三、いけにえ
なずなが蛇の怪物とともに過ごしはじめて、村の暦では半年ほどが過ぎていた。
塩焼きにした鰊をつついていた少女は、はっと手を止めた。
「へびかみさま。村はいま、何月でしょう?」
「さあ、知らんな」
相変わらずヒトの姿に化けた蛇の怪物は、手掴みで魚にかぶりつく。
人間の食事に興味を持つ彼も、よくこうしてなずなと同じものを食べた。主食は人間で、空腹を満たせるものはそれしかないのだが、他のものをつまみ程度に食うことも嫌いではないのだという。
「雪は、積もっていますか? 溶けていますか? 桜は……?」
なずなが自分から村のことを口にしたのは、このときが初めてだった。それもただの気にしようではない。しつこく問うその顔には、焦りの色さえ浮かべている。
「何事だ。あちらが恋しくなったのか」
「いいえ、そうじゃありません。桜は、山の桜は咲いていますか?」
「あの咲いてすぐ散る白い花か。七分ほど咲いていたが、それがどうした」
答えを聞いた瞬間、なずなはあからさまに愕然とした。
「七分も……では、もう過ぎたのでしょうか」
「何がだ」
話がまったく読めない蛇は眉をしかめ、少女を見る。食事の途中で席を立つのは行儀が悪い、などと言っていた彼女は、飯も魚も放ったらかして柵を掴んでいた。
「ばば様の命日が、桜の咲く頃なのです。七分咲きだと、もう過ぎたのかもしれません」
弱々しく答えたなずなは瞳を潤ませ、すがるように彼の目を見つめ返す。
なずなが育った辺りの人間は霊だの供養だのと言って、死人に関してはことさらうるさい。近いうちに亡くなった者に関してはより神経質だ。祖母のせり婆は、亡くなってまだ一年。ひとり残された少女がその面影を忘れるには早すぎる。
「村へ、行きたいんだな?」
「お墓に手をあわせるだけでかまいません。あの日は急なことで、ばば様にも、父様にも母様にも何も言えずじまいで……」
あの日、村人がなずなに話を持ち掛けたのは昼前で、あれよあれよという間に着替えさせられ宴が始まった。あまりの急ぎように流されて、花を手向ける間もなかったのだ。
「なずなは元気にしていると、へびかみさまがいてくださるから心配はいらないと、一言だけ伝えさせて下さい」
子供ひとりを残して死んでしまった家族は、あの世でも胸を痛めているに違いない。けれどなずなはもう、人知れず寂しい死を迎えはしない。たとえ食われるときを待つ日々だとしても、孤独ではないのだ。
そして何より、共に過ごしている「へびかみさま」は優しい。孤独でないどころか恵まれた日々を送っていると、彼女は墓前に伝えたかった。
「それが終われば、かならず、かならず戻ると約束します。二度と村へは戻りません」
そんな少女の真っ直ぐさが、蛇には理解できなかった。本当にそのつもりがあるのかと疑っているわけではない。むしろ疑いを抱く余地もないほどに、彼女の瞳は澄みきっている。
少女の異常なほどの純粋さが、彼の中にあった「愚かな人間」という概念を揺さぶり、わずかな期待を抱かせはじめていた。
「ならば今日はもう休め。明日の夜明け、連れて行ってやる」
「はいっ!」
明るい声で答えたなずなの顔は、彼女が眠ってしまった後も、蛇のまぶたに焼き付いて離れなかった。
次の日の夜明け頃、蛇のヒトは少女を連れ、村のはずれにある山へと降り立った。
いくらかの家の墓が点々としている中で一際大きな石が、なずなの家族のものだという。
墓石の大きさが家や人の格を表すなら、彼女は村でもそれなりの家柄の育ちなのだろう。それがまさか、娘ひとりが残された途端、生贄にされるとは。蛇が抱きかけていた人間への淡い期待が、少しだけ曇った。
「陽が一番高くへ昇る頃、また迎えに来る」
「そんなに長く、いてもいいのですか?」
「未練なく別れておけ。何度も思い出して泣かれては気分が悪いからな」
目を見開いていたなずなの顔が、ふわりと笑みを浮かべる。言葉に出されなくても、その笑顔が「へびかみさまは本当におやさしい」と言っていた。
居心地悪くなった彼は、すぐに背を向け去ってゆく。
なずなは墓前にスミレとカタクリの花を供え、しばらくの間、相槌のない会話を楽しんだ。
「なずな? お前、なずなか?」
もうすぐ約束の高さまで陽が昇るというとき、少年の声が墓地の沈黙を掻き消した。
「っ、いそきちさん」
「やっぱりなずなだ! 足もある、本物のなずなだな? どうやって生きてた!?」
なずなが返事をするよりも先、少年は彼女の目の前まで駆け寄る。その表情は、驚きながらも、死んだとばかり思っていた少女との再会を喜んでいるように見えた。
「あのね、へびかみさまが──」
少年に手を取られ、なずなも笑顔で応える。
「お前。……食われる前に、逃げたな?」
「──っ!!」
目の前にあったはずの笑顔が一瞬にして消え、低く無表情な呟きがなずなの声を奪った。
「お前捧げたのに、ずっと海は荒れっぱなしだ。今わかったぞ。お前が逃げたから、へびかみさまのお怒りが鎮まらねんだ」
少年の手がぎちぎちと、なずなの細い指を掴み込む。怒り、憎しみ、叱責、どれとも言い難い目に睨まれた少女は、視線を逸らすことができず、ただただ少年からの言葉を浴び続けた。
「うまいもん食わせてもらって、命が惜しくなったんだな? 姿くらましゃあ、ばれねぇとでも思ったか?」
「ちが……う。聞いて、いそきちさん。なずなは今、へびかみさまのところに……」
「何が違うんだ? 最後だと思ってみんな優しくしてやったのに、お前はみんな騙くらかしたんだ。へびかみさま怒らして、村のみんな困らせたんだな」
怒りに震える少年はなずなの言葉を遮り、声を荒げる。
「ちがう、ちがう。なずなは五年待って、へびかみさまに食べてもらう約束して、今日はお墓まいりのお許しもらって」
「五年だと? よくそんな嘘つけるな、お前が逃げてる間ずっと、ずっと海荒らす気か?」
なずなは必死に首を振った。
逃げてはいない。そして「へびかみさま」は、怒っているわけでもない。
大きな蛇の怪物が泳ぐたった一掻きで波は起こり、海が荒れる。人が土の上に足跡を残すように、彼にとっては当然のことを、人々が勝手に神の怒りだと解釈しているだけだ。
「逃げてない、なずなはへびかみさまのカゴで待つ約束してるもの」
どれだけ伝えようとしても、少女の言葉は届かない。
「っ、もういい。嘘つきなずなの話なんか聞くもんか! こっち来い!!」
「いやだ、いや!! もうすぐへびかみさまがお迎えに来てくださるの!!」
もみ合う二人の足元へ落ちた墓前の花は無残に踏みつけられ、紫色が土にまみれた。
「おねがい、はなして……っ」
なずながどれだけ懸命に腕を引いても、足を踏ん張っても、年上の少年の力はそう簡単に逆らえるものではなかった。
何度つまずき、転んでも、逆上た少年は乱暴になずなを立たせてはまた引きずる。合わない歩幅に少女の足は度々跳ね、土の上に爪先を打ちつけた。
「へびかみさま、へびかみさま!!」
泣き叫ぶなずなの、赤い鼻緒がぶつりと切れた。
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