第04話 伏見家、その矜持①
時女宵子が目覚めたのは、夜闇が一層深くなってからだった。
最初、宵子は自分の置かれた状況を把握できなかった。ディスコ「ケイオス」での出来事が、記憶からぽっかりと欠落していたからだ。目覚めたベッドは宵子の自宅ではなかったし、かといって病院という雰囲気でもなかった。
ゆっくりと上体を起こす宵子。ズキンと胸の奥に鈍い痛みが走る。怪我でもしているのかと自分の胸元を見たときハッとした。それまで着ていたはずのセーラー服ではなく、ファンシーなキャラクターがプリントされたスウェットを身につけていたからだ。掛け布団を大きくめくると、下半身も同柄のスウェットに着替えさせられている。
ふいに、「ケイオス」での記憶がよみがえった。死ノ儀流一郎と一緒に、古びたディスコで亡霊人討伐をしていたということを。そこで宵子は何かしらの恐怖体験をして気を失ってしまったということを。
だとすると、宵子をここまで運んできたのは死ノ儀流一郎ということだろうか。
宵子は途端に赤面した。まさかとは思うが、自分は死ノ儀流一郎に着替えさせられたのか。だとすれば、見られたのは下着姿だが、宵子としてはそれでも十分に緊急事態だった。
「気が付いたようですね――気分はいかがですか?」
ベッドの上で慌てふためく宵子とは対照的に、落ち着いた物腰で一人の女性が部屋に入ってきた。黒髪のロングヘアを三つ編みでツインに束ね、聡明な瞳を覗かせる桃色フレームの眼鏡をかけた彼女は、伏見小夜子その人だった。
宵子はハッとして周囲を見渡した。
宵子の勘が正しければ、ここは――。
「本当なら、もっと落ち着いた状態でお招きしたかったんですけどね」と小夜子。
そう、宵子は小夜子の邸宅に運ばれていたのだ。それを手配したのは誰かと言えば、やはり死ノ儀流一郎なのだろう。
「あの……私……」
それでも宵子には分からないことがあった。なぜ、伏見小夜子の家なのだろうか。そのことを訊ねると小夜子は「人間社会で生きるには、それぞれに役割を受け持ちますからね」とうそぶいた。何だかよくわからない。
「そんなことより、気分はどうですか? 亡霊人の瘴気に
「亡霊人の瘴気……?」
「砕けて粉末になった亡霊人が肺に溜まると、ある種の熱病を呼ぶことがあるんです――今回は死ノ儀くんがたくさんの亡霊人を割ったそうですね。少し心配です」
宵子は、あえてゴホンと咳をしてみた。特に違和感はない。
「時女さんは気を失っていたようですから、呼吸が浅くて済んだのかもしれませんね……よかったです」
そうだった。宵子はさらに記憶を取り戻した。
二人組のバーテンダーとバーテンドレス。その口の中に並ぶ何十本もの細かい牙。
あれもまた亡霊人だったのだろうか? それとも死ノ儀流一郎が言うところの「麒族」なのだろうか? あの二人組は宵子に危害を加えようとしていたと思う。あの牙は宵子に向けて立てられたものだと思う。それなのになぜ、宵子は無傷なのだろうか。考えられるのは、間一髪のところを死ノ儀流一郎が救ったという展開だが、あの時の流一郎は
「あの……死ノ儀くんは今どこに?」
「討ち漏らした標的を追っています。御本人曰く、発見できる可能性は低いそうですが」
「そうですか……」
「ところで時女さん。あなたは今までに浄化の儀式を受けたことは?」
「ない……と思いますけど。どうしてですか?」
「あなたの魂がとても澄んでいるからです」
そう言われて宵子はキョトンとしてしまった。多分、褒められたのだろうが、「魂が澄んでいる」という言い回しには違和感が残る。自分のことを清廉だと思ったことはないし、そう形容されるほどの人格者でもないように思う。むしろ、目の前の伏見小夜子の落ち着きぶりのほうがよっぽど「大人」だ。人生の手練れという感じがする。
ふいに部屋のドアが三度ノックされ、執事長の谷口がティーセットを持ってやって来た。
悪夢から目覚めた宵子の気持ちを落ち着けようと、心を穏やかにするハーブティーを用意したと言う。ガラス製のティーポットからカップに注がれる琥珀色の液体はそれだけで周囲に独特の芳香を届けた。
「いい香り……なんだかほっこりします」
「このハーブティーはアロマ代わりになりますし、吸い込んでしまった亡霊人の粒子を体外に排出する解毒作用もあるんですよ。亡霊人と戦う者にとっては必携のハーブティーなんです」
亡霊人と戦う戦士用のお茶が、なぜ伏見家に常備されているのか疑問に思いつつも、宵子はティーカップの液体を口にした。途端、口腔に爽やかな香りが充満すると共に全身の毛穴が開くような開放感を得る。新しい言葉で言えば「デトックス」という単語が当てはまるだろうか。これほどまでに効能が実感できるとは思ってもみなかったので、宵子は驚いた。
「……死ノ儀くんも飲んでるのかな?」
「彼の場合は……どうでしょう? このハーブティーは無用かもしれませんね」
「そう……なんだ」
と言いつつ、宵子はもう一度ハーブティーを口にした。口に含んですぐの爽やかさと共に、最後に後味として残るほのかな苦みが絶妙なハーモニーを奏でている。対亡霊人用と言わず、普段使いのティータイム用としても需要がありそうな味わいだった。
もっとも、この宵子の感想には肝心な要素が抜け落ちている。
このハーブティーが一杯あたり三万円もすると聞かされれば、宵子のティータイムに登場することは決してないだろう。
ジリリリリン、ジリリリリン――。
出し抜けに、壁掛け式の電話が鳴った。昭和の今どきには見かけないレトロなデザインで、金色の装飾――まさか純金ではないだろう――が高級感を醸し出している。
「はい、伏見でございます」
受話器を取ったのは執事長の谷口だった。谷口は、即座に小夜子にアイコンタクトを送ると、電話越しの会話が筒抜けになるように、いちいちそれを復唱した。
「これはこれは舞鶴警察署の
受話器を置く谷口、そして小夜子の顔を見てうなずく。
小夜子は全くの平穏な調子で、宵子に言った。
「聞いてのとおりです、時女さん。あなたをディスコから連れ出すときに使ったリムジンが目撃されていたようですね」
「すみません……なんだかご迷惑をおかけしたみたいで……」
「いいえ、迷惑だなんてとんでもない。私たちが好きでやっていることですから、何も気に病む必要はありませんよ――とは言え、時女さんは早くこの家を離れたほうがいいですね」
「刑事さんが来るんですか? まさかその人も亡霊人?」
すると小夜子が笑った。
「人間ですよ。正真正銘の。ただ、好奇心がとても旺盛なかたで――ああ、それはいつもご一緒の探偵さんのほうかしら?」
そう言うと小夜子はもう一度笑った。
「時女さま、こちらをどうぞ」
そう言って谷口が差し出したのは、きれいに折りたたまれた宵子のセーラー服だった。宵子がそれを受け取るや、谷口は「それでは、失礼いたします」と頭を下げて退室した。宵子が着替えやすくするための配慮だろう。宵子は急ぎスウェットを脱ぐと、本来のセーラー服姿に衣装替えをする。宵子のセーラー服は、亡霊人の欠片や粉末を大量に浴びていたはずだが、それはきれいさっぱりに取り除かれていた。洗濯された感触はないので、掃除機で吸い取ったのだろうか? などと考える。
「あの、伏見さん、今日は本当にありがとうございました」
その宵子の言葉にも、小夜子の笑みは途切れない。
「それは少し誤解していますよ、時女さん。私たちは死ノ儀くんと結んだ「協定」を遵守しているだけです。お礼なら死ノ儀くんに伝えてくださいね」
「死ノ儀くんに?」
「ええ。伏見家が存続しているのも、すべては死ノ儀くんのおかげですから」
今ひとつ話が見えない。
死ノ儀流一郎が亡霊人を狩るという、いわば「亡霊人ハンター」だということは分かった。だが、それを取り巻く人間関係は今ひとつはっきりとしない。なにしろ、昨日から非日常的な展開が多過ぎだ。
するとタイミングを見計らったかのように、谷口が戻ってきた。
「お車の準備が整いました――さあ、時女さま、ご自宅までお送りいたします」
対する宵子は「車に乗るほどの距離ではないので」とやんわり断ろうとしたが、それでも谷口に押し切られる形となった。「今宵は瘴気に満ちています。こんな夜は亡霊人の支配する闇が深いものです」と。
確かに、引っ越し初夜から亡霊人に襲われた宵子だから、ぐうの音も出ない。
「それではお世話になります――」と納得させられる形になった。
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