2 本で出来た迷路
キッチンを片付けて床掃除も終えた頃に「いつまでもソファーで過ごす訳にもいかないだろう」と二階の書庫を私に貸すと言ってくれた。ただし、「寝る場所は確保されていないからな。片付けは一人でやれ」だそうだ。
二階へ続く階段はキッチンの入り口の隣にある。普段は壁の色に溶け込んでいるスライド式のドアに閉ざされており、それを開けると暗くて狭い階段が姿を現す。歩く毎に軋むその階段を上がると、また扉があった。その他にドアがないので二階には一部屋しかないのだろう。
ドアを引いて、逆だったと恥ずかしくなって押す。ギィ、と小さく鳴ったが、人がなんとか入れるほどまでで何かに突っかかり動かなくなってしまった。胸をドアに引っかけながらなんとか部屋の中に入ると、薄暗い部屋には古い紙と埃の匂いが充満していた。
「なにこれ……」
呆気にとられて十秒ほど動くことができなかった。どこを見ても本、本、本。こんなに広い部屋を殆ど埋め尽くすほどの本が所狭しと散乱している。ドアの近くのものは胸の辺りまで積み重なっていて、書物の壁が奥まで続く細い通路を作っていた。
人ひとりだけが歩ける道を障害物を避けながら進む。道は時々本棚のある方へ分岐していた。四方の壁は全て本棚だったが、その多くは空っぽで本棚としての意味をなしていない。これをすべて一人で片付けろというのか。
「……ああもう、手伝って! こんなの一人じゃ終わらないわ!」
振り向いてドアの方へ戻ろうとしたが、そもそも方向転換をするのさえ大変だ。その場でドアに向かって叫ぶと、けだるげな声が帰ってきた。
「邪魔な本は奥に積み上げてくれ」
「手伝ってよ!」
「嫌」
思わず舌打ちをしてしまった。回れ右をしたときに落ちた二冊を拾って元の場所に積み重ね、ドアから強引に抜け出して階段を駆け下りていく。狭いと思っていた階段が大通りのように感じた。
「来て」
「は?」
「そう、じゃあ私貴方の邪魔をするわ」
「……チッ」
つい裏切りともとれる言葉を吐いてしまい身体がこわばるが、軽口として受け取ってくれた。……これは終希を動かすのに使えるかもしれない。
私の後ろを家主が渋々付いてくるが、足取りが重い。テーブルの下に靴下が転がっているのはもう何度も見たが、そんなに片付けができないのか。
もう一度狭い通路に身体を滑り込ませて奥に向かった。ドアの近くを片付けたいのはやまやまだが本棚が遠すぎる。ため息を飲み込んで棚に近いところから道幅を広げることにした。そうと決まれば何も考えず触った本を棚に詰めていくだけだ。床まで到達しなければ、今日は黄ばんだ紙に包まって寝ることになる。
「全部片付けるのか」
まだ入り口にいる終希が部屋の全景を見て立ち尽くした。
「何驚いてるのよ、こうしたのは貴方でしょ。今日は寝るところを確保するだけ。どうせこんな事になって本がどこに行ったのか分からなくなっていたんでしょ」
「うっ」
図星をつかれ、諦めて片付ける気になってくれたらしい。動き始めたのを見て私もどんどん空っぽの本棚に収納していった。
本を動かすと埃が舞い上がり、喉に張り付く。たまらず本の上に乗って南側の出窓を全開にした。新鮮な、冷たい空気が流れ込む。
「寒っ」
同じように咳き込んだ終希が東側の窓を開けて身震いをした。さっきまで暖炉のある一階にいたから余計堪える。私たちはそれぞれ外套とマフラーを持ってきて、鼻まで覆って作業をすることにした。寒いのには変わりないが、喉が腫れることに比べたら良い。
部屋には本当にいろいろな分類の資料がそろっていたが、ほとんどが学校の図書館では見たことのない古い本だった。紙は基本的に黄ばんでいて、持ち上げるだけでぽろぽろと零れ出すものもある。厚いものはカバーが劣化して取れ、本文が一番上に来ている。時折頭と尻に二本ずつ長い突起物をもった平べったい虫の死骸が出てきて、それを見る度に鳥肌が立った。
「紙魚だ。暖かくなると動き出し、紙や布を食って生きる。寿命は七から八年、人間には害がないから放っておいて構わない」
「害あるわよ、気持ち悪い!」
小さく悲鳴を上げ引き攣った顔をする私を横目に、淡々と虫の説明を始めた。
雑学を聞きながら今まで一階に出てこなかったことを感謝した。ありがとう、これからも出てこないでと土下座したいくらいだが、頭に登ってきそうなので絶対にしない。
「乾燥が苦手だから、こまめな換気と定期的に虫干し……本を乾かすと増殖を防ぐことができる」
「やってないでしょ、だからこんなに劣化して」
「俺が死んだらもう二度と読む人がいないだろ、そんなん管理するだけ無駄だ」
「そんなこと……」
「違うか」
「……」
悲しいことだが、何も言い返せなかった。
目線をずっしりと重い本に落とした。元々書いてあったタイトルはかすれて読めない。これだけ分厚いのだから、旧世界の図鑑や辞書の類いだろう。
ここには旧世界の知識が詰まっているようだ。これだけのものとなると、旧世界の資料では港区にある大図書館にも匹敵するのではないだろうか。流石にそれは言い過ぎか。
「ここを人に教えてはいけない?」
そうすればこの資料が無駄にはならず、有効に使われる。終希の私物を人に渡すことになり嫌がられるだろうな、と思ったが「いいよ」と予想外の返事が返ってきた。
「全部読んでもその気があるならな」
「どういうこと? 保存状態最悪だから?」
本を手に取り、間からバラバラと抜け落ちたページをかき集めながら「確かにこれはやばいな」と呟いた。
「いや、内容の話。五時間かかる説明を聞きたくなかったら読め」
「こんな量五時間かけて説明して貰った方がいいわ」
「……マジ?」
長時間かけて説明してやるというのは冗談だったらしく、ゆっくり振り向いた顔に「読んでくださいお願いします」と書いてあった。
「日記数冊で良い。分からない単語があったら説明する」
「はあい」
これだけ貴重なものがあると本にあまり興味のない私でさえ読みたいという衝動に襲われるが、今はそんなことをしていないで寝る場所を確保しなければ。いずれこの全てに書かれていることを知りたい。
いや、私はこんな所出て行くと決めたはず……
私はどうしたいの、と今日何十回目の問を投げかける。そして、何十回目の「分からない」を返して辞書を棚に押し込んだ。
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