幕間1-3  目を開ける

誰かの泣き声が聞こえる。自分の喉をいたわることもなく、感情の濁流を自身の口から吐き出すような、際限のない悲鳴。


わんわんとなくその声は自分の喉から出ているようだった。泣き崩れる自分の目の前には首元からえぐられ血を流して倒れる一人の女性。

泣き声は、何度も「お母さん、お母さん」とすでに動かなくなったものを強く揺する。


目の前には数匹のラジット。口からよだれをたらし、僕を取り囲む狼の魔物。その真ん中の一匹の爪にはどす黒い人間の血がへばりついている。

今にも僕にとびかからんとするラジット達は、急に恐怖を露わにして大急ぎで逃げていく。

訳がわからず立ち尽くす僕の視界が急に真っ暗になる。そしてその黒い壁に切れ目が入ったかと思うと、真っ赤な眼光のまなこが僕の目の前に現れた。


その目は僕を凝視する。そして真っ黒な瞳が小さくなったと思った途端に…



***



「うわー-------!」


目覚めたソーンはベットを押しのけて起き上がる。だらだらと全身から汗が吹き出し。手先が信じられない程冷たく感じられる。激しい動悸を抑え、自分の身体を支えようと地面に手を置いたその時、触り慣れた金属のフレームに手が当たる。

ソーンは眼鏡をしてあたりを見回すと、そこがベットの上であることに気づいた。



「…夢か」


しかし、眼前の物を見てしまったソーンは、もう一度悲鳴を上げることになる。


赤い一つ目をした黒い影が、ハリセンボンのように全身に長い棘をはやしている。

ソーンはベットから飛び降りて指笛をしようと口元に手を添える。

しかし、黒い影は悲鳴を上げたソーンに驚くと、部屋の隅にある箪笥の裏側へと隠れてしまった。


呆気にとられたソーンは、箪笥の裏を見つめたまま固まる。

てっきり臨戦態勢に入っていると勘違いしていたが、あの魔物に戦闘の意思はない。

そもそも、攻撃を仕掛けるならソーンが寝ている間に殺してしまえばよかったのだ。


ソーンは落ち着いて部屋を眺める。彼がいるこの部屋は民家の一室のようで、西側の壁には一面を覆うようにずらりと本が並んでいる。近づいて本のタイトルを確認すると、『魔物大全』、『因子学基礎』、『加護領域と魔物の弱体』などが学術的な内容の本がずらりと並んでいる。

ソーンは、そのうちの一冊を手に取ると文字を目で追っていく。


「ティージについてからはずっと牢の中だったから、本を読むのもえらく久しぶりだな。」


この部屋の主はとても勤勉な性格だったらしい。図書館司書で魔物の成り立ちを研究していたソーンでさえ、理解が難しい内容が書かれている。もちろん、この本の内容が畑違いの悪魔に関するものだというもの一因だろうが。



しばらく本を読んでいると、下の階から誰かが上がってくるのが聞えた。

それと同時にソーンは心の中で「しまった。」と叫んだ。本の中身などよりも今の身の回りの状況を確認して状況次第では一刻も早くこの場を逃げる必要があるのだ。


ここかティージなのかどこなのかはわからないが、室内に魔物がいる家がまともな場所なわけがない。それを久々に見た壁一面の本達を見て好奇心が上回ってしまったのだ。

ソーンは窓に近寄ると、開閉の仕様を確認する。どうやら下側は開閉するタイプのようだが、ストッパーのせいで大人一人が出られるほど開けられそうにない。

もしもの時は体当たりで窓を壊して出なければいけないがここは三階だ。落ち方が悪ければ痛いでは済まないだろう。


そうこうしている間に足音がドアの前で止まる。ドアが開くとそこには、ソーンの見知った顔が立っていた。


「…エルンさん。なんだ、ここはネペンテス商会でしたか」



ドアの前に立っていた人物はエルンにそっくりな少女だった。ネペンテス商会は魔物の素材を扱う商会だ。さっき見たあれも、研究材料か何かなのだろう。

ソーンはほっと一息つくとベットに腰掛ける。


「…食事の準備ができていますので、降りてきてくださいね」


名を呼ばれた少女はそういうと下へと降りて行った。

ソーンはエルンのその対応に多少の違和感を感じて階段の方を見た。ソーンは彼女のことについて詳しく知らないが、フュリスで初めて会ったときにはもっと人当たりのよい印象があった。それにあの落ち着き様、ネペンテス商会では寝起きの者が叫ぶのはよくある光景なのだろうか。



一階に降りると、真ん中のテーブルに一人分のシチューがおかれているのが目に入った。一階のリビングはキッチンが併設されているタイプで、少女はというとキッチンで調理器具の片づけを行っており、水道から流れる水の音が聞えてくる。


「あなたは食べないのでしょうか?」


ソーンは席に着きながらキッチンにいる少女に尋ねる。


「いえ、この時間ですから」


そう言われてソーンは壁に立てかけられた時計を眺める。丁度3時を超えたところで、確かに昼食としては遅く、夕食にしては早すぎた。


「そうですか。では、いただきますね」


そういってソーンは具を口の中に入れる。しかし、しばらくすると胃にねじれるような激痛が走り、激しくむせた。そういえばティージで食事を拒否していたのでろくなものを食べていなかったのを忘れていた。


少女は無言で水の入ったグラスをおくと静かにキッチンへと戻っていく。


「ありがとう、っ!っ!ございます」


ソーンは咳が止まらずにむせ続ける。ようやく咳が収まり水を飲む。胃の調子が落ち着いて食事に戻ろうとするとキッチンにいた彼女の姿がなくなっているのに気づいた。

ソーンはあたりを見回すと、後ろのソファーでのんびりと本を読んでいる彼女の姿を見つける。食事をした人がむせ続けるのも、ネペンテス商会ではよくあることなのだろうか…。


「落ち着いていますね…」


少女は少し回りを見渡し、それが自分に対して言われているということに気づくと


「心配して慌てている方が、らしいでしょうか?」


とソーンに尋ねた。



「いや、そうではありませんがとても慣れているともいまして、ここには私のような人をよく泊めているのですか?」

「いえ、見知らぬ人を泊めるのはあなたが初めてです。アランがあなたを連れてきて、目が覚めるまで面倒を見てくれと頼んできたときは驚きました」



少女は無機質な目で本を見ながらソーンの質問に答える。


「あのすみません。アランとはどなたでしょうか…?」



瀕死の自分をエルンに任せるなら、アーデンだと思っていたソーンは聞きなれない名前に少し驚く。



「アラン・ロータス。ノーヴ・ディミリで研究員をやっている茶色い髪の少年です。お知り合いなのではないのですか?」



ソーンの返答は彼女にとっても予想外だったようで、無表情を貫いていた顔が少し困ったような表情に変わる。

そのとき、鍵を開ける音が聞え、二人はドアを注視する。

入ってきたのは茶髪の少年。レーシンでソーンと戦い、ティージで彼を連れ去った調本人だった。





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