した流一郎を、木の葉のようにひらりとかわす餓鸞童子。

 すれ違った二者は、互いに背中を向け合うような体勢となった。

「鉄扇撃!!」

 猫が身体をくねらせるように反転した餓鸞童子が、鉄扇で流一郎の背中をはたく。

 流一郎の身体は、驚くほど強い勢いで部屋の壁にぶち当たった。漆喰に、人の形をした大きな亀裂が走る。

「ぐぁっ!!」

「いいね。今のうめき声はいいよ。僕のなかの残虐性が目覚めてしまうよ」

「くっ!!」

 本当は全身の骨が砕けるほどの衝撃を受けたはずだった。だが、アドレナリンを大量に分泌している流一郎の身体が、それを無傷だと錯覚させる。

 流一郎は壁を地面のように蹴って、餓鸞童子のもとへ跳んだ。

 ガッ!

 流一郎の鬼包丁を、餓鸞童子が鉄扇で受け止める。

 一太刀浴びせることは叶わなかったが、餓鸞童子に避ける暇を与えなかったのは十分な戦果だ。だが、わずか三〇センチほどの鉄扇でそれを受けきった餓鸞童子には、まだまだ余裕があるのかもしれない。

 間髪を入れずに流一郎は鬼包丁をはね上げ、餓鸞童子にそのまま袈裟斬りを加える。

 流一郎の感覚では餓鸞童子の骨を断った――はずだった。しかし実際は餓鸞童子の山伏装束を紙一重で斬り裂いたに過ぎなかった。

 会心の一撃であっても、餓鸞童子の本体にダメージを与えることは出来なかったのだ。

「駄目か!!」

 流一郎は、思わず吐き捨てるように叫んだ。

 だが、感情を高ぶらせているのは、むしろ餓鸞童子のほうだった。

「うわああああ、傷つけたな! 僕の衣装を汚したな!」

 バッ! と餓鸞童子が鉄扇を開いた。

 よく見ると、扇の中骨には、それぞれ羽根のようなものが付いている。

「霞羽根!!」

 餓鸞童子が開いた鉄扇でブン! と扇ぐと、中骨から生えていた羽根が一斉に飛んだ。まるで散弾銃の弾のように流一郎に襲いかかる。

 流一郎は、避けるか、鬼包丁で弾くかの二択を瞬時に求められた。

 思考で判断するよりも早く、鬼包丁を眼前で振って、飛来する羽根たちを叩き落とす。

 少しずつではあるが、流一郎は餓鸞童子のスピードを見切りつつあった。だが油断は禁物だ。目の前の相手は、先代の風月丸が命を賭すことでしか封印することが出来なかった相手なのだから。

「あどけない剣戟しか出来ないくせに、やるじゃないか三十八代目」

 余裕綽々の笑みを見せる餓鸞童子。

 しかしその内心は穏やかではないようだ。なぜなら、それは餓鸞童子が初めて見せた「感情」だったからだ。

 笑みを、そのままの意味で余裕と捉える必要はない。流一郎は餓鸞童子の中から感情というものを引き出した。そして感情は、その時々の戦況を大きく左右するだけの力を持っているのだ。良くも悪くも。

「図に乗ってもらっては困るよ、三十八代目。きみはまだ羽ばたいてすらいない雛鳥のようなものなんだ。一流麒族である僕に立ち向かおうなんてこと自体、分不相応だっていうことをよく理解してもらわないと」

「どうかな? お前のスピードは、かなり見えてきたぜ……致命傷を先に受けるのは、もうどちらか分からなくなったんじゃないか?」

 すると餓鸞童子は、くっくっくっと笑った。

「愚かだねえ。きみに仇なす方法なんていくらでもあるよ。例えば人間は、他人の痛みをまるで自分のことのように感じることがあるよね。全くもって道理に合わない感覚を持っているよね」

 餓鸞童子は鉄扇を畳むと、その先端を部屋の隅で観戦していた宵子に向けた。

「ひっ」と宵子が短い悲鳴を上げる。

 餓鸞童子と宵子の目が合った。

「例えば刀匠の娘。僕がお前を食らったら、風月丸は一体どのようになってしまうだろうねえ。救えなかったという悔しさで死んでしまうのではないだろうか。所詮、他者が滅しただけに過ぎないのに、まるで自分自身が欠けてしまったように思ってしまうのだねえ」

 そう言うと餓鸞童子は再び鉄扇を開き、口元を覆ってこう言った。

「なんと愚かな」

 そう言うと餓鸞童子は、流一郎のことを無視して宵子のもとへ跳んだ。そしてその口を大きく開くと宵子の首筋に噛み付こうとする。口の中には小さく鋭い牙が何列にも渡ってぎっしりと生えており、人にあらざる者としての麒族の醜悪さを見せるには十分な光景だった。

 食む。

 餓鸞童子が宵子の首筋に牙を立てる。

「ああっ!」

 悲鳴を上げる宵子。

 だが次の瞬間、二者の間に突然青白い炎が燃え上がり、弾き飛ばされたのは餓鸞童子のほうだった。

 部屋の片隅に転がった餓鸞童子は、信じられないものを見るような目つきで宵子のことを見ている。

「――何なんだ、お前は!」

 餓鸞童子は目を見張った――と同時に、流一郎の鬼包丁が餓鸞童子に襲いかかる。餓鸞童子はすんでのところでそれを避けると、背中の白い羽根を大きく広げた。ブワン! と大きく羽ばたくと、部屋の天井をそして屋根瓦をもぶち破って大空に舞う。

 もはや流一郎にそれを追撃する手立てはなかった。

 カラン……と割れた瓦の欠片が室内に落ちてきた。

「時女――」

 流一郎は宵子に向き直り声をかける。宵子は、間近に見た戦闘の激しさと、自身の身体に起こった謎の現象に放心し、ただ自分の肩を抱いていた。

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