第35話 報奨と罰

 これまで何度も役所関係の用事で来た塔。

 まさかこの頂上に陛下がいらしたとはねえ。

 みんな、上に陛下がいるのわかってて、普通に納税や行政手続きに来てるわけだ。

 あなたのとなりの皇帝陛下。

 ただ、さすがに階段で直通ってわけにはいかなくて。

 役所階と宮殿階の間に五階分くらいの隔離床がある。

 宮殿入口に飛んで行くと、いかにもって感じの衛士さんが六名立ってて、陛下からの招待状が通行証。

 六人全員で目を皿のようにして改めて、やっと中に入れる。

 中はシンプルだけど上質なのが伝わってくる。

 いわゆる絢爛豪華とは正反対。

「陛下は常日頃より質素を旨とされておいでだ」

「どこかの国の政治家を団体ツアーで来させたい」

 その政治も、果たして今はどうなっているのか。

 帰国して吉と出るか凶と出るか。

 控えの間もシンプル。だけど上質。

 椅子やテーブルの細工とか、派手じゃないけどすごい。芸術の域。

 これも献上品かもしれないな。

 パパドがいてくれて本当によかった。ひとりじゃパニックだよ、こんなとこ。

 迎えの方がいらして、パパドがすらりと滑らかに席から立った。

「サエキ、お前が先にゆくのだ。招かれたのはお前、我は付添に過ぎぬ」

 固唾を飲んで、大きく息をついて立った。

 さよなら、みんな。

 さよなら、この国。

 絶対に忘れないよ。

 侍従さんの後について廊下を進んで、重厚なドアの前に立った。

「パパド村のサエキ、参上いたしました」

 侍従さんが言うと、ゆっくりとドアが開いた。

 玉座の真正面、二十メートルくらいあるかな?

 そのレッドカーペットの上をゆっくり歩いた。

 侍従さんが立ち止まったところでおれも止まり、侍従さんが脇に外れた。

 ごくわずかに見えた陛下のお顔。

 鮮やかなゴールドブロンド。精悍な感じでパパドとは違う美男だった。

 すぐに右足を引いて膝を折る。

 左手は膝の上。右手は胸に。

 お顔は促されない限り見ない。

 パパドに教わったとおりにできた。

 そのパパドはおれの右斜め後ろに控えてる。たぶん同じポーズ。

「そなたとの対面、楽しみであった」

 陛下の玉音。以前パパドのところで聞いた。

 あの時よりもずっと滑らかでマイルドだ。強いけど荒くない。

「マドハヴァディティアめ、二百度呼んでも一度しか参らぬ薄情者を、こたび連れ参りしこと、喜ばしく思う」

 ああ、パパドはきっと予測してたんだな、会話の切り口。

 だからついてきてくれたんだ。ありがとう。

「して、酒造りにして英雄たるサエキよ。余はそなたが参ること、知っておった。なにゆえか、わかりおろう」

 問われた。答えなきゃ。

「申し上げます。人間界に戻るためでございます、陛下」

「叶わぬ可能性が高かったが、それでもそなたは余の前に来た」

「はい」

「葡萄酒造りばかりか、よもや英雄にまでなろうとは思わなんだが」

「恐れながら、わたくしの力ではございません。すべてご下賜いただいた褒賞の力によるものでございます。わたくしは英雄などではございません」

 まるで優しく諭すように陛下が言った。

「英雄と申すものはな、サエキよ、他者が認めるものなのだ。戦うために戦に赴くのではない。まさに今、目の前にある弱者を救わんとして、脅威の前に立ちはだかる者。元帥であろうと、農夫であろうと、民が認めるならばそれが英雄なのだ」

「——その呼称も本日ただいま限りで返納いたしたく存じます」

「うむ。ところで酒造りサエキに問う」

「なんなりと仰せください」

「そなたが造りし美酒、いかにして編み出されたのか」

「いくつもの偶然による賜物でございます」

「そなたのみの技能であろうゆえ、詳細は訊かぬ。余が問うはひとつ。そなた以外の者でも編み出せるか」

「——きわめて難しいかと思われます」

 申し訳ありません、陛下。

 この製法だけは、本当にお世話になった師匠だけに遺したいんです。

 門外不出、師匠とそう決めたものだから。

 ちょっと間があって、本当にすごく残念そうな声音。

「なんたることか。余は落胆の極みであるぞ。人間界などに帰しとうなくなったわ」

 いや、この期に及んでそのようなことを申されましても……。

「だが、致し方あるまい。そなたへの報奨はすでに決まっておる」

「謹んで、拝領いたします」

 侍従さんに促されて、玉座に向かう。

 たった五段。

 この一段が十年。

 そして五段を上がって、陛下の御前でまた跪いた。

「酒造りにして英雄サエキ、そなたの卓越した功労に報奨を授ける。これより人間界へとそなたを送る」

 帰れる……おれがもといた場所へ。ようやく。

「ありがたき幸せにございます、陛下。この大恩、この国のこと、決して忘れません」

 ——間があった。

 そして陛下の声が聞こえた。

「それは叶わぬぞ、サエキ」

 ——え……?

「余はそなたを時空の狭間に落ちる前に戻すのだ。そして、裂け目を封じる。そなたがふたたび落ちぬように」

 ちょっと、なに言われてるのか、意味がわからない。

「人間がこの国で長くは生きられぬように、また、堕天族も人間界では長く生きられぬ。それゆえ堕天する前にそなたの時を巻き戻す。そなたは魔界を知ることなく、生涯を人間としてまっとうするのだ」

 ちょっと待って、処理が……追いつかない……。

「まいらぬ地のことなど、どうして覚えていられようか。なにもなかったのだ」

 なかったことになる……?

 この五十年が!?

 師匠やばあさんやパパドやサマエルや——ナオのこともすべて無になる……!?

「そなたは誰も知らぬ、誰もそなたを知らぬ。すべての関わりは無に帰する」

 これが、報奨?

 がむしゃらに追い続けた報奨が『無』だって……?

 別れ際のサマエルの微妙な表情を思い出した——知ってたんだ、あいつは。

『人間界に帰る』ことの意味を。

 パパドは? パパドも知ってたんだよな、このことを。

 最後の瞬間を見届けに来た……?

 すぐに忘れてしまうのに、わざわざ?

 どれくらい自失してたんだろう……少し意識が戻ったら、赤いカーペットがところどころ黒ずんでた。

 ひとつ、またひとつ、赤黒いシミが増えてく。

 それが自分の涙だって、気がついた。

 気がついたら、すごい勢いで溢れてきた。

 姿勢を保てなくて、その場にうずくまってしまった。

 泣き崩れて、動けなかった。

 誰かの手がおれをつかもうとした。

「よい、かまわぬ」

 陛下の声がして、手が離れた。

 言わなきゃならないけど、ただ泣くしかできなくて。

 嫌だ、なにもなかったなんて嫌だ、おれが欲しかったのはそんな恐ろしいものじゃない。

 泣いて、泣いて、やっと必死で声を絞り出した。

「行きたくないです」

 葡萄作りより、大軍と対峙した戦争より、なににも比べられないほど必死だった。

 戦って死んだ方がましだ、なにかを守って死んだ方がましだ!

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ——誰のためにもならない無なんて嫌だ!!

「人間界なんて行きたくないです。この国においてください、国民にしてください、おれは堕天使にはなれないけど、全力で葡萄酒造ります、全力で戦います、どうかお願いです、人間界に帰さないで——!」

 静まりかえった謁見の間。

「なにも忘れたくない、忘れられたくない、そんなの嫌です、……絶対に嫌だ!」

 いつの間にか、ここはおれの世界になってた。

 元人間とか堕天使とか関係なく、ここはもうおれの居場所だったんだ。

 静寂の中、おれの嗚咽だけが響く。

「——余が聞き及ぶ限り、そなたは国民登録をすませておるはずだが」

「……はい」

「では今さら国民になるもなかろう。そなたはすでにこの国の民。大罪を犯したでもなく、追放せねばならぬ道理もなし。いかに余とて道理なきことはできぬ」

 帰らなくていい……?

 みんなのこと、忘れなくていい?

 全部無にしなくていい?

 みんなのこと忘れなくていいんだ、もっとずっと思い出増やせるんだ。

 師匠と研究したり、パパドに味見してもらったり、サマエルとくだらない雑談したり、ナオと笑ったり……いままでのように暮らせるんだ。

 この国で、堕天者として。

「ひとたび辞した報奨、二度は与えぬぞ。承知の上か?」

「はい」

「許す。しかし……余は今困っておる」

 とても素直な方だ、困った時はほんとに困った声になる。

「そなたの望みは人間界への帰還であると決めておったゆえ、代替の報奨がない」

 あ…………。

「臣民を招きおいて、なにも授けずに帰すなど、皇帝にあるまじき無様。いかにしたものか……」

 皇帝陛下、本気でお困りです……。

「マドハヴァディティア、愛しき賢者よ、そなた、なんぞ知恵はないか」

 いきなり丸投げされたパパド、どうするんだろう……?

 また、しばらくの静寂。

「……恐れながら」

「申せ、賢者」

「ふたたびの謁見をお与えになるのがよろしいでしょう。ですが、報奨をお選びになるのは陛下でございますれば、いつ招くかをお決めになるのは陛下の思し召しにございます」

 ものすごい苦肉の策。パパド、切れ者。

「うむ、そういたす。サエキにふたたびの謁見を授ける。いつ招くかは余が定める」

「……拝領いたします」

 侍従さんの手を借りて、おれは玉座を降りて、後ずさりで元の場所に戻った。

 ——背後から、ものすごい殺気感じる。

「ところで」

 陛下の小さい咳払い。

「余が台座を汚したる罪にて、そなたに罰を与えねばならぬ」

 ですよね……涙と鼻水でグチャグチャ。これもう本当なら首刎ねられるレベル。

「今後そなたが造りし酒、年いかほどになるか」

 酒?

「あ……いかにしましても、百には届きません。最大で八十本程度かと」

「して、その値はいかほどか」

「恐れながら……ただいま、値のつけようがわからず、お答えができません」

「値がつかぬか」

「高くすれば一部に集中する懸念があり、安くすればわたくしの身が立ちません。かないますれば、陛下に御定めいただきたく存じます」

 即答だった。

「そなたが造りし酒、市中に売ること、まかりならぬ。これをもって罰とする」

 売るな、って……じゃあどうするんだ、もう造っちゃだめってこと?

 みるくの葡萄酒はここで終わるのか?

「酒はすべて宮中に納めよ。年ごとに白金貨八十枚をとらせる」

 え…………?

 国が一括買い取り?

 ふっ、と柔らかな口調になった。

「余との対面のおり、こわばる者がほとんどなのだ。場を和らげようにも、なかなかそうはゆかぬ。余の不徳だ」

 皇帝は皇帝で気を遣うなんて。謁見って双方大変なんだな。

「ならばせめて、寛ぎの間で美酒を一杯供してやりたい。甘く円やかな美酒は、みなの気疲れを癒やすであろう」

 あ……そういうことなんだ。

 おれも師匠も懸念してた。量が少ないからプレミアがつくこと。

 生産規模を考えれば、すぐにわかる。

 一部の豊かな手に集中するかもしれないこと。

 いっそ全部宮廷に納めれば、どんな立場の堕天使でも謁見したら飲める——公正だ。

 とても聡明で公明正大で優しい方だ。慕われるのは当然だ。

「供しきれぬこともあるやもしれぬが、その際の責めは余が負う」

 え? 「残ったらおれ飲むわ」宣言ですか?

「数多き余の臣下らが支えてくれよう。ゆえに最後の一滴たりとも無駄にはならぬ。案ずることなく、すべて納めよ」

 ああ、周りに分けてあげたいんだ。

 失礼な言葉だけど、サマエルが言ったとおり『いい奴』だった。

 そして、口調が凜として皇帝らしくなった。

「国民として恥じぬよう、くれぐれも精進精励怠ることなきよう、今後とも心してまいれ」

 そうして謁見は終わった。

 後悔なんか、これっぽっちもなかった。

 だってなによりも大切な多くのものを、おれはなにひとつ失わずにすんだから。


 今日『佐伯英雄』は死んだ。

 永遠に。

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