【チュエ(鵲)おじさん】

【チュエ(鵲)おじさん】は本名は【秦(チン)】という漢族のお爺ちゃんで、メイフォンの父さんが歌手・母さんが踊り手として所属する烏魯木斉(ウルムチ)の歴史ある新疆歌舞団の最古株であった。


高齢で独り身という事もあり、古くて大きいメイフォンの家に同居していた。


メイフォンのことを『シャオフォン(小鳳)』と呼んで可愛がってくれて、一緒に食事をしながらウイグル特産の葡萄酒に酔っては、誰も知らないような遠い国の話や昔の事や『12ㇺカーム』の曲の意味と地方による編成や曲想の違いなどを楽しそうに話してくれた。


 そして何よりメイフォンが5歳の時から習い始めたピアノとフシタールの先生なのだ。


フシタールはヴァイオリンとよく似た音色で、その原型ともいわれる弦楽器のギジェクと同じように、新疆ウイグルの弓奏楽器だ。

イチジク型の胴体で弦は4本。エンドピンに三日月型のスタンドがついていて膝の上に立てて演奏する。


なにより幼いメイフォンが気に入ったのはヘッド部分がその名の通り『フシ(鶯)』の形になっているところだった。


チュエおじさんのそれは、サイドに共鳴弦が7本ついている古いもので、指板や表板の文様も手がこんでいて胴の左右に弓がぶつからないようにつけられた凹みの装飾には通常の寄木模様ではなく、螺鈿細工が施された国宝級の逸品だったが、なんとそれを使って稽古をつけてくれたのだ。


そしてメイフォンが1年で上達し、弓の運びが大人でも難しい名曲『ホシュタル・クイ』をソラで軽やかに弾けるようになると


「ワシは舞台ではフシタールは弾かんし、ワシの代わりに使ってくれると、この『フシ』も喜んでくれると思うんじゃが、どうかね?」


とフシタールのネック部分を持ってメイフォンの目の高さで動かし『フシ』がチュンチュン鳴いてるようにしてみせて、【チュエ(鵲)】のあだ名のもとになった、真ん中が黒くて両端が真っ白の長く伸ばした顎鬚をいつものように左手で撫で、キラキラと輝く瞳で笑いながら、その『お宝』を惜しげもなくメイフォンにくれたのだった。


実際、歌舞団のバンドマスターでもあるチュエおじさんは自分の部屋とは別に楽器部屋がありフシタルだけではなく、ギジェク・ドタール・サタール・タンブール・ラワープ・チョンダプ・ナグマデペ・サパイ・スルナイ等々『ㇺカーム』で使われるすべて楽器の名器・逸品を数世紀前の歴史あるものから最新の名工の物に至るまで、美術館ができるほど所持しており、またその全ての楽器に精通してもいたのだ。


・・・・・・・・・・・・・


チュエはかつては医者であった。他の人間のように患者に触れて脈をみたり、皮膚や目の色を見たり、息の匂いをかいだり、針で探らずとも、五臓六腑の状態から体内の気や血や水の【流れ】を映像として感じ取れるため、疾病の患部、原因、進行具合、対処法などが手に取るように分かった。類い稀な名医と呼ばれ、天下にその名を知られていた。


しかし、チュエは医者になる前はただの旅館の支配人だった。


中国の西の端、シルクロードの砂漠と山脈の交わる麓のいわゆるオアシスと呼ばれる僻地の古くからあるもとは小さな村の中にそれはあった。


その旅館の名物は8つの違う源泉がある温泉で、そこの若き支配人がお客それぞれに合わせた調合で風呂を用意してくれ、それがまた効果抜群というのが評判になり、大陸各地から金持ちや権力者、傷を負った兵士などが湯治にやってくるため、今では旅館というより一つの繁華街のように賑わっていた。



そんな彼の前に現れたのは【龍】を人の中に入れて【龍人】にすることができる【隠者(神人と称されていた)】の【長桑君】だった。


最上階の窓から赤い提灯が生臭い硫黄の風に揺れているのが見える。


「支配人、あなたは【見える】のですね。」


初めて会った時にチュエに【長桑君】はそういった。


「はい。病人や怪我人は体の内外を問わず悪いところが黒く見えます。」


「では、私はどう見える?」


黒い瞳で見据えられたまま【長桑君】の褐色の体の周りをいつものように焦点を少しずらすようにして見てみると、病人の影の様なそれとは違って、金色に輝くオーラを身に纏っていた。


「ご高名な【長桑君】様に隠し事はできませぬ。いかにも私はその方の体の様子が色や明度で見えまして、それに合わせた温泉を提供させていただいております。」


自信満々にそう答えたチュエに【長桑君】はさらに尋ねた


「では、これも見えますか?」


頭の上を指差している神秘的な異国の顔立ちを見てチュエは戸惑って答えた


「はい。金色に強く輝く光が見えます。これまで見たこともありません。」


「それだけか?」


「は?それだけとは?」


当時のチュエは【龍】を感じることができるだけではっきりとは見ることができない【半見人】だった。


》私の声が聞こえるか?《


キョトンとした顔のチュエを見て【長桑君】の頭の上のそれは頭を振った。


》こいつはダメだな。【半見人】だ。【合龍】して【対合】になることが出来ない。他を当たろう《


(いや。だからこそいいのかも知れません。こうして出会えたことも全ては運命です。)


「これから毎年、この時期に必ずここを訪れて同じことを聞きます。応えてくれますね。」


「はい。かしこまりました。」




そして翌年も、3年後も5年後も9年後も同じやり取りが繰り返された、32年後。




「ようこそお越しくださいました。【長桑君】様。そして【ウアジェト】様」


「ようやく見えるようになりましたね。」


》さて【龍人】にする時が来たな《


「秦さん、あなたは何を望みますか?」



その旅館の裏に8つある源泉のさらに奥に崖に囲まれた小さな滝があった。


滝壺からは湯気が立ち上り天然の露天風呂のようだが、その周りに草木は生えず、その水に魚も棲まず、鳥や獣は決して近付かず、以前には物好きな酔客が近寄って命を落としたこともあり、立入厳禁の立て札と二重に張り巡らされた柵のおかげでそうした事故も今はない。




疾患と患部が解る彼はその症状に応じて8つの温泉の源泉を使い分けて提供していたが、


唯一毒の症状に関しては、対応できないことが多かった。


そのため彼が願ったのは、『毒を制する力』。


彼はすぐに毒の泉で龍を見つけた。


【黒い鴉】と【白い鴉】


【長桑君】は【ウアジェト】に二匹の【龍】を捕まえさせた。


秦は支配人室の周りを人払いして、部屋の中央にある、顔の部分をうつ伏せでも息ができるように丸く抜いた診察台に腰掛けて【長桑君】を見上げた。


「いつもは私がそちら側なので、妙なものですな。」

「秦さんいいですか、あなたの望む『毒を制する力』を手に入れるためには『毒』と『治癒』の相反する2つの力をあなた自身の中で融合させなければなりません。」

「はい。」

「そのために今からこの二匹の【龍】を順番に交互に少しづつあなたに注入していきます。」

「はい。」

「私もこれは初めてのことなのでうまくいくかはわかりません。かなりの苦痛を伴うかと思いますし、拒否反応が強ければそのまま体が消滅してしまうことも考えられます。それでもやりますか?」

「はい。お願いします。」

「わかりました。ではこの薬を飲んでうつ伏せに寝てください。」

【長桑君】は『長桑』から作り出した秘薬の小瓶を秦に手渡した。

「これが、あの『神薬』と呼ばれる不老不死の薬!」

「ほぼすべての苦痛を取り除くことはできますが、残念ながらそれを飲んでも人間は不老不死にはなれません。」

「それでも貴重な『神薬』をありがとうございます。では」

コルクの細い蓋を開け蒼金彩で彩られた小さなひょうたん型の中身を一気に飲み干すと診察台の上に横たわって目を閉じた。

秦が静かな寝息を立て始めたのを確認して、【長桑君】は帯に吊るした宝飾の施された短剣を抜き、細く弧を描いた剣の切っ先を秦の大椎に突き立てた。

と同時に【ウアジェト】が【黒い鴉】の頭にかじりつきその【龍】を構成している【流】の一部を吸い出して秦の傷口から注入し、次に【白い鴉】でも同じことをして、少しづつ慎重に進めていった。2羽の【鴉】は吸われるたびにその大きさが小さくなっていった。

はじめは何の反応も示さなかったが、【鴉】が鳩ほどの大きさになった頃から秦の体が小刻みに震えだした。


》どうする、まだ入れるか?《

「もう少し。まだ足りない。もう少しゆっくりと」


【鴉】が雀くらいになったときには【龍人】であり通常の人の何倍も力の強いはずの【長桑君】が押さえていられなくなるほど秦の体は発熱し、痙攣を通り越してもはや暴れ出していた。


》まだか?《

「これいじょうは無理そうですね。あとは落ち着くのを待ちましょう。その子達は放してあげなさい。」


【ウアジェト】から開放された黒白二羽の雀は開け放たれた窓から元の泉の方へ飛び立っていき、間もなく霞のように消えてしまった。


楼閣の最上階にある支配人室の開け放たれた窓から朝の光が黄金の筋を部屋の診察台まで伸ばしてきた頃、秦は目を開けた。

眼の前にあるのは西方から持たされた高価な敷物の色鮮やかなアラベスク模様だった。王侯貴族など高貴な客は一般のタイル張りの診察室ではなく、この支配人室で診察をしているので、自分の好みとは真逆の豪華絢爛な調度品で設えられたこの部屋が、いつにも増してというかこれまで見たこともない光と輝きと色彩を放っている。


「・・・美しい・・・」

「それは【龍の眼】です。【龍人】になった証です。おめでとう。」


こうして【黒い鴉】と【白い鴉】 は合わせて注入されて【鵲】の【龍】となった。


銀色に輝く【鵲】は頭の中に響く男性とも女性ともつかぬ美しい声で言葉を発した


》名前をつけて《


「そうか、お前が私の龍か。【ピカエ】」


初の造られた【龍】に名前がついた。そして初の造られた【龍人】それが彼だった。



世界で唯一の【人工龍人】とも言える彼は本来の【龍人】とは違って、少しづつだが歳をとって行った。とはいえ、10年に一歳ぐらいの感じで、人間で70を超えたあたりから、さらに老化の速度は遅くなり、誰が見ても『老人』となった今ではすっかり【龍人】と同じように肉体的には時が止まっている。

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