第33話 親授
非常時以外、村に降りてくることがないパパドが訪ねてきた。
実体で。
帝都に向かって五日後だった。
金色の縁取りの、白い封筒をおれに差し出した。
「陛下のお召しである」
声が、出なかった。
「かように妙なる葡萄酒を造りし者に是非会うてみたいと仰せられた」
「おれ、が…………」
淡々としてたパパドが、少し笑顔になった。
「農夫にして英雄とは、なんとも器用な者よ……と楽しげであられた」
力が抜けて、椅子の背に寄りかかった。
謁見だ……ついにここまで来た。
葡萄摘んで、戦って、葡萄作って、戦って、酒造って——。
「ひと月後、宮殿に参じよ」
「ひと月?」
「片道十五日、五日前には着かねば。十日ですべて仕度をすませよ」
感慨、こっぱみじん。
「え、あ、いや、ちょっと待って?」
「なんだ?」
「なんだって、だから、ね、おれ、なんにもわからないし!!」
「なにも?」
「そもそも宮殿の場所知らない」
「たわけが」
「すみません……」
「陛下は帝都の塔の頂におわす。頂よりあまねく国を見守っておられる」
えっ……あんな出入り激しいとこのてっぺんにお住まいなんですか?
低階層が店舗で上がマンションの複合ビルの最上階みたいな?
「民より離れし地になど、住まわれる御方ではない。我らが陛下は常に臣民とともにあられる」
まあ、災害級の攻撃力だっていうし、警備が手薄でも誰も襲わないよな。
「なに着ていけばいいのかとか、お作法とか、どんな受け答えしたらいいのか、なにからなにまで本当にまったくわからない!」
「致し方ない、我がともにまいる。万にひとつも無礼などはたらかれてはかなわぬ」
「ご指導ご鞭撻、よろしくお願いいたします」
嬉しさよりもプレッシャーで潰れそうな日々。
ここ数日、よく眠れない。
道中、緊張して墜落しそう。
どうしよう、おろおろしてるうちに出発までもう残り五日しかない!
うわあぁ、なんにも手につかないっ!
「なっさけないなー! そんなんでルシファーに会う気なのかよ」
サマエルは完全に他人事だから、呑気です。
「だっておれ一介の農夫だし!」
「わかったよもう。おれが飛ばしてやるから少し落ち着けよ。めっちゃ浮き足立ってるぞ」
「ありがとう……ついでにひとつ訊きたいんだけど」
「なによ?」
「謁見の報奨って、決まってるの?」
「ルシファーが事前に、そいつにふさわしいと思ったのを決めて用意させるはず。ま、お前の目的はバレバレだろうから、望みの結果になるだろうね。いい奴だから」
「いつなのかな」
「その場」
「え?」
「その場で」
「——なんで?」
「親授だから」
「親授……?」
「皇帝から直接手渡し。でなきゃ会う理由ないだろ。呼びつけといて褒美は侍従から、なんてこと、ルシファーがするわけないじゃん。ちゃんと会って、褒めて、自分で渡すの」
……大変なことになってしまった……。
たくさんご挨拶しなきゃならないみんながいるのに、全然行けない。
道中でいつも優しくしてくれたり泊めてくれたりするみんなや、ドゥルーヴ先生、誰も彼もみんな、挨拶もなしに別れるの?
そんな不義理、したくないよ……。
「これからじゃ、みんなに挨拶に行けない……」
「しかたないね、縁なんだから、思い通りにはいかないよ」
「だけどさ……」
「おれは送らないから。そんなことしてたら寝込んじゃう」
ですよね……。
しばらく沈黙。
おれは草の上に座ったまま。
サマエルは寝転んで。
「お前とバカ話できるのも、あと少しかあ」
「急にそんな寂しいこと言わないでくれよ」
「お前、寂しいの?」
「サマエル、寂しくないの?」
「いきなり棒で殴りかかる乱暴者なんか、さっさと国に帰っちゃえ」
思わず笑った。まるで数か月前のことのよう。
「ごめんってー。あの時はとにかくなにもわからなくて、いきなり大蛇が落ちてきてパニックになったんだってば。落ち着いてたらちゃんと答えたよ」
「——あーっ、パパドの奴、やっぱり答え教えてたんだなっ! 卑怯者っ!」
「許してやってよ、昔のことなんだから」
「今度会ったら羽根むしってやる」
「そんな可哀想なことするなって」
「メッタ打ちにされたおれは可哀想じゃないとでも?」
こんなくだらない会話も、もうできなくなるんだな。
そして誰ひとり知らない世界に帰るんだ。
まあ、ここに来た時も誰ひとり知らなかったし……なんとかなるか。
「とりあえずナオちゃんには会えるんじゃない? パニールなら帝都近いし」
——どんな顔をすればいいんだ……。
笑えばいいのか泣けばいいのか、全然わからない。
じゃあ会わずに別れるかって、それはあまりにもひどい。
「スルーするとパパドの制裁が入るから覚悟しろよ」
「——はい」
万一付添ドタキャンされたりしたら、おれ死ねる。
でもサマエルのおかげで往路の問題が解決したので、おれは研究資料を整理し始めた。
後を師匠に託すため。
だけどわかってる……師匠はみるくブランドを引き継げないって。
氷の宝石もみるくも、おれが主だから師匠は使えない。
葡萄を凍らせることができないんだ。
この国は北でも葡萄が凍るような寒気はない。だから自然にも頼れない。
もし自然に葡萄が凍ったら、悠久の歴史の中で誰かがアイスヴァインを造ってたはず。
でも、誰も知らなかった。そういうことだ。
氷結魔術が使える堕天使がいれば葡萄は凍らせられるけど、発想は出ないだろう。
だからこれまで重ねてきた研究は、なんにもフィードバックできない。
今までの貯蔵分と、今年の新酒四十本、全部合わせても二百あまり。
それで全部。
みるくブランドは終わりだ。
売りに出してもいないのに、研究段階で終わってしまった。
すごく残念だけど、しかたがない。
それでも資料を残すのは、もしかして、師匠が誰かを雇ってアイスヴァインを続けるのなら、参考書くらいにはなると思うから。
頑固だからやらないと思うけど。
連れて行けないみるくも師匠に託す。
おれがちゃんと指示すれば、ここに居着いてくれるだろう。
懐っこいから寂しくはないはず。
ナオにも手紙書いた。謁見が決まったと。
一応、日時は書いたけど、兵士のナオが自由に動けるとは思ってない。
たぶん会えないだろう。
ああ、東の町の酒屋のおかみさんのご飯、もう一度食べたかったなあ。
帝都近くのお宅のご家族とも会いたかった。
ドゥルーヴ先生にも、たくさんお礼言いたかった。
——でも、おれは人間界に帰るんだ。
帰らなきゃ……。
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