第32話 献納
魔界に来てどれくらい経ったのかなあ……。
みるくブランドの最古酒をチェックした結果、だいたい五十年という答えになった。
人間だったら七十五才。そろそろ鬼籍に入り始めるお年頃。
親父はさすがに死んだだろ。
『交通事故被害と思われるご子息が行方不明』、さぞ同情票稼げただろうな。
勲章もらえたかな。欲しがってたもんな。
きっとスマホなんか影も形もないな。技術史のほんの片隅に小さく、最初に作った人の名前が出てるくらいかな。
——そんな世界に順応できる自信がないです。
そもそももう身元証明できないんだよね。
ホームレスか、記憶喪失を装うか、頭おかしい人として病院に放り込まれるか。
どれも選びたくない。
日本各地を放浪するか。
放浪なんて聞こえはいいけど、つまるところ『居場所を作れない』だけ。
それどころか、まさかの戦時下だったらどうしよう。
衆愚政治の行き着くところ、専制政治だっていわれてるし。
専制政治とかって、きな臭いイメージしかない。
とはいえ、おれは人間界に戻るため、陛下に謁見するため、脇目も振らずに全力疾走。
もしいつか叶ったら、みんなと別れなきゃならないのは悲しいし辛いけど……。
人間界に戻る、これが唯一最大のモチベーションだったから。
——そして、まあまあ納得のいくデザートワインができた。
師匠とおれだけの、門外不出のアイスヴァイン。
まだ試験醸造だけど、普通、上級、最上級の三種類。
一度に取れる果汁の量が少ないから、手間はかかるしコストかかるし、そして出来上がる量は本当に少ない。
造りはしたけど、これ、売り物になるのかなあ……?
商業ベースに乗せられる気がしない。
一般的にみんなが普通に飲んでるのは、一本が銀貨一枚前後。たまに奮発して二枚くらいだけど、こいつはちょっと……。
ばあさんに手伝ってもらってビン詰めした。
四十三本。
ナオが描いてくれた、みるくの画が印刷されてるラベル。
銘柄と等級、醸造家は直筆で書き込み、貼る。
ブランド名は『みるく』、醸造家サエキ。
三年は寝かせたいな。
新酒の味見を師匠とばあさんに頼んだ。
師匠はひと口含んでじっくりと味を確かめて、飲み込んだ。
そして長い息をついた。
「——素晴らしい」
醸造家として、これ以上の喜びはない。
伝説のサモサに褒めてもらえた。
「新酒にしてこの円やかさ、甘さ、ふくよかさ。見事だ、サエキ」
「ありがとう」
「売りに出すか?」
「寝かせようと思ってる」
「この酒はすべて寝かせずともよいのではないか? 新鮮な葡萄の香気、その華やかさもまたよいではないか。何本とれた?」
「最上級三本、上級十本。普通酒は三十本。現状では精一杯だね。限界」
「少ないな」
「なんとか軌道に乗せても百本は難しいと思う」
葡萄作って、絶妙の加減で凍らせて、摘んで、仕分けて、ほんのわずかな果汁を搾って……。
「では、普通酒を十本売ってみてはどうだ」
「いくらで売ればいいか見当つかない。原価がめちゃくちゃ高いんだ」
「確かに、あの畑の広さで四十本……増やしても百に足らぬのではなあ……」
これはほんと。もうとんでもない金額だよ。
それが商品開発だと言われればそうなんだけど。
でも販売の見通しが立たないのは、正直辛い。
「味わえば、普通酒でも金貨五枚じゃ。上級なら八枚はいける」
「高いって」
高い。ところが原価率を考えると、完全に割り込んでる現実。
「確かに、見かけは普通の葡萄酒。見た目だけで五枚は出せんな……」
「おれだって出さないよ。ていうか完全に採算割れです……おれ飯食えない」
本音言えば白金貨よこせって思うよ。
人間界で十万になるけど、それでやっと採算取れるくらいだ。
原価が価格のすべてじゃない、労働力だって価格に還元しないと。
葡萄を大量生産できないし、全部手作業だし、薄利多売不可能。
下宿してるからいいけど、もし独立したら確実に干上がる。
「——よい方法を思いついた」
「なに?」
「五名の司令官方に上級酒をお贈りしろ」
え?
「ちょ、それって、ど、どういう名目で!?」
「たびたびの戦闘の折、ご下賜の品にいつも助けられておりますと、そう書き付けて贈れ」
「いいいいいきなりそんなの送りつけて平気?! 怪しまれるんじゃ!?」
「自らが報奨をご下賜なされた英雄、そうそう粗末にはなさるまい」
「——考えてみるよ」
なんか賄賂みたいでイヤだなー……血は争えないってか。
普通酒のサンプルを持って、パパドのところに行った。
おれがビンを持ってたから、すぐに実体になって家に連れて行ってくれた。
パパドが黙ってグラスをテーブルに置いて、おれは黙って酒を注いだ。
そうしてひと口飲んで、言った。
「これは最上級酒か」
「普通酒。今年の新酒だよ」
「最上級酒は何本だ」
「三本しか取れなかった」
「極めて少量だな」
「現状では限界だよ」
上質を期せば期すほど量は減る。
でも妥協はしたくない。しない。
そんなことしたら、健気に手伝ってくれるみるくに主人として面目が立たない。
「この普通酒を、お前と我の他に口にしたのは、サモサとダルーか?」
「うん、それで全員。普通酒と上級酒を評価した」
「最上級は?」
「まだ俺だけ」
「美味か?」
「一応、納得できる酒になってる」
パパドが落ち着いた声で言った。
「その最上級酒、謹んで陛下に献上せよ」
「え……待ってよ、まだ試験醸造——」
「最上の美酒を最初に味わうのは陛下でなくてはならぬ!」
パパドが大声を出すことは滅多になかったから、さすがに驚いた。
「世界に三本ばかりの美酒、すべて我に託せ。御前に参上し献納してまいる」
「でもこんな得体の知れないお酒なんて……」
「このマドハヴァディティアがお勧め申し上げるのだ。必ずお召し上がりくださる」
パパドが自分で本名言ったの、初めて聞いた。
献上。
そのために全力で走り続けてきた。夢中で造り続けた。
うまくいったり、丸ごと失敗した年もあって、凹んでは叱咤されて。
陛下に、献上……謁見への、第一歩——。
何百年もかかると覚悟してたのに、凍った葡萄をヤケで食べてみた時から、すべてがものすごい勢いで転がり始めた。
醸造家サエキの、葡萄酒。
ものすごく甘くて芳醇で濃くて、たくさん飲む物じゃない。
ほんとに食事の後のデザート。果物やお菓子の代わりのワイン。
この国ではどうかわからないけど、人間界にいた頃は『デザートでそのコース料理の評価が決まる』と言われてた。
要は『終わりよければすべてよし』だ。
その大事なシメになれるだろうか……。
「挑んで敗れたらまた挑めばよい」
もうひと口飲んで、パパドは少し笑った。
「命を召し上げられるでなし、なにも恐れることはなかろう?」
ああ、そのとおりだ。お気に召さなかったとしても殺されるわけじゃない。
勝負は、何度でもできる。
「わかった、持ってくる」
家に向かう間、緊張で手が震えた。
体にも震えが来て、何度もバランスを崩しかけた。
こんなんじゃパパドのところへ運ぶ前に全部ビンを割りそうだ。
帰り着くと、ばあさんが心配そうにおれを見た。
「あんた、どこか具合が悪いんじゃないのかい? 顔の色が悪いよ」
「大丈夫。ほんと」
ビンを運ぶ袋を持って、蔵に行った。
おれがみるくの棚からビンを出してると、師匠が声をかけてきた。
「司令官方にお贈りするか?」
「最上級酒を、陛下に献上する」
しばらく沈黙があった。
「パパドが宮殿まで持参するって。この酒を最初に飲むのは陛下でなくちゃならないって」
ずっと静まりかえってるから師匠を見たら、わずかな灯りの下でもわかるほど、ぼろぼろ涙をこぼしてた。
胸が詰まった……まさか師匠が泣くなんて。
おれも泣いてしまった。だって師匠が泣くから……。
「お前を拾った時は、よもやこんなことになろうとは……考えもせなんだ。それがあれよという間に、一廉の酒造りになりおった」
「師匠のおかげだよ。師匠がいなかったら、おれは死んでたんだ……師匠が助けてくれて、パパドが知恵をくれて、サマエルがすごくいい奴で……だから……」
だから、今のおれがある。
「とりあえずの顔つなぎみたいなものだよ。パパドの土産なら飲んでみるか? くらいの感じじゃないかな。これは珍品だな〜とか、会話のネタになる感じで」
そんなこと言ってる俺が、たぶん一番緊張してる。
ビンを一本ずつ紙で包んで、袋に入れ、パパドのところに行き、それからサマエルのところに。
パパドがすぐに行くって言ってきかない。
『善は急げ』的なこと言って。
見た目は落ち着いてるんだけど、ちょっとした興奮状態です。
「え? もう葡萄酒できたの?」
サマエルは目を丸くして、おれを見た。
「嘘でしょー、だってお前、こっちに来てから五十年そこそこじゃん。そんなに簡単に献上品作れるなら誰も苦労しないって。皇帝府の一次審査で落っことされるよ」
「我が直接陛下の御前に納めてまいる。審査は要らぬ」
「——マジで、パパドが直談判?」
「サエキの酒には十分その価値がある」
「……ほんとに?」
「ゆえに早う我を帝都に送るのだ。今行けば、早ければ明後日にもお目通り適う」
サマエルはパパドを飛ばして、ちょっと疲れた感じで樹にもたれて座った。
「まったく、信じられないね……どうなってんのお前って」
「気がついたら、こうなってた」
おれもサマエルの隣に座った。
「おれ、すごい。ひとり三個中隊の英雄と一丁前の酒造り助けちゃった」
「そう。すごいよ、サマエルは」
「百万年威張れそう」
「いいよ、好きなだけ威張って」
「ナオちゃんが聞いたらどんな顔するかなあ」
「——わかんない」
もしも、もし万一認められたら……謁見が適ったら、おれはたぶん人間界に戻れる。
でも、そうしたらナオは……きれいさっぱりおれを忘れてくれるかな?
引きずって寂しい思いをしないかな?
悠久の時が、解決してくれるかな……。
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