魔人兄は海を睨む
「……これはこの世の光景とは思えないな」
あれから約2時間が経過し、再び目を覚ましたクロは海に向かって身体の動作確認をしながらそう言った。イロハが処置した甲斐あってか魔力の流れは正常に戻り、左腕も既にかなり回復していた。
「やっぱり!おかしな色よね?海はずっと青いんだって思っていたもの!」
その言葉に、手近な岩に腰掛けて脚の筋肉を解していたイロハは、我が意を得たりとばかりにそう叫んだ。
兄妹の視線の先にある、海。しかしその水は見渡す限りきらびやかな乳白色に染まっており、時折波間で7色の光がキラキラとはじけている。
異常は海だけではない。空もまた、覆い被さって来そうな重苦しい鈍色の雲が全体に広がっているにもかかわらず周囲は快晴時のような明るさで、雲間にはやはり極彩色の光が見え隠れしていた。
一見すると、神話にでも描かれていそうな神秘的とも言える光景。しかし、クロはどちらかと言えば、毒虫のサイケデリックな警告色を見せられているかのような、そんな不快感を覚えていた。
そして更にもう1つ。
「イロハ、気付いているか?」
「……この、濃密な魔力の気配?」
振り返った兄の問いに、イロハは即答する。
島の全域を、魔法使い数十人分に匹敵する大量の魔力が包み込んでいた。最早この島そのものが魔力によって形成されているのではとすら錯覚してしまう程だった。
「その通り。なんともキナ臭いとは思わないか?」
土地自体に魔力が含まれているということはそんなに珍しいことではない。星脈の付近などではよくあることである。しかしそれを加味してもこの島は異質だった。如何に星脈の影響が強い場所であろうと海の色は変わらないし、そもそも空まで影響は及ばない。
クロはサンプルを回収するべく、上着の胸ポケットから試験管を取り出し、波打ち際の水面に差し入れた。
ところが、海を形作っている乳白色の液体は試験管の中にたまらない。水を汲む際に発生する気泡や波紋も現れない。
クロが眉をひそめながら試験管を取り上げると、試験管の表面に付着していた乳白色の液体は見る間に色を失い、やがて完全に消滅してしまった。
「にぃ様、これは……?」
ストレッチを終えて駆け寄って来たイロハが、クロの手元を覗き込んで息を飲んだ。
「思ったより、事態は深刻かもしれないな……」
試験管をしまい直し、クロは水面へ自分の手を直接浸した。
伝わって来たものは明らかに水の感触ではない……それどころか、何かに触れているという感覚すら、クロは感じることが出来なかった。
「これは液体……いや、そもそも
クロは立ち上がりながら水平線を見つめる。その目には既に、凪いだ海原が毒虫よりも尚おぞましい何かのように映っていた。
「全て、まやかしだ」
「そんな……でも私、確かにここから上がって来たのに……」
困惑しきった表情で、イロハはクロの顔を見上げる。上陸直前までは間違いなく普通の水の中にいたと、彼女は確信を持って言えた。
「それはわかっている。お前を疑いはしないさ。おそらく、ここへの上陸をトリガーとして、正常な海がこの虚無の海へ切り替わったんだろう。そうでもなければ説明がつかない」
クロは島の内陸部へ険しい視線を向けた。砂浜の幅は100メートルもなく、すぐに深い森への入り口が見える。その奥には不自然な程に濃い闇が広がっており、先を見通すことが出来ない。
「……何者かの、作為を感じる」
「まさか施設の……?」
「いや、それは考えにくいな」
不安げなイロハの言葉を、クロは即座に否定する。施設の追手は魔人1号の遺跡突入まで兄妹の行方を把握していなかったはずであり、先読みして罠を張るにしても、確実さに欠ける状態でこの規模の魔力を使うのは非効率的だと考えたからだった。
「おそらく、この島は我々とは無関係に創られ……あるいは今の形に変えられた。そこへ偶然上がって来てしまったということだな」
「じゃあ、誰が何の目的でこんな大掛かりな……」
クロは再び海――否、海のフリをしている乳白色の虚無を睨む。
「
「それじゃ……私たちも……」
「閉じ込められたと考えるべきだな」
クロが忌々しげに目を細める。今の状況は、虜囚となんら変わりなかった。なまじ直接的な拘束ではないせいで
そんなものが、看過出来る訳がなかった。
「……いいだろう。
「にぃ様……!?」
心配そうに兄の顔を見つめていたイロハは、その瞬間、思わず息を詰まらせた。
「何処の誰かは知らないが……その思惑、破綻させてやろう……!」
その時のクロの瞳は、まるで煌々と燃え盛る恒星のような、核熱の光に満ち溢れていた。
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