美波律子⑧
音無の牙には、他とは違う奇妙な点があった。
それは機嫌である。
前提として、牙とは超常的な機能ながらも、その本質は機械である。
凡人の浅知恵では機械というと身近な家電製品程度の、「与えられた指示をこなす」基本の機能が想像できるが、牙というのはこれの拡大版であって、「本人の意志を感知して能力を発揮する」代物だ。
勿論、それらに不具合などはあってはならないし、あったとしてもそれは経年劣化だとか粗雑な扱いが災いしただとかの要因が大きい。
また、機械の不具合を「機嫌が悪い」と表現する者もいると思うが、勘違いしないでほしい。
私――――音無楓の言う牙の機嫌とは文字通り、人の、感情である。
(――――あぁ、気分が悪い)
顔に血が流れる。
頬と髪に血液がこびりつく、数分前に味わった気持ちの悪い感触だが、今になってもう一度味わうことになるとは。
きっと、シクスの牙で移動したに違いない。
「っ…………加茂」
正面にいるのは、美波律子とシクスよりも身長の高い、五体の軸が太い人物だ。
該当者はトエルブと加茂。
肝心のシクスが感知できないが、それは未だに美波律子の牙が発動し、お互いの「間隔」が開いている証拠だろう。
つまり、まだ終わってないわけだ。
「鳴家から、話は聞いたぞ」
「鳴家……? ――あいつ、そんな名前なの」
しばらく前から、自身の牙が他と違うことは認識していた。
鳴家――――という人物が牙の中にいること、会話こそしていないものの、牙から出る「音」を通して感じていた。
牙の中に人が――――いや、牙自体が意志を持っているこの現象、できればずっと、隠していたかった。
音を出すこの牙を扱えるのは一人だけではないこと。
つまり、音無が「音」を溜め込み、ひと月に一回放出して量を調節してきたのに対し、鳴家は未だ「一度も音を出していない」。
牙を手に入れて4年が経った。
威力は完全に未知数だ。
「――――代われってわけね」
「あぁ。 俺とシクスじゃあいつには勝てないからな」
「情けない」
「なんとでも言え」
「情けないじゃないか」
加茂が見ると、眼の前の彼女は居なくなっていた。
代わりに、そこには声だけを知っている人物が立っている。
「鳴家」
彼女の「音無の牙」という発言に誤りはなかったのだ。
事実、眼前に立つ者は見た目こそ音無そのものだが、負傷をいたわる様子はない。
別人なので痛覚が無いのだ。
「美波律子はどっちに居る?」
「言ったら殺しに行くだろ」
「はー。 いいよ、どのみち待ってれば向こうから来る」
今、美波律子は傍には居ない。
時間が経ち少々煙も少なくなったこのタイミング、加茂の牙を駆使すれば、部屋内で五感をフル活用し場所を把握できた。
「俺はこのあと、羽山宗王と戦わなきゃならない」
「だから私に戦えと? 殺しちゃ駄目なんだろ? 都合が良いね」
「そうじゃない」
Fangsが幹部たちの謀反に手を貸したのは、そもそも須藤癒乃を奪還するためだ。
彼女の牙を使って何をしようとしているのか、美波律子に聞き出さなくてはならない。
須藤癒乃、という言葉を聞いて、鳴家が眉をひそめた。
「須藤癒乃? あの娘がこのビルに居るのか」
「……? どうして知ってる」
言いながら思い出した。
加茂と加々峰がビル前でリベリオン達と戦闘を行ったその日、トエルブら別働隊により、牙対の署内から連れ出されたのだ。
その時、須藤癒乃の警護には音無がついていたはずだ。
「彼女の聞いた音はすべて私にも流れてくる。 音さえ聞ければ大まかな視覚情報は伝わってくるし、なにより私は『牙そのもの』だ。 牙を持つ者はそれだけで、相互に存在を認識しあえる。 ――――例えば、君の能力は身体強化に留まらず、五感の先鋭化や第六感、所謂センスも強化可能らしい」
相手の牙が分析できるのか。
というとつまり、須藤癒乃の牙も――――。
「あぁ。 彼女の能力は所謂『試作』だ」
「試作?」
「数ある桜の作品の中で一番から千番までの制作順を試作と呼んでる。 強さのバランスが考えられてない時期だから、滅茶苦茶な能力が多い。 ――あれはもう全て人の手に渡ったと思っていたんだが、まだ残っていたと知って驚いた」
つまり美波律子ら羽山教は、その須藤癒乃の試作の能力を利用したかったのだ。
「肝心の能力は何なんだ」
「三十二番5作目弐号機」
「……なんの呪文だ」
「牙全体の制作順、同能力の再作成回数、牙の一部改良回数。 牙の名前、識別番号のようなものさ」
彼女は汗をかいていた。
部屋が暑い訳では無い。
運動もしていない。
音無は怪我の影響で汗をかいていたが、鳴家に変わってからそれも落ち着いた。
その汗は、美波律子に対する緊張を表す汗だった。
「――――修復、さ。 全医学界への冒涜と叡智の誇示の為に創造された、万能の修理道具…………須藤癒乃の能力だ」
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