第4話 野良堕天人間
肩胛骨の内側を意識して、黒い翼を出せるようになるまで半日。出せたはいいけど全然飛べない。翼を動かせない。
当然だよな、これまでとまったく使い方が違う筋肉、鍛えてもいないし慣れてない。
走っちゃあ跳ねてみて、すっ転び、ひたすらその繰り返し。
まるでヒナの巣立ちだ、こりゃ。
まぁ、おれも堕天者のヒナなんで、これが当然なんだけど。
暗くなって練習はひと段落。疲れを堕天の果実で癒やし、樹の根元に仰向けになった。
夜空には満天の星がきらめいて、降ってくるんじゃないかと恐ろしくなるほど。
でも、これはこれで落ち着くなあ。大都会の喧噪ときらびやかさを忘れる。
漆黒の闇なんかなくなった街。
闇を怖いと思わずに落ち着いてるおれ、少し変な気がする。
普通は闇って怖いだろ、なにがあるかわからないし、誰かが飛び出してくるかもしれない。
めっちゃ危険だ。
なのに安らいでる。堕天したからなのかな。
疲れもあっていつの間にか寝入った。
そして夜が明けたら果実で食事すませて、またバタバタの時間だ。
「翼だけ一丁前で全然飛べてないだろっ、この無能者っ!!」
教官サマエルは容赦なかった。翼をつかんで羽ばたき方のコツを教えたりするけど、たとえば手を取って一緒に飛んでみせるとか、そんなことは一切しない。
根性論の体育会系。見た目とはまったく違う。
講義も実践もやたら熱血。
「お前、上げる時も下ろす時もおんなじ力で振ってるだろ! 上がるわけないじゃん!」
「そんなこと言われたって、おれ飛んだことない!」
「下げる時は力入れて、上げる時は力抜いて!」
言われたとおりにしたら翼が引っ込んで、全力で転倒した。
「誰が翼しまうほど脱力しろって言ったんだー! ほんと不器用だなお前っ」
「体使うことで不器用呼ばわりされたの、生まれて初めてだよ」
「上手いの受け身だけじゃん。転び方は天才」
嬉しくない。
「飛ぶのは歩くより楽だっ、なんでそれができないんだー!」
そんなこと言われたって、できないものはできない。
「つけ根から上げて、滑らかに先端——あーあ……」
いったい何回サマエルのため息を聞いただろう。
とにかく使う筋肉が全然違う。
姿勢維持のために体幹酷使。全身の筋肉が死にそう。
正直、筋肉には自信ありました。脱いだら細マッチョです。
でも、これはきつい……っ。
やっと飛べたと思ったら、今度は着地が難しかった。前のめりに転ぶ。
そして「この不器用者!」と罵倒される。
「優雅に降りられないのか、優雅に。舞い降りるって言葉知らないのか!」
言葉は知ってますよええ。実践できてないのは認める。
テイクオフとタッチダウンを習得するのに一週間かかった。
「慣れるまでは近距離でもなるべく飛ぶようにしろよ、鈍るぞ」
ありがたいご教示を賜って、おれはサマエルと別れた。
飛ぶのは飛べるようになったとはいえ、まだヨチヨチ歩きみたいなもんで不安定だ。
ちょっとした横風でも落ちそうになる。
油断すると下半身が下がって落ちそうになるし。
初心者は、辛いけど体ちゃんと伸ばしてないと失速するって。
たまにあるもんな、飛行機が離陸失敗して尻から落ちるの。
棒があってよかったよ。バランサーになった。
墜落の危機を何度も乗り越え、なんとか森に着いた。
「パパドだっけ? いるか? おれだよ」
優雅に着地——できなかった。すごい勢いで前に転がった。
翼をうまくブレーキに使えない。運転と同じだな、上手く停まれずに前にのめる。
「おお、立派に堕天できたようだな。気分はどうだ?」
木の高いところからパパドが羽ばたいてきた。
さすがに鳥だけあって飛ぶのが上手い。優雅で羨ましい。
「ずいぶん遅いから力尽きたかと思っていた」
「サマエルに飛び方教わってた。まだ不慣れで歩く方が楽だけど」
「そうか、ちゃんと答えられたか」
「それが……驚いて混乱しちゃって、棒でメッタ打ちにしちゃった」
「惨いな、お前……あれは樹を守護しておるだけで兵士ではないぞ」
「ルール守れって怒鳴られたよ。でも親切だったしいい奴だった」
「暇つぶしができて嬉しかったのであろうよ」
「仕事も紹介してもらえるかもしれないんだ。世話になりっぱなしさ」
「仕事だと? お前なにか技能があったのか」
「芝居——はあんまし上手くないけど、演武はできるよ。人間界でやってた」
それはなんだ? と首を傾げる動作がすげー可愛い。
説明するより見せた方が早いと思って、森の中の少し開けた草地に案内してもらった。
武術太極拳。新体操のゆかみたいな。
規定の広さの中で、槍や棒、剣なんかを持って型を見せ、点数を競う。
木の棒を持って構え、跳ね、衝き、回り、ひと通りの動作を演じた。
おれの唯一の特技。大学生の時、世界で五指に入りました。
表彰台は逃したけど、この道ではちょっと名前知れてたりして。
パパドはぽかんとした様子でおれを見てた。
「なんと身が軽く、また見事な槍さばきだ。お前、十分戦えるではないか」
「あ、無理。これは見せる技で対戦しないの」
「なんだ、見かけ倒しか」
「……練習すれば戦えるかもだろ。サマエル伸したし」
「だからあれは伸すなというに。憐れな」
丸太に座ったおれの向かいの切り株に止まって、パパドが言った。
「そうか、技能があるのか。それならばお前、その技を極めれば陛下にお目通り適うやもしれぬぞ」
「ほんと?」
「時間がかかるがな。手っ取り早く行きたければ司令官らを倒すしかないが」
「おれのは実戦武術じゃないんだってばー」
「では気長にいくか。命に限りのあるでなし」
やっぱ『永遠の命』ってやつなのかな。
誰もが一度は夢見たことがあるはずの、永久の命。
「パパド」
「なにか」
「永遠に生きるって、どんな感じなんだ?」
「さあなあ、永遠は永遠、我にもわからぬ」
「だよな、パパドだって永遠の先なんかわからないよな」
「死にたければ天使と戦ってこい」
「死ぬの?」
「負ければ見事に殺されるぞ。魂すらな。堕天使と天使は力の相性が正反対、互いに大きな傷となる」
「なんのために戦うんだよ、理由ないだろ」
「愚か者。陛下の御為、国のために決まっておろうが。お前それでも堕天族か」
ああ、そうだった。郷に入れば郷に従え、だ。
この国は陛下を中心に回る。ルシファーに絶対の忠誠を誓う一族の国だった。
「天使と戦争とか、すんの?」
「ゆえに軍隊があるのだが?」
「天界を攻めたりする?」
「しないな、そういった無益なことは」
「無益なんだ?」
「攻めて神を討てると思うか?」
「思わない」
即答。
「仮に討てたとして、その意味は?」
うーん、神様倒して魔界になにか利益ある?
たとえば皇帝が神になるとか?
天使が一度魔界に堕ちた皇帝に天使が従うかな?
——無理だな。
としたら、殲滅戦になる。ひとり残らず。
それだけの血で手を染めた皇帝に、神の資格はあるだろうか?
それじゃ、今の神と同じじゃないか……。
「お互いにとって無意味だと思う」
「つまり、そういうことだ。
「行き着くところ専守防衛かー。まんま自衛隊」
「しかし国のために戦うのは兵士ばかりではない。誰もが国を支えている。サモサも立派な葡萄酒を作り、働く国民の疲れを癒やしている」
いつ攻められるかわからない戦時下の国。挙国体制ってやつね。
挙国っていえば、訊きたいことがあったんだ。
「ところで、おれ、勝手にここに住んでていいの?」
現在、野良堕天人間。
「そうか、お前は正式な国民ではないな。手続きが要る。早めにすませんと、見回りの兵士にしょっ引かれるやもしれん」
「それやばいじゃん。どうやんの? 役所とか行って手続きすんの?」
「うむ、厚生省の所管だな。帝都まで行かねばならぬ」
厚生省って、すごいシステマティックな響き。まるで人間界。
「その際、流れてきた無害な人間だと証明せねばならぬが」
「身元を証明できるものなんか全然ないよ」
人間界の免許証が魔界で通用するとは思えない。
パパドが急に羽繕いを始めて、銀の羽根を一本抜いた。
「これを持ってゆけ。我のものだとすぐにわかる」
身元保証してくれるの? ……みんなほんとに親切だよな。泣きそう。
「ありがと、助かるよ」
「サマエルが仕事を紹介すると申したのなら、しばし様子見をせねばなるまい。サモサの元で野良仕事を手伝え。パパドの紹介と言えば通じる」
サマエルにも言われたけど、それは言わなかった。せっかくの厚意だから受けないと。
「じゃ、おれ、じいさんのとこに行くよ。帝都に行く前に顔出すから」
「お前、まだ着地が下手なのだから注意せよ。大怪我をするぞ」
全力でコケたのを、しっかり目撃されていた。
侮れない、森の守護者。
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