わすれなぐさ
村崎いなだ
一、へびかみさま
海が荒れるのは、へびかみさまがお怒りだからだ。船は激浪に呑まれ、若い衆も老いぼれも、一瞬にして姿を消してしまう。けれど数日経てば、みなが浜辺に打ち上げられる。水で膨らんで相は変わって、肌の色が変わってしまっても、必ずみなが帰ってくる。
あるとき漁師の娘が一人、船ごと呑まれて戻らなかった。男衆がみな打ち上げられても、娘はついぞ戻らなかった。
そして娘が呑まれた後、海は波ひとつ立てなくなった。
へびかみさまは、おなごを食らう。
おなごを食らうと、海が凪ぐ。
海が荒れたら、おなごを捧げろ。
へびかみさまに、おなごを捧げろ。
潮風が強く吹き抜ける土地では作物もろくに育たず、海辺の小さな村では漁が命綱だった。
恵み多く真っ青な、穏やかな海。けれどひとたび荒れはじめるや様相は一変し、沖に出たままの船がいくつも犠牲になる。魚は獲れず、船も働き手もいっぺんに失う、それは村人たちにとっても死を意味した。
昔からの言い伝えにならって、波が荒れはじめると「へびかみさま」を祀っている祠へお参りをする。村から選ばれた若い娘をひとり、大幣で囲って、女たちが踊りを捧げる。月が天井へ昇りきるまで踊ったら、娘ひとりを残して夜明けを待つ。日の出の頃、捧げ物の娘は消えて、静かな海が戻ってくる。
『娘は、清らかな体の者に限る』
誰が言いはじめたのかは知らないが、それは村人たちの間で暗黙の了解だった。それがために、ある家では初潮も迎えないうちから嫁にやり、またある家では父が娘と通じさえする。
我が娘を守るため。命さえ助かるなら、それ以外の惨さなど些末なことだと。
そうして村には、年頃の清らかな娘が居なくなった。
*
「こうも時化が続いちゃあ、みんな死んじまう」
「ここずっと捧げ物がねぇから、へびかみさまがお怒りなんだ」
波がごうごうと音を立てる浜辺の小屋で、村の大人たちは頭を突き合わせていた。
ここのところずっと、波が荒くて漁らしい漁にならない。「へびかみさま」の言い伝えが迷信だという可能性にかけて様子を見てみたものの、時化は一向におさまらず、それどころか日に日に激しさを増していた。
干物も底をつきかけて、いよいよ祠へ供物を捧げなければならなくなったのだが。
「だども、村にゃもう生娘は居ねぇぞ」
「あれだ。せり婆んちの、孫っこ差し出しゃええ」
「あげな小便臭いガキで、へびかみさまが納得してくださるもんか」
「んだばお前、このまま黙って死ぬか?」
ある者の問いかけに、小屋の中が一瞬にして静まり返る。
甘んじて死を受け入れたくはない。誰しもが同じ思いだった。
「小便臭うても娘は娘だ。せり婆も亡うなって、孫っこはひとりだろ」
「どこも引き取り手はねぇんだ。草食ってひもじい思いして、怨み残して死なれるより……村の役さ立ってもらったほうがええ」
「んだ、へびかみさまに食われりゃあ成仏間違いなしだ」
白羽の矢が立ったのは、「なずな」という名の子供だった。歳は満で八つ、病で両親を亡くして母方の祖母に育てられていたのだが、それも半年前に老衰で他界した。唯一の肉親だった老婆を亡くし、少女は村はずれの掘っ立て小屋でひとり細々と暮らしている。
どこの家も貧しく、わざわざよその子供を引き受けてやる余裕などなかった。一時の哀れみで手を差し出せば、日々の食い物が、わずかな蓄えが、その分だけ減ってしまう。それで家族が路頭に迷うようなことがあっては、我が娘を穢してまで守ったのが水の泡だ。
幸いにも、少女の住まいは村のはずれで、わざわざ出向かなければ目にすることもそうありはしない。村人たちは少女の身の上を哀れみながらも、その存在から目を逸らしていた。
「なずなが、へびかみさまのお嫁に?」
久しぶりに訪ねてきた村人の話に、少女はつい間の抜けた声を上げた。少女の前では大人が三人、みんな揃ってわざとらしいほど満面の、さもめでたげな笑みを浮かべて座っている。
「んだ。なずなは選ばれた娘っこだ」
「きれいなべべ着て、うまいもん食って、へびかみさまんとこ嫁にいくんだ」
なずなは頭の良い子だった。嫁入りの祭りで祝われる花嫁が心から笑っているわけではないと知っていた。達者でなと掻きつく親の涙が深い悲しみにあることを、彼らが居た堪れず中座していることを、知っていた。
村人たちの話が何を意味しているのかはすぐに察しがついたが、少女はにこりと微笑んで、「選ばれた」ことを喜んでみせた。
「なずながお嫁さん。ばば様、よろこんでくれるかな」
やせ細った子供が浮かべる嬉しそうな笑みに、大人たちは胸を撫で下ろした。一夜の宴が終われば、村はしばらく安泰だと。
「何色のべべが良いか? 何食いてぇ?」
「なずなの食いてぇもん、たんまり用意するぞ」
年端もいかない少女をひとり犠牲にするというのに、大人たちの声は明るく弾む。さもめでたいことのように。さも、めでたいことのように。
このまま生きていてもひとりきり、空腹に堪えながら無駄に命を落とすより、どうせなら人の役に立って死ぬほうがいい。なずなは微笑みながら、そんなことを考えていた。せり婆が散々言い含めた「まわりのもんに必要とされる人間になれ」が、なずなを純粋すぎる子供にしてしまったのかもしれない。
そうして、その日の夕方、宴が開かれた。
なずなは桃色の着物を身にまとい、黒髪も綺麗に結い上げて、大皿に盛った御馳走を振る舞われる。あまりにも急がれた宴と、どの盛り合わせにも生魚が見当たらないことが、村の苦しい現状を物語っていた。
「めでてぇな、うん、めでてぇ」
「ああ、めでてぇとも。なずなよ、へびかみさまにたんと可愛がってもらえ」
大幣で囲われたなずなを眺め、大人たちは酒を酌み交わす。綺麗に化粧した少女の周りで踊る娘たちは、みなが一様に思いつめた顔をしていた。
『こんな子供が、可哀想に』
『けども、食われるのが私でなくてよかった』
『父ちゃんのことは怨んだけど、食われて死ぬよりはましだ』
『これで、みんなの命がつながった』
娘たちの心の声を肌で感じながら、なずなは笑顔を貫く。
「……へびかみさま、おやさしい方だといいな」
呟きは太鼓の音に掻き消され、誰の耳にも届かなかった。
怖くないと言えば嘘になる。生きながらにして食われるのだ、怖くないわけがない。どうせなら歯は立てないで丸呑みにしてほしい、少しでも痛みを伴わない死に方がいいと、その優しさが彼女の願いだった。
そうして月が天井に届く頃、宴は御開きになった。
後片付けもそこそこに、村人は祠の前から去ってゆく。波の音は相変わらずごうごうと鳴り響いているというのに、ひとり残されたなずなは急な静けさに包まれた。
「来てくださるかな、へびかみさま」
与えられた使命を全うできなかったとき村人たちにどう詫びればいいだろうかと、不安がよぎる。
「…………」
緊張の糸が切れて眠りに落ちかけた頃、なずなは妙な空気を感じ、慌てて目を覚ました。
風が少し生臭い。荒れた波音に混じって、ずるり、ずるりと、何か大きなものが砂の上を這う音がする。祠を囲む松の木々が、幹をきしませ震え上がった。
「なんだ。今度の生贄は随分と小さいな」
「……へびかみさま?」
声がした側を見たなずなは、思わず息を呑んだ。
暗闇には、金色に光る眼がふたつ。なずなの頭より大きい。雲の隙間から差した月明かりがその姿を照らし出す。ヘビかトカゲのような頭に、大きな大きな体。呼び名に似合わず、胴からは足も生えている。背に付いた翼は、その巨体を飛ばすにしては随分と小さい。
「俺は、神ではない」
それはなずなを見下ろし、静かに告げた。
「なずなは、へびかみさまをお待ちしています。へびかみさまのお怒りをしずめて、しずかな海に戻してもらうお役目があります。へびかみさまでないなら、どうかお帰りください」
なずなは行儀良く正座して、丁重に頭を下げる。綺麗にしていた髪が砂に埋まり込むほど、額を地べたに押しつけた。
「海が荒れるのは、俺が泳ぐからだが」
「なら、あなた様が『へびかみさま』なのですね?」
ぱっと頭を上げたなずなの顔は、喜びにも似た色を浮かべていた。
少女を見つめる怪物の目が、あからさまにしかめられる。
「そういうことになるのか。ここに置かれる人間を食ろうているのも俺だしな」
怪物は、いつの頃からか自分のための捧げ物が用意されはじめたことに気づき、度々ここを訪れていた。
様子見に現れるたび海は荒れ、それから数日と経たないうちに女が捧げられる。餌場は他にもあるのだが、その中でもここは特に用意が早く、気に入っている場所のひとつだった。それがこのところは女が置かれている匂いがせず、どうしたことかと沖へ眺めに来ていたのが時化の原因だ。
「では、なずなのこともお食べください。お怒りをしずめて、しずかな海にお戻しください」
真っ直ぐな少女の瞳は、怪物に居心地の悪さを抱かせた。
「怒ってはいないが……俺に食われることを望むのか? ここに囲われた人間はみな、泣き喚いて助けを乞うたぞ」
「怖くはありません」
不安を煽るよう大袈裟にした問いかけにも、少女はすぐに答えを返す。
これまでの生贄はみな怪物を目にした途端恐怖におののき、声もなく這いずり回るか、言葉を発したとしても「おたすけください」と呪文のように繰り返すばかりだったというのに。
「なずなは、怖くありません」
言い聞かせるように繰り返した少女の、陰に隠した片腕が小刻みに震えていた。
やはり間違いなく、恐怖心はあるのだ。なのに押し殺していられる、その冷静さが気にくわない。体の大きさにも態度にも食欲を削がれ、怪物は海の側へと頭を振り直す。
「お前の肉は若すぎる。あと五年は寝かせないと、小腹の足しにすらならない」
「お待ちください、へびかみさま」
ずるりと巨体を引きずって進みはじめた怪物を、どうしたことか、少女は声を張り上げて呼び止めた。
「なんだ。よく喋る小娘だな」
次の会話も成り立って、それに気分を害されることもわかっていながら、怪物は首を振って少女を見遣る。
「なずなを、お連れください」
少女が告げた言葉は、怪物の予想していないものだった。
「なぜだ? 命拾いしたと喜ぶべきところだろうに」
「なずなには、帰る場所がありません。待つ人もおりません」
だから何だ、と返しかけた怪物よりも先に、なずなが次の言葉を続ける。
「どうせ落とす命なら、だれかの役に立たせてください。五年でも、十年でも、食ろうていただけるときをお待ちします」
少女の瞳に嘘はなかった。恐れに肩を震わせながら、けれど間違いなく、言った通りのことを望んでいるのだ。
「……酔狂な」
食われることを望む人間に出くわしたのは、二百年少々生きた怪物にとって初めての経験だった。そもそも、こうしてまともな会話をしたことが一度もない。
巨大な怪物の姿を見て、言葉を失わなかった人間。それは彼の興味をそそった。
──人間を飼うのも面白い、か。
怪物は心の中の呟きに笑い、少女の側へと向き直る。
「っ、え……?」
ふと、なずなの前から怪物の姿が消えた。
冷たいものに包まれたと感じた次の瞬間、突然体が宙に浮き、少女は反射的に体へ沿うている「何か」に掻きつく。
「しっかり掴まっていろ」
「へ、へびかみさま?」
耳の真横で響いた声は、間違いなく先程まで言葉を交わしていた怪物のものだ。けれど何か、様子がおかしい。
「なんだ」
なずなが顔を上げると、すぐ目の前に金色の瞳があった。
肌は蒼白、首や頬に土色の鱗を残しているものの、顔の造形は人間と同じ。怪物が纏っていたものと同じ磯の香りが、彼こそその怪物なのだと知らせていた。干した漁業用の網に似た匂いは、家族が漁師だった少女にとっては嗅ぎ慣れたものだ。
抱え上げられ、その肩にしがみついたまま、なずなは目の前の信じられない光景に目を見張った。
「お顔が、ひとに……」
「お前は小さすぎる。あの姿では爪を掛けただけで潰しかねない」
視線を避けるように振られた顔に、長い濃紺の髪がかかる。
見ようによっては女にも見える、美しくも妖しい顔立ち。年の頃は十六、七あたりだろうか。怪物の姿の頃と同じ瞳孔の細い眼は少し不気味でもあるが、それがまた人ならざる者の気高さを漂わせている。
神様とはこうも美しいものかと、なずなは少しの間その横顔に見惚れた。
「きれいな、紺色……ですね」
やっと出せた言葉は、髪だけを褒めたような的外れなものになってしまう。なずなは金色の瞳に見られるより先に俯き、彼の肩へすがる手に力を込めた。
「……本当に、変わった小娘だな」
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