四、えいせい

 濃紺色の長い髪が、風になびく。ヒトに化けた蛇の怪物は、鱗を肌色で隠し、青白い肌もそれなりに血色良く整えて、肢体には長い麻布を綺麗にまとっていた。

 なずなが見ればきっと、慣れない姿に目を見張るだろう。

 霊だの魂だのと気にする人間にとって、亡骸が眠る墓地とは特別なものだという。その場所で「なずなは独りではない」と家族に向けて一言かけてやれば、幼い少女の心も少しは晴れるだろうかと、彼なりに考えたのだが。

 そんな言葉を口にするのに身なりまで整えては、娶るための顔合わせとも見られかねないということを、人間でない彼が知るはずもない。


「帰るぞ、なずな」

 墓石の前へ着いた彼の言葉に、振り向く者はなかった。吹き抜ける風が木々を揺らす音だけが通り過ぎてゆく。

「なずな……?」

 一瞬、あの少女の純粋さはすべて偽りで、本当に逃げてしまったのだろうかという思いが彼の脳裏をよぎった。しかし人を超える存在の彼に限って、そんな見誤りはあるはずがない。

 辺りを見回した彼の目に、墓前で無惨に踏みつけられた花が飛び込む。そしてその場所から所々続く、何かを引きずるように削れた土の跡。辿った先には鼻緒の切れた草履がひとつ転がっていた。

「……どういうことだ」

 ざわりと、木々が音を立てた。


   *


 少年に連れられ村へと下りたなずなは、松林の中にある祠の前で村の男衆に取り囲まれていた。

「おねがいです、お墓へ帰してください。へびかみさまとの約束があるんです」

 縄で後ろ手に体を縛られ砂の上に転がされたまま、なずなは何度も訴える。けれど村人は誰一人としてその言葉を信じはしない。

 治まる気配のない荒波は人々から良心を奪い、このところ村人たちの関係は殺伐としていた。そこへ、大人しく食われたとばかり思っていた少女が元気な姿を見せたのだ。

「なんぼ縛っても、なずなはまた逃げるぞ」

「今度なずなが逃げたら、俺たちゃもうおしまいだ」

 ぶつぶつと言葉を交わす男たちは日の光を背負い、なずなの側からはその表情を窺うことができない。

「足、切ろうか」

「そうだ、足切ろう。足切りゃもう逃げらんねぇぞ」

 誰かが言えば、別の誰かが同調する。聞き間違いだと信じたかった言葉を繰り返され、少女の頭から血の気が失せた。

「うそ……っいやです、いや!! 逃げたりしません、だから!!」

「片足でいいか?」

「いんや、両方でねぇと。びっこ引いて逃げちまう」

 その視線は、桃色の着物の裾に注がれる。

「いや、へびかみさま、へびかみさま……っ」

「うるせぇな、この!!」

 誰かが振り下ろした棒きれが、なずなの意識を奪った。

「大人しくしねぇから、いけねぇんだ」

「んだ、暴れられちゃあ狙いもつけらんねぇ」

 そんな男たちの常軌を逸した行動に、震える手を握りしめる者が一人。

「父ちゃん、なずなの足……切るのか?」

「なんだ、いそきち。連れてきたお前が震えてんのか」

 少年はけして、なずなのことを嫌っているわけではなかった。むしろ素直な少女のことは妹のように可愛く思っていたし、それはもしかすると、ただの好意よりも強い感情だったかもしれない。

 だから、なずなが生贄に選ばれたときは悲しかった。だから、生きているなずなを見たときは、裏切られたことが悔しかった。

「足落としたら、たんまり血ぃ出て死んじまう。死んじまったなずな食うのは……へびかみさまも、嫌に違いねぇ」

 少年はなずなの前にしゃがみ込み、恐る恐る大人たちを見上げる。逆光が男たちの顔を影で塗り潰して、ひどく不気味だった。こんなものに囲まれ、恐ろしい言葉を浴びせられて、なずなはどれだけ怖い思いをしたことか。

 大人たちの機嫌を損ねてとばっちりをくらわないよう、なずなをこれ以上痛い目にあわせないよう、少年は言葉を選びに選んだ。

「なら、腱切るか。両方の切って転がしゃ逃げらんねぇな」

 誰かの呟きに誘われ、黒い頭が一斉にうんうんと頷いた。


   *


「なずな!!」

 息を切らして祠へと辿り着いた濃紺の髪の男は、そこに広がる光景に目を疑った。

 桃色の着物が転がされた周りを取り囲む、十人近い人間の姿。その中の一人が握る鉈の刃を、赤いものが汚していた。そして桃色の裾に染みた、鉈の汚れと同じ色。

「貴様ら……この娘に何をした?」

 ぼんやりと少女を見下ろしていた人々は、聞かない声に顔をしかめる。

「お前、何もんだ?」

「見たことねぇ面だな、着物も妙だ」

 周りが動いたことで見えた少女は縄で何重にも体を巻かれ、砂に顔を伏していた。呼吸の音は浅くすら聞こえない。

「みなのためにと願うた子を捕らえて、挙げ句この仕打ちか? この娘が、貴様らに何をしたというのだ!!」

 怒号を響かせた男の髪が、ざわりと逆立つ。肌が土色に変わった次の瞬間、その身にまとっていた麻布が破け飛んだ。

 村人たちの視界は影に覆われ、辺りの松の木が無数に折れる音が続く。

「愚かしい。愚かしい。人間とはこうも愚かしいものか!!」

 頭上から降る声に視線を上げた人々が見たものは、鋭い金色の眼と、その周りを覆う土色の鱗。潮の生臭さを帯びた巨大な怪物が、空をも揺るがす砲哮を轟かせた。

「ひいっ、あ……」

「へび……っへびかみさま、へびかみさまだ!!」

 みなが口々に悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らしたように逃げてゆく。足を絡ませ転ぶ者、腰を抜かしながら必死に這いずる者、走る腿に小水を滴らせる者もあった。

「待っていろ、貴様ら一人残さず殺してくれる!! 波に呑ませるだけでは済まさんぞ!!」

 怒声はびりびりと空気を揺らし、村に住まう誰もに恐れを抱かせた。

 それに立ち向かおうとする者は一人も居ない。誰もが家の隅に縮こまり、あるいは物陰に隠れ、ただただ手を合わせ続けた。

 そうして村人が去った浜辺は、彼の怒りに誘われてうねる波の音だけに包まれた。

「なずな、なずな。目を覚ませ、なずな」

 怪物は鼻先で少女に触れ、意識を確かめる。小さな体はされるがままに転がり、仰向けに転がってもまだ目を覚ます気配はない。

 壊さないよう静かに着物を擦る彼の鼻腔を、生々しい鉄の匂いが突き刺した。

「へ……び、かみ……さ……?」

 揺り起こされた少女は宙を眺め、か細い声で彼に応える。

「なずな。今、助けてやる」

 金色の眼を細めた怪物に、つい先程声を荒げた者の面影はない。それはすぐさま形をヒトに変え、少女を抱き起こし縄を解く。

 彼が小さきもののために地へ膝をつけたのは、このときが初めてだった。

「さむい、つめたい……へびかみさま、ですか?」

「どうした、俺がわからないのか」

 弱々しく伸びたなずなの手が鱗まみれの胸元に触れ、形を確かめるように首へ頬へと這い上がる。

 その手を掴んだヒトもどきは、感じたことのない不安感に襲われ呼吸を震わせた。

「……へびかみさま」

 もう一度その名を呼んだ少女は、彼の姿をはっきりと瞳に映し、微笑んだ。

「帰るぞ、なずな」

「っ、足が……いたいんです」

 立たせようとした男の腕を掴み、少女は息を詰まらせる。ずり落ちる体を抱きとめ、ヒトの形をした怪物はもう一度砂の上に膝をついた。

 なずなは着物の裾から覗く足が体の動きについてきたことに安堵の息を吐く。先のほうに感覚はないが、切り離されているわけではない。

「でも、それよりも、胸がいたい」

 支えを求めてすがりついたまま、なずなは彼の胸に顔を埋めた。

「悲しくて、腹立たしくて、でも悲しくて……いたい、胸がいたい。なずなは、おかしくなったのですか? これが、憎らしいということですか?」

 鱗まみれの肩に小さな手が爪を立て、乾いた音を立てる。

 村人たちからの仕打ちは穢れない少女の心を揺さぶり、胸の奥に闇を生んだ。それはぐるぐると渦巻いて、少女を引きずり込もうとする。少女は何度も、何度も、助けを請うように掻きついた。

「憎みたくないのに。憎みたく、ないのに……」

 見上げる瞳から、涙の粒が止めどなくこぼれ落ちる。その顔に堪えかね、蛇は力一杯になずなを抱きしめた。

「憎んでいい。お前があやつらを憎んでも、誰も咎めはしない」

 清らかだったものが腕の中で少しずつ壊れてゆくような、嫌な感覚が彼を襲う。人に罪を抱かせる魔物の手はそれを促してしまうのか、強く抱きしめることで楽にしてやれるのか、彼にはどちらともわからなかった。

 そうして嗚咽が止むまでに、どれだけの時間が流れただろうか。蛇の怪物はその時を、これまで生きた二百余年よりもずっと長いもののように感じていた。

「へびかみさま」

 やっと息を整えたなずなは、真っ直ぐな瞳を彼へと向ける。

 どうした、と問う代わりに、蛇は少しだけ笑みを浮かべてそれに応えた。

「なずなを、今……食ろうてください」

「馬鹿を言うな。お前を食うたりするものか」

 偽りない瞳のまま告げられた信じがたい言葉に、蛇の眉間がシワを刻む。

「生きろ、なずな。五年、十年、生きると約束したろう」

 彼が指したその先に、少女を食らう未来はない。

 人はこれを、情が移った、と言うのだろうか。蛇の怪物は無意識のうちに、食らうために傍らに置きはじめたはずの少女と共に生きる道を望んでいた。

 他愛もない会話が続けばいい。小腹の足しにもならない魚をつまむのも悪くはない。寝入った顔を眺め、ぼんやりと暇を潰す静かな時間が心地良い。そんな時間が、十年、二十年、命の限り続けばいいと望んでいた。

 そんな彼の願いを拒むように、なずなは首を横に振った。

「ひとを憎んで、こんな恐ろしい思いを抱えてまで、生きてはいけません。このまま居たら、みんな、みんな憎んでしまう。いつかは、へびかみさまのことも──」

「俺が忘れさせる。足も、心も、俺が治してやる」

 蛇の冷たい頬に、小さな手が触れる。

「へびかみさまは、本当におやさしい」

 じわりと伝わるはずの体温は彼のものとさほど変わらず、肌の柔らかさもあまり感じさせなかった。

「あんまりおやさしいから、なずなは生きたいと願うてしまいます。食ろうていただく約束を、やぶってしまいたくなる」

「それでいい、生きろ。お前はこの先もずっと生きるんだ」

 蛇が手を重ねても、冷たいもの同士では温め合うこともできない。降り注ぐ日の光は砂さえ温めるというのに、その上に身を置く二人の身体は冷えたまま。

「なずなは、だれも憎まずに、へびかみさまと生きたいのです」

「ああ、それでいい」

「へびかみさまの血肉になれば、なずなはへびかみさまと、百年、千年……ともに生きられますか?」

 少女の願いは揺らがない。それは蛇の心を揺るがせた。

「なぜだ、なぜ食わねばならん。村をなくせばお前を食わずに済む、お前も憎むべき奴等が居なくなる」

 愚かなものとして人を見下すはずの彼が、人の命を引き留めようと狼狽する。そんな姿を彼の父にあたるものが知れば、ただでは済まないだろうに。

「いけません。村は、おたすけください。どうか、どうか」

「なぜ庇う? あやつらはお前に、こんな仕打ちをしたというのに」

「それでも、なずなは村のみんなが好きです。……好きでいたいんです」

 日の光が差す中、ぱらぱらと小雨が降りはじめた。

 なずなの顔に落ちた水滴が、目尻から大きな粒となってこぼれ落ちる。

「されこうべをほこらに置いて、みなに、確かになずなを食ろうたと知らせてください。こどものされこうべがあれば、村の人々も安心しましょう」

 言葉を紡ぎきるより先に、息苦しさがなずなの胸を襲った。蛇の腕が少女の体をしっかりと捕らえ、とぐろを巻くように力強く締めつけたのだ。

 何度も横に揺れる濃紺の髪が、なずなの濡れた頬に触れた。

「へびかみさま、なずなを食ろうてください。まだ村のことが好きなうちに。憎んでしまう前に……だれかがまた、なずなのようになる前に。お願いです」

 鱗まみれの背に回されかけた少女の腕は、その肌に触れる寸前で躊躇い、下へと垂らされる。

 浅い息に腕を緩めた蛇が見たものは、乞い求める瞳だった。

「なずなのわがままは、聞いてはもらえませんか?」

 どれだけ引き留めようと手を伸ばしても、それが握られることはない。

 このまま生きることを強いれば、少女の心が壊れてしまう。蛇は静かに諦めの息を吐き、強張って動かない口元に笑みを強いた。

「……お前は残酷な奴だ。俺がお前の望みを拒めないことも、とうに知っているだろうに」

 生臭さを含んだ雨は次第に強さを増し、なずなの足を汚した鉄の匂いを洗い流す。

「なずなは、ずるい人間です。へびかみさまが嫌いな人間です。それでもへびかみさまのおそばにいたいと願う、身のほど知らずの愚かものです」

 頬を濡らしながら微笑んだ少女を下ろし、男はその姿を怪物のものへと変えた。大きな体にへし折られた何本かの松の木が、また砂の上に倒れてゆく。

 間近に寄せられた怪物の鼻先に触れたなずなは、微笑みを浮かべ、ゆっくりと目を閉じた。

「お許しください、へびかみさま。なずなは、へびかみさまを……」


──へびかみさまを、お慕いしていました。


 呑み込まれきる寸前、彼の喉の内側で響いた微かな声は、確かにそう告げ消えていった。

「ああ。……知っている」

 降り続く雨が、金色の眼から垂れ落ちた。


 なずなの望み通り髑髏を祠へ置き、濃紺の髪の男はその足で山へと向かう。

 遺された何本かの骨は、少女の家族が眠る場所に程近い野原へと埋められた。

「ここは良い風が吹くな。お前が好きな海も、村も……よく見える」

 一輪のカタクリの花を手向け、彼は姿を消した。

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