4 灰は傍に
――四月九日 曇り
今日から箱船の第三選抜が始まる。お隣一家は第二選抜で落ちてしまったらしくて、うちまで泣き声が聞こえてきた。最終的には一万人まで絞るってニュースで言っている。体が強くて灰を持っていない、箱船の中で問題を起こさない人だけが助かるらしい。国会の前は毎日デモ行進が行われていて、議員が殴り殺された。それでも国は一般人を選別し続ける。終わりだ、何もかも。
時々空気中に漂っている黒い塊、見えるときは避けられるからまだ良いけど、はじけて消えた後はとっても怖い。消えたわけじゃなくて空気中に散ってるんだって。
「……うん?」
まあいい、次に行こう。
――四月二十一日 曇り
もう何日も太陽を見ていない。寒くて凍え死にそう。
昨日体調を崩した由香ちゃんが、今朝血を吐いて死んじゃった。「どこかで灰を吸い込んだ」って泣いてた。仕方ないよ、だって見えないんだもん。由香ちゃんが吸ったなら、一緒にいた私だって灰を吸っていたっておかしくない。いつ発症するかと思うと恐ろしくてごはんが喉を通らない。
「なに、これ」
歴史の授業のつもりだったのは一瞬だけだった。何のことやら、あまりに現実離れしたことばかりで、丁寧に作り込まれた異世界物語かと思ったほどだ。
選抜、箱船、そして灰……教科書のどこにも書いていない、誰からも聞いたことのない単語ばかりがこの日記に記されている。
この年代だし恐らく箱船はシェルターのことを指しているが、確信には至らなかった。選抜をして入る人を絞っていたなんて聞いたことがないし、なによりこのとき生き残った人は全員地下シェルターに移り住んだはずだ。
小学生の教科書はざっくりとしか教えないと言われるが、流石に嘘はつかないだろう。ここまで知らないことばかりになるとは思えない。
この後をパラパラめくってみても同じような内容が書いてある。どこにも教科書に書いてあった馴染みの事柄は見当たらなかった。
「ここは授業では飛ばしたのかしら」
結局たいしたことはなかったから飛ばされたのかもしれない。なんてったってもう四百年も前の話だ。小さな事も全て拾っていたら何時間あったって授業が終わらない。
パラパラ先をめくってみても地獄が元通りになるわけではなく、むしろどんどん酷くなっていった。
結局作者は生き残ったが、箱船には入れなかったらしい。入ったのは両手で数えられるほどしかいなかったようで、それが決定するまでに灰濃度が一気に跳ね上がった。灰のせいで百メートル先が霞み、ガスマスク無くしては生きていけなくなったようだ。
「やっぱり何が何だか……」
それから一週間ほどで日記は途絶えていた。最後に灰を吸ったと何度も何度も書き殴られていたから、その「灰」というものによって死んでしまったのだろう。
それを閉じて別の薄いノートを捲ってみた。今度は端正な字で綴られている。
内容はほとんど同じだった。次に手に取った記帳も灰のことばかり書いている。全く違う場所から取ったメモも同じだった。全員が同じ事件を記して恐怖している。
「歴史が違う……」
流石に認めざるを得ない、これは私の知らなかった本当の歴史だ。教科書は綺麗なところだけを切り取って後世に伝えている。
一つ引っかかることがあるのは、二つにかすむ太陽、灰色の空……これは私の見慣れた世界だが、何故か皆それを世界の終わりが近づいている証拠だと思っていることだった。
私が物心ついたときから、東京では数百メートル先はいつもかすんでいて、太陽はいつもぼやけて時折複数に見える。これが普通だ。上に向かって投げたリンゴが地面に落ちるのと同じくらい当たり前のこと。
次をめくると、ひらりと一枚の紙が落ちた。絵の具で描かれた三角屋根の上に綺麗な水色が厚く塗られていた。裏には「もう一度青い空が見たい」とある。
「なんで水色……?」
空は灰色だ。青色の空なんて眩しくて見ていられない。
「灰……」
ちょっと考えて口をぎゅっと手で押さえる。片付け損なった本と今までの常識がガラガラと大きな音を立てて崩れていった。
「う、うそ……うそ、そんな……」
嗚呼、今私が吸っている空気は毒なのか! 私は今までそれを知らずのうのうと生きてきたのか!
哀しい物語を見たわけでも無いのに絶えず涙が溢れてきて、視界がぐちゃぐちゃになった。自分がどこにいるのかさえ分からなくなって、顔を上げたら私の周りには雪のように灰が積もっていた。
「ひっ」
大通りの真ん中に私はいた。しかし、私の知っている景色とは違う。道往く人は皆虚ろな目をしていて、ふらふらと灰色の空を仰ぐ。茶髪の少女がぷつりと糸が切れたように倒れ、降り積もった塵が舞い上がった。それを吸った私は動くことが出来ず、膝をついたままだった。
うまく息が出来ない。ああ灰が私の身体を壊していくんだ、もう内側は壊れてしまっている。私は今から燃えかすのように消えてしまうんだ。
死にたくない。
世界に殺されたくない!
「悪かった、俺が説明するべきだった!」
突然肩が強く掴まれて、真っ暗になった書庫に引き戻された。
ほっとしたのもつかの間だった。ここだって変わらないんだ、ここにだって灰がありふれている。灰が遠くの景色を覆い隠すほど存在する。
「大丈夫だ一葉、ゆっくり息を吐け。お前は生きてる」
「息が……灰色、もう、死にたく、ない」
おしまいだ、今は生きているかも知れないけど、一瞬後はきっと死んでしまっている。怖い、恐ろしい、死がすぐそこに迫っているのが分かる。何度か見た死神が今度は私に鎌を向けている。
「寒い日には息が白くなるだろ。目を閉じろ、昼間のお前を思い出せ。お前に灰は効かない。大丈夫だ」
落ち着いた声に縋り言われるがままに呼吸をすると、死んでいたはずの胸の筋肉が息を吹き返して、その衝撃で胃の中のものを吐き出した。
背中をさすられて、そこからだんだん身体の存在が戻ってきた。一時間前は、一時間前……ああそうだ、一時間前は終希と本を片付けていて、なかなか終わらないから怒っていた。重い本を持ち上げて本棚にしまっていく。
だんだん腕の感覚が戻ってきた。目を開けてみると凍傷ですこし爛れたような手が見えた。黒く見えたのは部屋が暗いせいだ。
「平気か」
終希が顔をのぞき込んでいた。終希が持ち込んだランタンが部屋をぼんやりと照らす。
「うん」
「じゃあ片付けよろしく……あ、『もう』ってどういうことだ」
「もう?」
頭にたたきつけられた雑巾から舞った埃に咳き込んだ。いや、これは雑巾よりも汚いカビ毛布だ。
「『もう死にたくない』と言ってたから」
「えーと……」
知らぬ間に余計なことを口走ってしまったらしい。
「……何かと言い間違えたのよ」
「よく分かんねえ奴だな。もう飯出来るから床拭いたらランタン持って降りてこい」
ふと日記や本は無事だろうかと床を見てみると、目の前に日記はなく、終希に叩き飛ばされたのか壁に当たって折れ曲がっていた。
「大切なのかそうじゃないのか分からないわね」
床を拭いた毛布を袋に入れてゴミにする。口の中が酸っぱいがカビで拭うわけにも行かず、ついでに本の残骸も捨てようと思ったが、流石に思いとどまった。
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