二、まくあい

 「へびかみさま」と呼ばれる怪物が棲む世界は、分厚い灰色の雲が天一面を覆って、時折その向こう側で起こる雷光だけが大地を照らす。

 そこを満たす空気は人間たちが暮らす世界のものよりも濃く、ヒトの子の体には大きな負担をかけた。

 気を失ったなずなが目覚めたのは、宴の夜から数日後のこと。

 寝転がって少し余裕がある程度の、鳥籠に似た檻の中に入れられていたのだが、その内側では村で過ごしていたときと同じように息ができた。

 鳥籠は、怪物がなずなを飼うためにこしらえたのだという。

 漁船も一呑みにするほど大きな怪物は、なずなを運んで以来ずっとヒトのような姿で過ごしていた。

 肢体もそれに近い形をしてはいるものの、土色の鱗まみれで尻尾も生えている。彼の父にあたるものがヒトの形をしているため、この地で過ごすときはそれに合わせているのだとか。

 彼はいつも少女の傍らで過ごし、彼女が何かを問えば必ず答えを返した。


「へびかみさま。へびかみさまのお名前は、何というのですか?」

 なずなは両手で柵を握り、彼の横顔を眺める。

 ヒトの形に化けた蛇の怪物はいつも熱心に何かをこしらえていた。なずなの前に置かれた水瓶も、彼が作り上げたものだ。何にでも興味を持つ彼の性格ゆえに、少女は食われず、捨て置かれず、この奇妙な生活をすることになった。

「何だっていいさ。好きに呼んでいろ」

「お父上は、名付けてくださらなかったのですか?」

「いや。名はあるが……無駄に長い」

 彼が振り向くと、少女は無言のまま、次の言葉を待つようにじっと視線を注いでいた。

「ヴァイパー、と。父たちからはそう呼ばれている」

「ばい、ぱ……あ?」

 溜息混じりに答えると、少女は小首を傾げてその音を繰り返そうとする。耳慣れない異国の言葉は、なずなには少し難しかった。

「そら見ろ、まともに言えないだろう。だから好きに呼べと言ったんだ」

 彼は一瞬眉根を寄せ、また手元へと視線を戻した。

 機嫌を損ねてしまっただろうかと不安になりながらも、なずなは彼のそんな表情さえ綺麗だと思ってしまう。

「そのお名前は、どういう意味なのですか?」

「蛇の名だ。意味などない」

 土を捏ねながら、それでも彼は必ず答える。

 神様というものはもっと高圧的というか、高飛車というか、何であれ取っつきにくいものだと思っていた少女は、こうして会話が続くことが嬉しかった。けして親しみやすいというわけではないのだが、邪険にもされないのだから、根はきっと優しいのだろう。

「へび。では『へびかみさま』で合っているのですね」

「……神ではないと何度言わせる気だ」

 嬉しそうに笑みを浮かべる少女を見遣り、彼はまた溜息を吐いた。

「俺たちは神とは逆の、魔だ。お前たち人間に欲を植える」

 彼は、穢れなきものとして創られた人間に欲の心を植え付ける、悪ともいえる存在だ。それがどうして「神」として崇められるのかと居心地悪く思いながらも、食い物を捧げられるのだから構わないかと、不快感にも目を瞑っていた。

「欲の中でも、羨ましいとか、妬ましいとか、そうした感情を植えるのが俺だ。あとは……より高みを求める心も、か」

 その話は八歳の子供には難しすぎたようで、口をつぐんで考え込むような顔をしたまま、なずなはぴくりとも動かなくなってしまった。

「お前も、まんまと生贄の身を逃れた女どもを怨めしく思っているだろう。その思いが俺の所業だ」

 我が身のこととして教えてやれば少しは理解するだろうかと例えてみれば、少女は無言のまま首を横に振る。

「なずなの名は、人のためになる子に育てと願いをこめて、母様が付けてくださいました」

 ナズナとは野に生える花で、それにあてられた「花言葉」というものが名前の由来だと少女は語った。それがどんな言葉なのかは示されなかったが、本人はそれを気に入っているようだ。

「だからなずなは、村のお役に立てる。五年ほど先にはなるけど、へびかみさまのお腹の足しにもなれます」

 そう言った少女は、誰もが嘆くはずの立場を、誇るべきもののように笑う。

「お前は、どうしてそれを受け入れられる? 仲間どもに見捨てられたとは思わないのか」

「だれかが負うお役目です」

 物わかりが良すぎる少女の言葉は、彼には理解の及ばないものだった。

「ばば様が死んで、なずなはひとり。ひとりでは、そう長くは生きられません。たべるものだって……」

 ふいに、なずなの腹が大きく声を上げた。体の中で飼っている獣か何かが吠えたような音は、彼の耳にもしっかりと届いていた。

「腹が減っているなら、正直にそう言え」

「ち、ちがいます、これは……っ」

 少女は頬を真っ赤に染め、腹を抱えて俯く。細い腕の内側で、潰された獣がまだ声を上げ続けた。

「俺とお前たちとでは時の流れが違う。同じ場所に居ても違うとはな」

 蛇のヒトは立ち上がり、なずなの真向かいにしゃがみ込んだ。同じ高さに合わされた目線で、瞳孔の細い金色の眼が少女を睨みつける。

「黙っておいて、飢え死にでもするつもりだったのか」

「ごめんなさいっ」

「何が食いたい」

 咎める声は威圧的で、今にも手を上げそうな空気を放っていたというのに、次にかけられた声はすぐに静かなものに変わっていた。

「え?」

「何を食いたいかと問うている。好きな食い物はあるか」

 間の抜けた声を上げた少女に向けて、彼は軽く息を吐いた。

 その表情を、なずなは見たことがある。昔、なずなが我が侭を言ったときに母が「しょうがないね」と言いながらしていた、あの慈しみの顔とよく似ている。

「……ととが。おととが、好きです」


 少しの間そこを離れた怪物は、すぐに魚を提げて戻ってきた。一貫はありそうな、立派な石鯛が二匹。漁が盛んな村で育ったなずなでも、そうそう食べられたものではない。

 活きの良いそれは、刺身で食べることにした。

 さばくための包丁が欲しいと言えば、それの代わりになる石が出てくる。手を洗う水があればと言えば、水を操る魔物だという彼の手のひらからそれが湧いて出る。便利なものだなと感心しながら、なずなは二匹分の刺身を器に盛った。

「へびかみさまは、おととも召し上がるのですか?」

「あの図体だ。泳いでいれば勝手に、口の中へ流れ込んでくる」

 透き通る身の切れをひとつ目の前にぶら下げて、彼はそれを表から裏から何度も観察した。上を向いて口の中へ落とし込み、頬張って、飲み込めばまた次の切れを持ち上げて眺めている。

「いつも丸呑みで、味わったことはなかったな」

 もったいない、と笑って、なずなは落ちそうになる頬に手をあてた。醤油がなくても、それは十二分に美味かった。

「次は何か、味のあるお料理をつくりますね」

「人間の食い物とは面倒なものだな。逐一手を加えなければならないのか」

 こんな贅沢をさせてもらっていいのかとなずなが問うと、彼は人間の価値観がわからないと答え、彼女の取り分を摘んだことを気にしている風なことを言った。二匹もは食べられないから構わないと言えば、気分が悪いから我慢や遠慮は無用だと返し、背を向けてしまった。

 つんとした態度を取りながらも、彼の言葉の底には優しさがあった。

「おててが冷たいひとは、心があたたかいひと。ばば様が教えてくれました」

 なずなは鳥籠の柵を握り、少し離れてしまった鱗だらけの背中に笑みを向ける。

「へびかみさまは、おてても、おからだも、全部が冷たい」

「俺はヒトではない。神でもない。お前に向ける温かさなど、持ち合わせているわけがないだろう」

「こうして、そばにいてくださいます。おはなしだって、してくださる」

「……ただの暇潰しだ」

 背を向けてしまっても、やはり彼は答えを返し続けた。

 捏ねる土が、皿や器へと形を変えてゆく。その傍らには、なずなに使わせる箸代わりの棒もあった。

「なずなも、しずかに五年待つよりは……へびかみさまのお暇つぶしになれるほうがうれしい」

「食らわれる時を待つ五年だというのに。もう狂うたのか」

 そうして言葉を交わせば交わすほど、二人の心の距離は少しずつ縮んでゆく。

「へびかみさまは、こわいお方かと思っていました。でも本当は、とてもおやさしい」

「馬鹿を言え。食い物にくれてやる優しさなどあるものか」


 それからも時折、蛇の怪物はなずなの食糧のために海を泳いだ。

 魚は故郷の海のものが良いだろうという彼の何気ない気遣いが、村の沖合いに波を起こし続けていた。




 朝も夜もわからない鈍色の世界で、なずなは眠気に従って日々を数えた。

 「へびかみさま」は真率な男で、なずなのために何かするときには必ず彼女の希望を聞く。人間の生活にも興味があるようで、村の暮らしもよく話題にあがった。

 そうして話す中で気になったものが作られ、なずなが何度目かの目覚めを迎えた頃には籠の中に布団が、地のくぼみには風呂代わりのぬるま湯が用意されて、住環境も大分整えられた。

 この生活は彼にとって食糧を育てているに過ぎず、自身は家畜のようなものだと少女は理解していた。

 けれど彼の対応は、ただの家畜を扱うよりもずっと丁寧で思いやり深い。一日一回の食事では彼女の好きだというものが贅沢に用意され、痩せ細っていた体もすっかり人並みになった。

『お前の肉は若すぎる。あと五年は寝かせないと、小腹の足しにすらならない』

 どれだけ優しさを感じても、やはり食糧は食糧。すべては宴の夜に告げられたあの言葉のためだ。

 それでも少女は、その結末を嘆かわしく思ってはいなかった。

 家族を亡くし、周囲から存在を黙殺され、一人寂しく死んでしまうはずだったところに現れた「へびかみさま」は、たとえ神でなくとも彼女にとっては十分に「かみさま」といえる。

 命を捧げる以外、彼から受けたものに報いる方法を少女は知らない。これから過ごす五年という月日の中で受け続けるであろう恩を、小さな体ひとつ捧げる程度のことで返しきれるのか不安でさえあった。


   *


 中空から蛇の巣を眺め、金色の髪の魔物は小さく溜息を吐く。

 この世界に紛れ込んだ異質な匂いを嗅ぎつけて来てみれば、腹の足しにもならないような小娘が籠の中で大人しく座っている。蛇の怪物が化けたヒトはその傍らで過ごし、小娘とは親しげな様子で言葉を交わして、更には小娘のために食糧を探しに出かけてしまったのだ。

 近付くものの気配には気づいていたようで、彼は姿を消す直前、釘を刺すように空を一睨みして行った。

「困ったものだね」

 もう一度溜息を漏らした魔物は、ふわりと鳥籠の前に降り立った。

 草ひとつ生えていないはずの涸れ地に広がる、ジャスミンの香り。

「え……?」

 柵の中の少女は目を見開き、地に腰をつけたまま少しだけ後ずさる。

 少女の前に現れたのは、蛇が化けたものによく似た顔の、金色の髪の女。血色の良い肌に紅の瞳がよく映える。白い布は少女が見たこともない形で身に纏われ、豊かな胸の谷間も、二の腕も、すらりと伸びた綺麗な脚も、惜しげもなく人目に晒されているという、ひと言でいえば“はしたない女”だ。

 それは少女に向けて目を細め、含みのある笑みを口元に浮かべた。

「ヴァイパーの妙な興味に付き合わされるなんて、お前も運が悪いね」

「へびかみさまの、おともだち……ですか?」

 不安げに眉を寄せながらも、少女は真っ直ぐに女を見上げる。その様子に、目の前に現れた魔物を恐れている様子はない。声色からもそれは明らかだ。

 女のなりをした魔物は、また、溜息を吐いた。

「肝の据わった小娘だね。私はリル、あいつの弟だよ」

「……おとうと」

 魔物が口にした言葉を繰り返し、少女は少しだけ首を傾げた。

 弟とは普通、男を指して言うもの。目の前に立っているそれの乳房は間違いなく膨らんでいて、艶のある女の顔をしているし、声も女のものだ。女の形をしているのだから「妹」と言うべきだろうに。

「何か文句がありそうな顔だね」

「っ、いいえ」

 少女は力一杯に首を横に振り、正座した膝の前に手を揃えて深々と詫びた。その対応は、普通の人間にしているものと何ら変わらない。

「……成る程。ヴァイパーが気に入るわけだ」

 ふん、と鼻から息を吐き、魔物は楽しげに声を弾ませた。

 少女の目線まで身を屈めたそれの手が、籠の中の柔らかな頬に触れる。

「お前は面白い。食い物としては全く用を為さないけど、ね」

「おとうとさまも、ひとを食べられるのですか?」

「私が食らうのは魂……お前たちが言うところの“心の臓”を動かすもの、かな」

 ヒトと同じ形をした指先が頬から首へと伝い下り、少女の左胸を突く。その瞬間、少女の肩がびくりと跳ねた。

 初めて見せられた怯えの表情に、魔物の口の端が吊り上がる。

「怖がらなくてもいいよ。お前の魂は若すぎる。せめてあと五年は寝かせないと、小腹の足しにすらならないからね」

 その言葉の何が面白かったのか、少女はきょとんとして瞬きをしたすぐ後、口元に手をやり笑いだした。

「おとうとさまは、へびかみさまと同じことをおっしゃるのですね」

「同じ? ……冗談じゃないな」

 少女の笑いを遮ったのは、あからさまに不機嫌な蛇の怪物の声。振り返った金色の髪の魔物は声の主を見るなり、その綺麗な顔を微笑みで彩った。

 一方は少し生臭くもある磯の香り、もう一方は甘い花の香り。まったく違う空気を纏いながら、顔は気味が悪いほどよく似ている。

「やあ、早かったね」

「去れ。お前にくれてやるものは何も無い」

「貴様のそんな顔が見られただけで十分だよ」

 弟だという彼女が楽しげに言葉を重ねれば重ねるほど、蛇の表情は険しいものになる。苛立ちは隠す気もない様子。

 初めて見る彼のそんな顔に、少女はただただ視線を注ぐ。一帯に険悪な空気が流れ、雲の上で雷が轟いても、少女が声を発することはなかった。

「この小娘を弄くって狂わせれば、その顔はもっと綺麗に歪むんだろうね。考えただけで唾液が湧いてくる」

「相変わらずの悪趣味だな」

「人間を飼う貴様よりはマシだよ」

 もう一度少女の側を向いた金色の髪の魔物は、艶のある顔に微笑みを浮かべる。

 一見は優しげな女の笑み。けれど考えの読めない、癖のある表情だ。

「まあ、弄くろうにもこんなに乳臭いんじゃあね。私の出番はもう少し先かな」

 楽しみにしているよ、と笑って、女のなりをした魔物は地を蹴り宙に浮く。

 少女がたった一度瞬きをする間に、それは姿を消していた。

「……曲者めが」

 足元に転がしていた食糧を拾い上げながら、蛇が化けたヒトは小さく溜息を吐いた。

「妙なことはされなかったか」

「いいえ、何も?」

 つい少し前までの刺々しい空気に脅えるでもなく、兄弟仲を問うでもなく、少女はにこにこと笑みを浮かべている。

「おとうとさま、お美しい方ですね。あんなにきれいなお顔も、おぐしも、おめめの色も……はじめて見ました」

 その言葉に、表情に、偽りはない。

 彼女たちの間にどんなやりとりがあったのかは蛇の知るところではないが、弟の性格からして相手の気分を害しこそすれ、愉快な時間を過ごすようなことはまず有り得ないというのに。

「お前は本当に、変わった奴だな」

「なずなには兄弟がおりません。だから、へびかみさまが羨ましい。ひとりきりは……さびしいものです」

「今は独りではないだろう。それでいい」

 少女は間髪いれず告げられた言葉にきょとんとして、瞬きを繰り返した。

 蛇はすでに彼女から目を逸らし、提げてきた食糧を地中に掘った蔵へと移している。

 揺れる濃紺の髪の隙間から覗く、居心地悪そうなしかめ面。

「……はい」

 一言だけの答えを返す少女の顔には、笑みが咲いていた。

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