魔人1号は夢を見る

 意識がはっきりしない。


 淀んだ泥濘に浸かっているような、不快な温もりが全身を覆っている。左腕と背中に焼きごてを当てられたような激痛が走り、そこから何かが抜き取られていくような、奇妙な感覚を覚えていた。


 “少年”には、その痛みに覚えがあった。


 まだ少年が魔人になる前、帝都のスラムにいた頃。物心ついた時には既に親は無く、生きる糧を自力で得なければならなかった。


 餓死した遺体に集る蝿を食べたこともあった。濁った水を飲むことなど日常茶飯事だった。


 その内少年は、盗みを働くことを覚えた。


 昼は死にかけの幼子のフリをしてフラフラと彷徨いながら闇市に集う人々の持ち物をスリ取り、夜は闇夜と小さな身体を利用して身を隠しながら戸締まりの甘い家を渡り歩いた。


 だがそんな日々も、少年が7歳の時に終わりを迎えた。


 財布を掠め取った相手が、スラムでも指折りの犯罪組織の長だったことが運の尽きだった。少年は当然犯行に気付いた長の部下に袋叩きにされたものの、長が自分から財布を盗み取った彼のスリの腕を評価したことで、半ば強制的に長が率いる組織の下っ端として組み入れられた。


 こうして少年は一命を取り留め、雨風をしのげる場所も手に入れた。しかし、引き換えにそれ以外の全てを失った。


 苦労してスリ取って来た物品や金銭は組織全体の糧として全て取り上げられ、以前のように自由に使える物、食べられる物が手元に残ることはなかった。食事は与えられたが、下っ端に供されるようなもののグレードや量などたかが知れていた。


 その上、位の高い構成員たちはしばしば下っ端へ暴力を振るうことがあった。大抵ターゲットにされるのは、少年同様雑用や軽犯罪のために集められていた浮浪児たちだった。『昼飯の肉が不味かった』だの『どこそこの娼婦のサービスが悪かった』だの、些細な理由で浮浪児たちは虐げられた。特に理由も無く火の点いた葉巻を押し付けられたことさえあった。犠牲者が痛みにのたうちまわる様子を見てゲラゲラ笑っていた構成員の下卑た顔を、少年は未だに覚えている。押し当てられた熱の塊による激痛も、また。


 そんな生活が続いたある日、少年の人生に2度目の転機が訪れた。12歳になってから半年程が過ぎたある満月の晩だった。


 きっかけは構成員の誰かが殺人のをおざなりにしたせいらしいが、詳しいことは未だに不明のままである。ともあれ、情報を握った帝都の騎士隊が本拠地に突入してきたことで、長く続いたこの犯罪組織の命脈はあっさり絶たれた。


 生き残りの構成員たちと共に縄を打たれ、少年は帝都のとある地下施設へと連行された。それぞれが別々の小部屋に押し込められたが、独房という赴きの部屋ではなかった。その妙にツルツルとした内装は、どちらかと言えば、実験室と言った方がしっくり来そうだった。


 やがてぞろぞろと魔術師や研究者らしき人々が部屋に入って来て、用途がよくわからない器具を並べていく。そして最後に虹色の液体が入った注射器を手にした初老の男が、こう告げた。


『それでは、第1次融合実験、1000例目を開始する』


 そうして、虹色の液体が少年の胸に注射された。


 瞬間、痛覚がショートした。


「――――――――――ァ!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


 心臓の上部を中心としてあっという間に全身を責め苛み始めたその痛みを形容する言葉を、少年は持ち合わせていない。これまで発したこともないような絶叫を上げながら、床の上で激しく痙攣すること以外、少年に出来ることはなかった。


「――――ァ!!―――ガァ、ギ――――――!!!!!!!!!!!!」


 何故自分はこんな目にあっているのだろう。焼き切れそうな脳髄の奥から浮かんで来たのは、そんな疑問だった。まともな人生を歩んで来たとは思っていない。これまでに何度も手を汚して来た。これはその報いなのか、と。


 だが、


 だが。


 これが生存するために犯した罪への報いだと言うのなら、自分には“生きる”というただそれだけのことさえ許されないということなのか。


 その考えが浮かんだ瞬間、少年の中に生じたのは怒りの感情だった。


(ふざけるな……)


 いつの間にか、目の前には巨大なあぎとがあった。人間など容易く呑み込んでしまいそうなそれは、光を透過する結晶で出来ていた。グルルルルルル……と唸るような声を出しながら、金色の眼光で少年の顔を睨み付けている。


 ああ、こいつはこれから俺を喰らう気だな、と、少年はそう直感した。俺を喰らい尽くして、俺の存在を完全に抹消するつもりだな、と。


 それが、少年の心の中のいかりへと油を注いだ。


(ふざけるな……!)


 気付けば、少年は立ち上がっていた。自身を苛む痛みさえもまとめて心の炎にくべ、自分を睨み付ける異形を逆に睨み返す。


「てめぇなんかに――」


 奥歯を砕かんばかりに歯を食い縛り、内から湧き上がる灼熱を左の拳に込めて、


「“俺”を否定されてたまるかよ!!!!!!」


 放たれた正拳が、竜の顎を粉微塵に打ち砕いた――




◼️◼️◼️◼️◼️◼️




 そこで、魔人1号は目を覚ました。酷く懐かしい夢を見ていたような気がした。


 跳ね起きようとした所で右肩に痛みが走り、左の手でそれを押さえる。


「あ?」


 そこで、彼は切り落とされたはずの左腕がしっかりとあることに気がついた。とはいえ、元々は人間の腕が結晶の鱗に覆われたような形状だったそれは、今や完全に蒼白の結晶で形作られた竜の腕へと変じていた。


(何だか……ゴツくなったなぁ……)


 ナイフのような鋭さの長い爪をマジマジと見つめながら、魔人1号は呆けたようにそんなことを考えた。


「目が、覚めたようだな」


「ハウルのおっさん……」


 不意に降って来た声に視線を向ければ、クリップボードを持ったハウル・クーゲルダインがベッド脇に立っていた。そこで初めて、魔人1号は自分が施設の医務室にいることに気付き、そして事の次第を悟った。


「悪ぃ。大口叩いておいて情けねえ話だが……しくじった」


「何、落ち度ならこちらにもある。彼らの能力を計りきれていなかった。あまり気に病むな」


 バツが悪そうに目を逸らす魔人1号の肩へ、ハウルは労うように手を置いた。


 魔人1号が遺跡へ突入した後、施設の部隊は入り口の周辺を取り囲むように待機していた。魔人1号から兄妹発見の報が届き、20分が経過しても魔人1号が戻らなければ追って突入するという作戦になっていた。


 そうして内部に入った部隊が見たのは、巨大な空洞の遥か底、崩落した岩盤の上で気を失っている魔人1号の姿だった。


「幸いにして、彼らが逃げた先は見当がついている。今は再度更新された脅威レベルに乗っ取って追跡部隊の再編中だ。お前はしばらく安静にしているが良い。何しろ、魔力暴走の痕跡があったのだからな」


「暴走……?」


 魔人1号は再び左腕に目を落とす。


「こいつは切り落とされたはずなんだが……こんなことになっているのはそれが原因か?」


「詳しくは診断結果を待つしかあるまいが……私はその可能性が高いと考えている」


 ハウルはクリップボードをサイドテーブルに置くと、踵を返した。


「一先ずの簡易的な検査結果だ。目を通しておくように」


 ではな、と残して、ハウルは医務室から立ち去った。


「…………」


 魔人1号は大きく息を吐くと、背中に力を込めた。小さく折り畳まれていた翼が展開する。


 こちらもまた左腕同様、形状が竜のものに近付いていた。次いで彼は、左側の視界にも違和感があることに気付いた。左腕に映ったそれも、やはり竜の瞳と化している。


 否応なしに、1つの想像が魔人1号の脳裏を過った。


“自分は竜に近付いているのでは”という。


「……どうでもいい」


 彼はそれを鼻で笑い飛ばすと、翼を畳んで再び上体を横たえた。


(それで陛下の……役に立てるのなら……)


 異形の左腕を光にかざし、彼は拳を硬く握り締めた。
















◼️◼️◼️◼️◼️◼️




『おめでとう、キミは見事に勝ち取った』


 朦朧とする意識の中、少年はそんな言葉を聞いた。


 少年の全身を責め苛んでいた痛みは消え去り、代わりに左腕と背中がひきつるような感覚が残っていた。


『私かい?私はただの研究者だよ。今はまだ、ね』


 声の主は少年の目の前で立て膝を突いているようではあったが、その顔は霧がかかったようではっきりと伺い知ることは出来なかった。


『さて、キミにはこれから第2の人生が待っている。私の元で働きなさい。少なくとも、法を侵す日々より数段マシな生活を約束しよう』


 その提案は、少年には天使の囁きのように聞こえた。


『自分は生きていていいのか、だって?おかしな事を聞く。キミはたった今、その生への渇望によって魔晶をねじ伏せて見せたばかりだと言うのに』


 声の主が立ち上がる気配がした。少年は顔を上げてそれを追おうとしたが、そのための力は身体に残っていなかった。


『それでもなお許可が必要だと言うのなら、私がそれを許そう。キミは生きていていい。いや、生きなさい。せっかく勝ち取った生存権だ。有意義に使いたまえ』


 ああ、と。


 薄れかけていた少年の意識に、その瞬間暖かな光が満ちた。


 生存することを許された。


 存在していていいと認められた。


(なら……この命は……この人の為に…………)


 暗転する意識の中で、少年はようやく手にした生きる目的を噛み締めた。

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