魔人兄妹は入浴する

「――さま……にぃ様!」


 耳元で響いた妹の呼び掛けで、クロは跳ね起きた。寝起き直後とは思えない程息が上がっており、額を拭えば手の甲にじっとりと汗がまといつく。


「凄くうなされてたみたいだけど……大丈夫?」


「……ああ、問題ない。少々夢見が悪かっただけだ」


 心配そうに眉根を寄せるイロハの言葉で、クロは大体の原因を理解した。『破綻』の悪魔との邂逅は、どうやら悪夢に分類されるらしい。


「お前は眠れたか?」


「うん、疲れも取れたみたい」


 イロハはしばらく前から目覚めていたのか、既にシーツ代わりにしていた隠遁の外套ヒドゥン・クロークを片付けて、部屋にあった椅子の背もたれに掛けていた。


 クロも起き上がって自分の外套を取り上げる。寝汗とおぼしきものにより湿った感触がするそれに洗浄の魔法を使い、手術衣のポケットにしまい込んだ。


「……一先ずはこの汗を何とかしなければな」


 魔力灯の光を反射する自分の腕に一瞬視線を落とし、クロは苦々しげに呟いた。施設にいた時も含め、これ程寝起きが不快なのは初めての経験だった。


 そうしてクロが自分に向けて洗浄魔法を使おうとした時、


「あ、にぃ様。それなら――」


 部屋の隅にある扉の前へ移動したイロハが手招きした。昨日は休息を優先したために確認を後回しにした扉だった。疑問符を浮かべながらクロが扉を開けると、カビの臭いがわずかながら鼻をついた。


 人の気配を感知したか、天井の魔力灯が起動し、扉の先にあった小部屋を光で満たす。そこは紛れもなく、被験体たちの部屋に備えられていたものとそっくりなユニットバスだった。


「奥はこうなっていたのか……」


「にぃ様より早く目が覚めたから、少し覗いてみたの。ある程度は『掃除』もしておいたよ」


「ありがとう」


「えへへ」


 イロハの頭を撫でながら、クロは壁際の大きなバスタブへと手のひらを向けた。見る間に大理石の浴槽がお湯で満たされていく。


「給湯設備もあるみたいだが、こちらの方が手っ取り早いだろう」


「シャワー……じゃないの?」


 湯船に手を差し入れて湯加減を確かめているクロに、横合いからイロハが問いかける。


「ん?施設あそこではこうして湯を張ったことはなかったか?」


「単にシャワーを浴びるための囲いだと思ってた」


「そうか。まあ、お湯も1日に10分しか使えなかった訳だし、無理もあるまい」


 施設ではシャワーに関しても制限があったため、そもそもお湯を張るという発想に至る者自体が少なかった。施設内で風呂のリラックス効果に言及した資料を見つけたクロは、脱出後に備えた水魔法の修練も兼ねて連日湯船に浸かっていた。


「せっかくだし、お前も入るか?世界が変わるぞ?」


 兄の提案に、イロハは間髪を入れず頷いた。




◼️◼️◼️◼️◼️◼️




 魔人たちには、兵器として運用されることを想定して、普通の人間から意図的に削られたものがいくつもある。


 例えば『殺傷行為への忌避感情』。標的に対して攻撃を躊躇うようなことがあっては問題であるため、これを削るのは当然と言えた。とはいえ全てのブレーキを取り払った訳ではないため見境なく殺戮を行うということはない。あくまで必要に迫られた時に適切に力を振るうための措置である。


 例えば『生殖能力及びそれに伴う諸欲求』。これは主に魔人の個体数を管理するための措置だが、魔人同士の交配により産まれた子にどのような影響があるかが未知数であるため、不確定要素を排除するという意味合いもあった。また、女性の魔人に限っては月経や妊娠によるパフォーマンスの低下や戦線離脱を防ぐことができるという副次的な効果もあった。


「……ふぅ」


「ほわぁ…………」


 そういう事情もあって、兄妹は限りなく自然体で、一緒に湯船へ浸かっていた。互いに一糸まとわぬ姿だが、異性の身体として意識するようなこともない。


 浴槽は長身のクロが目一杯脚を伸ばしてもまだお釣りが来る程のサイズで、縁の部分は滑らかにカットされていた。寄りかかっても背中が痛みを訴えることはない。


「ふゆぅ…………」


 クロの鎖骨の辺りに後頭部を預けながら、イロハが恍惚とした顔で空気の抜けるような声を出す。表情のとろけ具合では、リュウノタマゴタケを初めて食した時といい勝負だった。


「まったくお前はわかりやすいな」


「もうずっと浸かっていたいわ……」


 苦笑するクロに、イロハは夢心地な声色で応えた。シャワーとは違う、全身がぬくもりに包まれるこの感覚は、イロハにとって紛れもなく未知の快感だった。


「気持ちは分かるが、オススメはしかねるな。以前浸かったまま思索に耽っていて危うく茹で上がりかけたことがある。軽く死を覚悟した」


 急速に、振り返ったイロハの表情が強張っていく。


「まあ、ほどほどが一番ということさ」


 クロは浴槽の縁にもたれるようにして天井を見上げた。立ち込める湯気の奥で、魔力灯がぼんやりとした橙色の光を落としている。それを眺めているクロもまた、思考に霞が掛かってくるような錯覚を覚えた。意識を現実からしばしの間遠ざけ、思考の海に沈むのに丁度良い感覚だった。


 とはいえ今は、妹と共に入浴している状態。思索に没入して彼女を放置してしまうのも忍びない、と、クロは上体を起こしながら思考の霞を取り払う。細い腹に両腕を回すと、イロハは抵抗なくクロの胸元に背中を預けた。


 それから暫く無言のまま、兄妹はお湯の心地よい感覚を存分に味わった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る