第3話 蛇
パパドの翼で顔を叩かれて目覚め、昨夜のカサブタ引っぺがされて血を舐められる、最悪の朝を迎えた。
「昨夜よりコクがないな」
「そりゃそうだよ、飲まず食わずなんだから」
消耗が激しい。堕天の果実の樹までたどり着けるのかな。
水が合わないのはこたえる。乾ききって喉が張りつく。
きついけど、ここでのたれ死にはごめんだ。
歩き出した。気が遠くなる。
体力が落ちて眠気が出るようになった。まずいな。
半ば意識朦朧で森を抜けた。
はるかに広がる、芝生みたいな草が覆う丘陵に、かすかに影が見えた。
樹だ。幻覚でなければ、あれは樹だ!
そう思ったら気力が出てきた。
畑と森を抜けるのは精神的に大変だった。
でも、ここからなら気持ちが楽だ。ゴールが見えたんだから。
夢中で歩いた。
どれくらい歩いたのか、わからない。ただ必死で歩いて、ようやく一本の樹のもとにたどり着いた。
五メートルほどの樹に、桃に似た形の実がたわわについている。
これが堕天の果実か。
実を獲ろうと近づいた時、
「この果実は魔界の象徴、たとえ何者であろうと安易に手に取ることまかりならん!」
頭の上から声が聞こえたかと思うと、目の前になにかが落ちてきた。
おれの倍くらいありそうな白い蛇が、こっちを睨んで赤い舌をチロチロ見せている。
と気づいた瞬間、パニックになった。頭の中は真っ白だ。
恐怖、それしかなかった。無我夢中だった。
なにをしているのかさえわからない。
正気にかえった時、おれの足下に蛇が倒れていた。
やばい、暴れてしまった……クイズ勝負のはずが物理攻撃してどうするんだ。
もし激怒らせたら本気でやばいぞ、伸びてる今のうちに実を獲って食べちまおう!
生き延びられるのか、死ぬのか、勝負だ!
幹に手をつき、つま先立ちになって実を獲ろうとした背後から怒鳴られた。
「いきなり殴るか? この乱暴者!!」
若い男の声?
まずい、起きた!?
思わず振り返った先で、頭を押さえた人間っぽいのが地面から半身を起こしてた。
これが蛇の実体なのか?
「普通は実をもぎに来ておれに会ったら、その場でビビるんだよ! ビビった奴におれが問いを投げるんだ。そして答えられずに退散する。そういうセオリー守ってくれないと!」
——なんだこいつ……?
今までみんな、バカ正直にそのお約束を守ってきた?
そりゃあ実獲れないよな。
「方法はとにかく、おれの負けだ。実、獲っていいぞ」
「……ほんと?」
「要らないなら帰れ」
「いただきます」
とは言ったけど、夢中で暴れたのと気が抜けたせいで、もう動けなかった。
樹に寄りかかって、その場にズルズルと座り込むと、蛇がおれに果実を差し出して向かいに座った。
おれと変わらない、二十代半ばくらいの白人っぽかった。
金髪がサラサラして綺麗だ。
「お前人間だろ、もう死にそうじゃん。食べな」
「人間でも、食べられるかな……?」
「どうかな、おれもわかんない」
そして、懐っこい笑顔で言葉を継いだ。
「それでも勝負賭けに来たんだろ? なら食いなよ。食わなきゃ確実に死ぬんだから」
ここまで来て臆病風に吹かれてどうするんだ、可能性がゼロでない限り、やるしかないだろ。
受け取って、かじった。
——柔らかい。うまい。甘い。究極の果物、骨の髄までしみるうまさだ!
夢中で食った。なにも考えていなかった。ただ貪り食った。
食い終わってすぐ、猛烈に体が熱くなった。意識が一瞬飛んだかもしれない。その熱はすぐに冷めて、普通に戻った。
体が軽い。どうやら体力も回復しているみたいだ。それどころか元気いっぱいだ。
「へえ、人間でも食えるんだ、この実」
蛇も感心してる。
「ものすごく不味いものを無理やり食べて、のたうち回って変化するんだと思ってた」
「バカ。そんな罰ゲームみたいな堕落があるかよ。堕落は快感。だろ?」
「うまかった……ありがとう、蛇」
「蛇とかいうな。おれにはサマエルという立派な名前があるんだぞ」
「サタンとかじゃないんだ」
金髪の蛇……サマエルは頬杖ポーズでそっぽを向いた。
「きたよ、きましたよ。はーい、サタンいただきましたー」
ふと気づいた。
狡猾な蛇は最初の人間をたぶらかして、禁断の知恵の実を食べさせたんだろ?
でもこの蛇は、魔界で堕天の果実の樹を守っていたじゃないか。
ていうか堕天使の国に堕天の果実って、おかしくない?
「……なんで魔界に堕天の果実があって、サマエルが守ってんの?」
「知りたいか?」
「一応、知識として」
「よーし、ガッツリ教えてやるから頭にたたき込めよ」
「は、はい……」
「おれは神に嵌められたんだよ」
——はぁ?
「最初の人間がちゃんと命令を守るかどうか確かめてこいって言われたんだ」
「食べちゃいけない禁断のあれ?」
「そう。それで、どうやって試そうか考えて、蛇に化けて知恵の実の樹に誘ってみたわけ。そしたら食っちゃったんだよ、あの低能女! しかも神の奴、おれが誘惑したって責任転嫁!」
あー……偉い人あるある……。
「だいたい、食っちゃダメなもんを置くか普通?! ダメなものは置かないだろ! 悪趣味すぎるだろ!」
正論。
「あいつ、最初から人間を追放する作戦だったんだよ! おれはスケープゴート、奴が勝手に人間作って一方的に追放したら、誰も神なんか信じないだろ? 表向き、人間が追放されたのはおれのせい、それでサタンとか狡猾な蛇とかいわれて天界追放だよ……」
政治家に贈収賄の罪を肩代わりさせられた私設秘書みたいだな。
そして講義はさらに続く。
「堕天使も似たようなもんだよ。奴が闇がないと輝きは見えないとか言い出してさ、天使にマナをくれなくなったんだ。天使が食べられるものはふたつ、神がくれるマナか、堕天の実。実、すごくうまかったろ? でもあれ食ったら天使失格で処分される。忠誠を試すための果実なんだ」
「うっわ、性格悪っ」
思わず言ってしまった。サマエルは少し笑った。
「天使も堕天使も、なにも食わなくても死なないんだ。死ねないっていうのが正しいかな。限界まで消耗しても死ねない——地獄だよ」
その感覚は人間にはわからない。でも、想像するとぞっとする。
生殺しじゃないか。そんなひどいことを平気でするのか。
「マナもらえなくなって、みんな飢えてどうしようもなくなって、天使長は堕天の果実をもいで全員に配ったんだ。そして一番最初に食べたよ。そうしないと他の奴らが食いたくても食えないから」
……そうか、堕天使っておれと同じだったんだ。
最後の手段でこの実を食べたんだ。
最初に食べた長の勇気と覚悟と責任感、すごい。
こっちが神様でいいんじゃない?
「で、奴の思惑通りに天使はほぼ半分が堕天、神を見限って天界から脱走したわけ」
「なんで魔界に堕天の果実があんの?」
「ルシファーが引っこ抜いてきたんだ。せめてもの腹いせかな」
「ルシファーって、一番偉かった天使だよね」
「そう。明けの明星。堕天して今は魔界の皇帝。あとから来たおれに、この樹を託したんだ。おれ、天界追われたけど一応天使のまんまだったから」
「そっか、堕天の果実食べたりとかしてなかったし」
「そしたら、マナの配給が止まった」
あ、なにか今、先が読めた。
「マナもらえなくなって、仕方ないから実食ったの! ルシファーにすげー謝られて、こんなの焼き払おうって言われたけど、堕天できてみんなが救われたのはこの樹のおかげだろ? だから記念樹として守ってる。簡単には獲らせないよ」
「じゃあなんでおれにくれたの?」
サマエルはおれを見て、答えた。
「お前、死ぬほど飢えて渇いてたから。わかるから、その辛さ」
不思議だな、ここは魔界で、人間からは悪魔って呼ばれてる堕天使が住む国だ。
なのに、おれは今のところ、悪魔に会ってない。
親切な老夫婦と親切なフクロウと、親切な堕天使にしか会ってない。
なんだか、人間界の方が殺伐としてるように思えてきた。
「この国、なんかよさげ……」
「そりゃ、天界で一番まともだった奴が治める国だもん。だから部下だって全員忠誠度MAX——国の役に立たない奴に謁見なんか許さないよ」
ああ、見抜かれてるな、おれが人間界に戻りたがってるの。
そりゃそうだよな、現状で魔界移住とかちょっと考えられない。
いい国なんだろうなとは思うけど、さすがに住むとまでは。
「どうやったら会えるかな。いや、司令官と公開バトル云々は聞いたけど」
「あ、パパドか。あいつも根性よしだなー……まさか問いの答えとか入れ知恵されてないだろうな?」
「あ、ありません。なにも聞いてない」
「……嘘くさい」
「ほんとに絶対神かけて聞いてない!」
「あんな奴にかけるのかよ!」
「えっと、じゃあ、陛下の御名に誓って!」
ああ、一面識もない陛下ごめんなさい。いきなり嘘つきました。
「……信じてやる」
「ありがたき幸せ」
でもまあ、これだけの悲劇に遭ってりゃ疑心暗鬼にもなるよな。
おれだって左遷された上に給料もらえなくなったら、やさぐれる。
「お前さあ、人間界に帰ってどうすんの?」
もう戻る故郷がない堕天使に訊かれた。
そこで冷静に考えた。
人間界ではたぶんおれは完全行方不明。
帰れるかどうかもまだ不明。
勘当しても息子は息子だから、ある程度時間が経てば親がいろいろ整理するだろうな。
——ってことは、アパート解約?
スマホも?
生活基盤全滅?
パンツ一枚すら残らない!?
「やばい、戻っても詰んでる。たぶんなにもかもなくなる。住むとこも服も根こそぎ全部」
「だろうなー。お前も戻る場所なんか、事実上なくしてるんだよ」
やばいぞこれは。戻ってもなにもない、ホームレスじゃないか。
オーディションどころじゃないよ、これ。
「お前、人間界でなにやってたのさ? 国の役に立ちそう技能、ないの?」
「うーん……仕事場転々としてたから、これっていうスキルないよ」
「人間って悠長だなあ、一瞬しか寿命ないくせに」
「あ、太極拳は特技といえるかな。っていうか、まあ、メインの仕事は殺陣なんだけど」
「タテってなによ?」
「芝居の、こう、戦うシーンなんかの代役やるんだ。身も軽いよ、もともと太極拳ってスポーツで棍とか使ったりしてて」
「棍ってなによ?」
「えっと……槍みたいなもの。この木の棒みたいな。刃がないやつ」
「槍? それでめちゃくちゃ強かったのかお前」
あんたが弱すぎ。クイズに頼って怠けてるんじゃないの?
「つまり役者なんだな」
「役者ていうか、役者……になりたかった者です」
「役者にしては顔が地味な気がするけど」
「すみませんね、これでも国では並より多少上です。体育会系歌手グループのダンサー募集オーディションで最終選考まで残りました」
「それってすごいのか?」
「おれの国では、わりと」
アクション俳優目指してたんだけど、オーラがないのよね、おれ。
もうオーディション落ちまくり。
そこで考えたのがアーティスト経由の俳優デビュー。
『動きは素晴らしいが、なにか大切なものが足りない』と容赦ない落選通知。
やっぱりオーラだな……世の中は甘くなかった。
まあ……バイト先転々として、友達もなく、ネットに数人のバーチャル友がいるだけ。
六畳一間のアパートで飯食って寝てバイト。オーラ以前の問題。
「役者ねえ……お抱えの劇団持ってる友達いるから。ちょっと訊いてみるわ」
いい人、じゃない、堕天使すぎて泣きそうだ。人間だってこんなに優しくない。
「お前、ここ誰に教わったのさ?」
「葡萄酒造りの……サモサじいさん? に助けてもらったんだ」
「あー、あのじい様な。農作業手伝ってしばらく世話になれよ。蛇がそう言ってたって言えば大丈夫だから。気をつけて帰れよ、パパドにもよろしくな」
屈託のない笑顔。ほんとに天使だったんだな、昔。
「また来いよ、退屈だから」
「え、またここまで歩いて来るの?」
「飛べよ。すぐだろ」
飛べときたぞ。おれに飛べって。なにそれ。どうやって?
「あ、飛び方わかんないか。えー、翼の出し方から教えんのー?」
どうやらそれは少し技術が要るらしい。
それを習得するまで、おれはここにいなくちゃならないようだった。
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