第04話 亡霊人の午後②
亡霊人一柱ぶんの欠片を捨てるのに、二人がかりでゆうに三〇分はかかった。
最後はホウキとチリ取りで極小の欠片を掃いて、床板を雑巾できれいに拭き上げる。
思いのほか重労働だったが、死ノ儀流一郎はいつもこの欠片たちを放ったままなのだろうか?
「亡霊人の欠片はやがて土に還りますから、放っておいても自然になくなるんですよ」
小夜子がごみバケツを持ち上げながら言う。宵子はあわてて手伝おうとしたが「一人で大丈夫です」と小夜子に止められた。
「あの……じゃあ、雑巾洗ってきます」
手持ち無沙汰になりたくなかった宵子は、小夜子の雑巾も奪い取ると、廊下にある手洗い場へと向かった。
手洗い場は教室のすぐそばにあった。水道の蛇口を大きくひねり、雑巾の汚れを水で洗い流す。
宵子は、ふと思う。
雑巾に付着していた亡霊人の小さな欠片や粉末は、やがて下水道や浄水施設を通って海へとたどり着くのだろう。自然に還るのだ。そう思うと、やはり亡霊人もまた「生きた存在」であると感じられた。「亡霊の人」という文字を書くが、それでも生きているのだと。そう考えると、欠片はやはり遺骨のように思えてならなかった。
ドクン――。
宵子の心臓が不規則な鼓動を打つ。
まただ。この発作は宵子の持病みたいなもので、長年悩まされ続けている。自覚は無かったが、よほど顔面蒼白になっていたらしく、ごみバケツを所定の位置に戻してきた小夜子が「大丈夫ですか?」と心配そうに覗き込んだ。
メガネの奥に光る小夜子の瞳が、宵子の瞳をまっすぐに見据えていた。
『ああ、赤い瞳なんだ……』
宵子は、小夜子の瞳を見つめながらそう考えていた。
赤い瞳の人なんているのだろうか? と疑問に思ったが、どうやらそれは光の加減でそう見えただけらしい。あらためて見つめた小夜子の瞳は、日本人の多くが持っている茶色のそれだった。
「何だ、まだいたのか」
すぐそばから艶のある声がかけられた。振り返ると、そこには姫野先生の姿があった。
「黄昏時は逢魔が時とも言う。不用心に校内には残らないことだ」
「? ……は、はい」
素直が勝る宵子の性格だったが、ふと姫野先生の言葉に疑問を感じる。
確かに教室に三〇分以上居残っていた宵子と小夜子だが、部活動をしていればもっと遅くまで校内に残るのが普通のはずだ。現に、校庭や体育館のほうからは、運動部のかけ声が聞こえるし、吹奏楽部のトランペットが鳴っていることも分かる。
それなのに、なぜ姫野先生は宵子と小夜子の滞在を注意したのだろうか。
「申し訳ありません、姫野先生――私の注意が足りませんでした」
そう答えたのは小夜子だった。
宵子は、自分が亡霊人の欠片を掃除しようとしたせいだと釈明したかったが、それを小夜子が左手でさえぎる。
「帰りましょう、時女さん」
「う……うん」
宵子と小夜子は教室に戻って鞄を取ってくると、姫野先生の脇をお辞儀しながらすり抜ける。
「失礼します、先生」
「気を付けて帰るんだぞ」
念を押すように言う姫野先生。宵子は違和感を覚える。
「ああ、そうだ、時女宵子――」
靴箱エリアへの階段を下りかけた宵子の背中に向かって姫野先生がつぶやいた。
無意識に振り返る宵子。姫野先生は言葉を続けた。
「――あまり亡霊人に気持ちを注ぐな。お前の使命を果たすまではな」
校舎の裏玄関に並ぶ靴箱エリアには、生徒たちの気配は全くなかった。
それはもっともなことだろう。帰宅部はとうに下校していたし、運動部と文化部はともにグラウンドや部室などで活動の真っ最中だからだ。
宵子は、上履きから靴に履き替えている小夜子に思い切って提案してみた。
「伏見さん――!」
思い詰めた雰囲気の宵子に、小夜子は一瞬表情を堅くしたが、すぐにいつもの菩薩顔に戻って「なあに?」と聞き返す。
「あの……もし良かったら、本当によかったらで大丈夫なんだけど――」
「…………?」
「一緒に帰りませんか?」
人生の岐路に立つような宵子の物言いに、小夜子は軽く吹き出してしまい、そして微笑んだ。
「こちらこそ。一緒に帰りましょう、時女さん――あ、でも……」
小夜子の表情がわずかに曇る。宵子は、自分が何かよくない申し出をしたのではないかと緊張した。両肩に力がこもる。
「あ、あのっ、無理だったら、全然いいからっ!」
「違うのよ、時女さん。一緒に帰るのは全然構わないのだけど……」
「…………?」
「私の家、学園の隣なの」
「学園の隣っ!?」
「そうなの。だからお話ししたりする時間はあまりないと思います」と小夜子は笑った。
「あ、そう……なんだ……」
宵子はずいぶんと間の抜けた返事をしてしまった。転校初日に友達の輪に入り損ねた宵子にとって、小夜子との繋がりは天から差し伸べられた神の手のように思えたからだ。この機を逃したら、宵子は自宅と学園を毎日往復するだけのマシーンになってしまいそうだった。
「あ、そうだ――!」小夜子が突然思い出したように声をあげた。
「時女さん、明日は時間ありますか? よかったら私の家に遊びに来ませんか?」
「えっ、いいの!? …………あっ」
今度は宵子が表情を曇らせる番だった。
「どうしました?」
「明日は美鶴神社に挨拶に行かなきゃ――」
「ああ、それは絶対に外せない用事ですね。最優先で済ませないと」
「残念……」
「大丈夫ですよ、時女さん。明日が無理なら明後日があります。人間の青春はあっという間に過ぎ去っていきますけど、一日くらい出遅れたって大したダメージにはなりません」
「そうかな……そうだよね!」
言いながら、宵子も上履きから靴に履き替えた。二人は校舎の裏玄関を出て、校門へと向かう。
校門までの数十メートルは、左手にグラウンドを眺めながらの道のりだった。小夜子の解説によるとグラウンドは基本的に陸上部が使用しているらしい。以前は、野球部とサッカー部、そして陸上部の三者で、使用する曜日を振り分けしていたそうだが、数年前に学園の敷地が拡張され、野球部とサッカー部には専用のグラウンドが与えられたらしい。実に景気のいい話である。
雑談をするうちに、やがて小夜子と宵子は校門にたどり着いた。
二人は「せーの!」で自分の帰る方向を指差す――結果、お互いに校門を出て右方向だった。
そんな些細なことで笑い合いながら、小夜子と宵子は家路についた。
まずは宵子が口を開く。
「それにしても、自分の家が学園の隣って便利だね。私、寝坊癖があるからうらやましい」
「そうですね。部屋を出てから教室までは、だいたい二〇分くらいで着きますから」
「…………ん?」
宵子の頭の中にクエスチョンマークが現れた。
学園の隣に家があるなら、登校時間はせいぜい五分もあれば大丈夫じゃないのか?
そんな疑問に頭をひねりながら、校門から右へ向かうことわずか一分。学園の隣の敷地は様々な木々が植樹された緑地公園になっていた。ただし公園にしては珍しく、高い鉄柵で囲われていることに違和感があるが……。
「あれ? 伏見さんの家はどこなの?」
「ここですよ」
小夜子が指差したのは、あろうことかその緑地公園だった。
「これって公園じゃないの!?」
「いえ……ウチの前庭です」
小夜子の家筋――伏見家はどうやら大富豪の系統らしい。まずはべらぼうに広大な敷地がそこにはあった。さらに驚かされたのは、先ほどまで過ごしていた舞鶴学園の土地全体が、伏見家の広大な敷地の一部だったということだ。
「自宅の敷地内に学校があるなんて変な話でしょう?」と小夜子が苦笑する。
「う、うん……驚いた。伏見さんの家ってテーマパークみたいに広いんだね」
宵子は、千葉県で今年の四月にオープンしたばかりの世界的な遊園地を思い出していた。伏見家の敷地はまるでそれと同じで、その内部エリアのひとつとして「舞鶴学園」があるようなものだ。
「伏見家が経営を務めている私立学園だから、こんなことになっているの」
いやいや、だからと言って個人宅の敷地内に学校があるというのはスケールが大きすぎるだろう。それだけ小夜子の親の権力や財力が大きいということかもしれないが……。
やがて二人は伏見邸敷地の入り口、大きなゲート前にたどり着いた。どういう仕掛けか分からないが、小夜子が門扉の前に立つだけで、それは少し軋んだ音を立てながらゆっくりと開く。
門が開くと、そこからは整備された砂利道が奥へと続いていた。伏見家の邸宅は未だ見えない。漠然と眺める限り、大量に植樹されたヒマラヤ杉の林へと迷い込んでいくようにしか見えない。宵子は圧倒された。
「あっ、谷口、ちょうど良かったわ」
小夜子の声に、ふとゲートの脇を見ると、一人の老人が立っている。
正装に身を包み、背筋もきっちり伸びた品格のある人物だ。
宵子はとりあえずペコリと頭を下げた。「時女さん、彼は伏見家で長年執事長を務めている谷口という者です。谷口、こちらは今日からクラスメイトになった時女宵子さん」
それぞれにお互いを紹介する小夜子。執事長の谷口がうやうやしく頭を下げると、宵子もあわてて「時女宵子です」とあらためて深くお辞儀する。
谷口に対する宵子の印象は良かったらしく、彼は穏やかな笑みを浮かべていた。
「ところで小夜子お嬢様、せっかくのお友達ですが、本日は月に一度の――」と、谷口が何か言いかけたのを小夜子が封じる。
「ごめんなさいね、時女さん――今日はどうしても外せない用事があるの。だから明後日ね」
小夜子の微笑みは相変わらず女神であり菩薩だった。
今日は伏見家の外観を眺めるだけで済んだのは、宵子としても大歓迎だった。こんな規格外の邸宅に招かれたとあっては、緊張を何重に張り巡らせても心身が保たないだろう。
「それでは時女さん、ごきげんよう」
「あ、うん、さようなら、伏見さん」
こうして二人は伏見邸の正門前で別れた。
空はちょうど夕焼け色に染まりきったころだった。
宵子はまだ日があるうちに、付近を散策することにした。自宅から学園への一本道しか知らないのは、何とも心細く思えたからだ。
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