黒き虹は曇天を砕く

 あれは、巨大な満月が煌々と輝く、空気の澄んだ夜のこと。


 所用で訪れたハンターズギルドで気の良いドルガン酔っ払いたちに絡まれたユウジは、若干フラフラになりながら自室の1室で眠りに就いたはずだった。だが、ベッドに横たわって意識を落としたと思ったその瞬間、ユウジの周りに広がっていたのは異様な光景だった。


 一見水彩画のように鮮やかに見えるが、長時間眺めていると眩暈を起こしそうになる極彩の曇天と、眼下に広がる深い森に砂浜、そして果てしなく続く乳白色の海らしきナニか。


 異変は景色のみに留まらず、ユウジ自身の身体も一切が動かせなくなっていた。より正確に言うならば、自分の身体の境界……何処からが腕で、何処からが脚なのかなどがまるでわからない。身体が木にでもなってしまったかのようだった。


(これは……いったい……!?)


「くくくく……まさかこうも上手く事が運ぼうとは。全く、有効活用すればこれだけのことが出来るというのに……あの役立たずはやはり魔力を無駄にしていますね」


 混乱の最中、不意にユウジの目の前から加工をされたような、男とも女ともつかぬ耳障りな声が響く。その時になってようやく、ユウジは正面にドーベルマンに似た頭部を持つ薔薇を纏った悪魔の姿を認めた。すぐそばにある地面からは醜く捻れた太い木の根が突き出されており、その先端が不活性状態の聖剣を絡め取っている。


 悪魔――フラウローズは嘆息して、


「しかし勇者……あなたには失望しましたよ。勇者というからにはさぞかし大量の魔力を持っているのでしょうと期待していたというのに、よもやその辺の有象無象と大差ないレベルの量しか持ち合わせていなかっただなんて。こうしてあなたを捕えるために消費した魔力をあなたからの搾取で賄おうとしていたのがご破算ですよ。どうしてくれるのです?」


(な……に!?)


 だんだんユウジも混乱から立ち直り、悪魔の言葉を咀嚼する余裕が出てきた。自分が何らかの手段で目の前の悪魔に拉致され、不明な方法で拘束されているらしいことを理解する。


 だが、聖剣の守護がある以上勇者への悪意ある干渉は自動的に無力化されるはずであり、こんなことになることはあり得ないはずだった。敵の方が聖剣の力を上回ったり、されたりでもしない限り――


(……いや)


 と、ユウジは思い直す。後者に関しては疑わしい出来事があったのだった。


 遡ること数日前。ユウジはメダリアの大通りでシルクハットにモノクルを付けた、劇作家を名乗る燕尾服の男に演劇用の取材と称したインタビューを受けた。その男が魔物であることをユウジは聖剣の看破能力で即座に見抜いたが、悪意害意の類いが全く存在しない(感じ取れない、ではなく元から一切ない)その奇妙さから、しばらく様子を見ようと考えていたのだ。


 もし仮に何かされたとしたらその時だが、しかし一切の敵意も悪意も無く誰かを監禁しようなどというのは極めて難しいはずだ。


(あるいは……あの作家の悪魔が、本人の預かり知らない所で目の前の奴に拉致のトリガーとなる何かしらを仕込まれていたという可能性も……)


「まあ、いいでしょう。魔力ならから調達すれば良いだけの話ですし。あなたは暫くそこで大人しくしていてください。全てが終わるまで、ね」


 そう言って、犬頭の悪魔はユウジに背を向けると高台から立ち去ろうとする。傍らの根に、聖剣を掴んだまま。


(おい待て!聖剣を返せ!!)


 というユウジの叫びは声にならず、虹の聖剣アルカンシェールは持ち去られてしまった。あの剣はユウジの呼び掛け1つで即座に手元まで戻って来る能力があるが、どういうわけかそれも機能しない。


(くっ……ううううう……!!)


 渾身の力を込めて脚を踏み出そうとするも、身体が全く命令を聞かない。脚は地面に根を張ってしまったかの如く、微動だにしなかった。


 静寂が戻る。


 絶望と無力感とを、引き連れて。




◼️◼️◼️◼️◼️◼️




(……あれからは、ただただ地獄だった)


 回想から戻り、勇者は、舞い戻った7色の輝きを掲げる手に力を込めた。聖剣は周囲の光を色彩ごとに分解して宝玉のようにまとめ上げ、次々とその刃へ取り込んで行く。


(無の空間に、何処かから苦しむ声が満ちて来た。同じ状況に陥った街の人たちのものだということはすぐに分かった……)


 おびただしい数の苦悶の呻きに、しかしユウジは助けに向かうことも出来ず、励ましや慰め、勇気付ける言葉を届けることも出来なかった。元より、“魔力”というものが空想やおとぎ話の存在でしかない世界からやって来たユウジの素の能力はこの世界の一般人に毛が生えた程度でしかない。


 ただただ聖剣のない自分の無力さを否応なしに突き付けられたまま、人々の負の感情を受け止め続けることしか許されなかった。


 だが、救済の時は突然に訪れた。


「「【小さき勇者にライジング、希望あれ・ホープ】!!」」


 背中に投げ掛けられたのは、ユウジを地獄から解き放ってくれた兄妹の声援支援魔法。クロとイロハが協力して放ったそれが、ユウジの心に暖かい光を灯す。


 おそらくは巻き込まれただけで、詳しい素性もわからない2人。聖剣も“人間ではない。しかして魔物でもない”という曖昧にしてキナ臭さを感じさせる評価を下している。だが、この場において、そんなことは些細な問題だ。


『――あとは、任せてもいいか?』


 今はただ……恩人に託された仕事を全うするのみ。


「おのれ……かくなる上は……!」


 荒く息を吐くフラウローズは、持っている杖を両手で構え、腰を落として先端をユウジに突き付ける。同時に周囲の黒犬と薔薇の群れをまとめて魔力リソースへ還元し、自身に取り込んだ。両肩に咲いている巨大な赤薔薇の花弁が鮮やかさを増しながら展開し、その中心に膨大な魔力が収束されていく。真っ向から、ユウジと兄妹を打ち砕こうという構え。


 破壊力は未知数。しかし、ユウジはまるで負ける気がしなかった。


「『勇気親愛希望優しさ慈悲喜び祈り――――集いし七色ななしき、束ねて一色いっしきと成す』――」


 聖剣の放つ輝きが変化を見せる。数多の色彩が混じり合い、1つの色――星々を包む、夜天の如き『黒』へと収束されていく。本来依り集まると白くなるはずの光の色は、ユウジのイメージによって真逆の色へと変わっていた。


「『産まれし『黒』にて、ここに『結束』の力を示さん』!!」


 聖剣の輝きが弾け、刃がロケットの噴射炎を想起させる不定形の奔流と化して伸長。それを確認すると、ユウジは新体操のバトンのように聖剣を振り回して黒曜を散らし、肩に担ぎ上げるように構える。


 そして――




「消し飛びなさい!【血薔薇の暴威カラミティ・ローズ】!!」

「『染め上げよ』――【アルカンシェール・ノワール】!!」




 両者は、同時に解き放った。


 悪魔フラウローズは両肩と杖から、深紅のレーザーと見紛う程の密度を持つ、鋭利な花弁の大群を。


 勇者ユウジは振り下ろした聖剣より、触れる物全てを飲み込む、極黒くろき閃光の激流を。


 紅と黒は両者の中間地点で激突。紅は黒を削り飛ばし、黒は紅を灼き潰していく。完全な拮抗状態。


(……負けられない)


 聖剣を握るユウジの脳裏に、クロの言葉が去来する。


『あんたも、色々ぶつけたいものがあるんだろう?』


(ああ……あるとも)


 作家の悪魔が、自信作を滅茶苦茶にされたことへのやりきれなさを兄妹に託したように。それを受けた兄妹が、島に閉じ込められたことへの鬱憤もまとめてぶつけたように。ユウジにも、悪魔に叩き付けたい――否、叩き付けなければならないものがあった。自分がされたことに対するものもそうだが、それ以上に、


(俺はこいつに伝えなきゃならない……)


 突然日常を奪われ悪意の幻想に落とされた、罪なき人々の怒りの叫びを――


(みんなの代わりに……俺は!!)


「おぉおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」


 黒き虹が勢い付く。勇者の怒りを乗せ、人々の声無き嘆きと憤りを体現して。


 紅き薔薇を、猛烈な速度で喰い潰していく……!!


「馬鹿な……我が奥の手をこうも容易く……!?ぐぅううう!!」


 対するフラウローズもまた限界まで魔力を振り絞り、放出する花弁の量を上乗せするが、


(抑えきれな――ぁッ!!?)


 次の瞬間には、悪魔の身体を黒虹が包み込んでいた。


「ぐぅおアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!?」


 絶叫がほとばしり、悪魔の身体が焼き尽くされていく。それと時を同じくして、偽りの空が大音響を発しながら砕け散った。


 幻影の奥から現れた抜けるような蒼穹あおぞらの下で、黒き虹が細く消え去る。既に悪魔の身体は首から下が燃え尽き、残った犬頭もまた、端から散華するように赤い花弁と化して消滅していく。


「同志たち……よ……私は先に……逝く……魔王様に…………えぃ……ぅ……ぁ………………れ」


 それが、魔王軍序列69位『迷幻』のフラウローズの最期の言葉となった。


 1拍遅れて、赤みが差す深緑色の真球――魔晶と、クロの突き刺した幽冥穿杭アストラル・パイルが、砂の上に転がった。

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