何故だろう
自分の生きる意味はなんだろうか、自分はなぜ生まれたのだろうか。
私は中学三年生の時のときから、この問題に苛まれ続けている。私は無意味という言葉が嫌いだ。故に何にだって意味が欲しい。だから、自分が呼吸を続けることへの明確な意味が欲しかったのだ。
中学生の私がこの問いを父親にぶつけたとき、父親は、
「お前くらいの年齢になると、そういうことを考えるものなんだな」
と言って答えをはぐらかした。飛び降り自殺を計画した我が子に対して、なんとも軽薄な回答だとその時は思ったのだが、今思い返してみると父親ですら答えを持ち合わせていなかったのだ。私よりも長い人生を消化し、折り返し地点までたどり着いた彼でさえ、未だに自分の答えを持ってなどいなかった。だとすれば、若輩者の私などがその意味を理解できるはずもなかった。
人間の人生に先天的に与えられた意味などない。私が大学生の時になってようやくたどり着いた一つの結論だった。大仰な言い方をすれば、
『人生とは大きな白紙のキャンパスで、それに自分で絵を描いていくその過程こそが”生きる”ということなのだ』
というやつである。だが、齢二十歳を超えてなお、この綺麗事を飲み干すだけの器量が私の心にはなかった。つまり頭ではそういうものだという結論を導きつつも、幼稚でひねくれた我が感性はこの結論を到底受け入れがたいものとして反故にしたのだ。
結果として、私は未だに霧中にいる。ありもしない意味を口実に、現実を浪費している。常にこれが自身の本懐ではないと心のどこかでそうつぶやく。消費すべき熱量を無意識のうちに霧散させ、現実の事象は三流へと成り下がる。
この未熟な感性を切り捨てるには私は一体何をすればよいのだろうか。
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