美波律子⑥

『――――例えば、手拍子1回分の音の大きさが『10』だとするじゃない?』


 トエルブらと合流するまでの待ち時間、とある一幕。

音無楓と加茂修一の会話。


『すると私の牙は、発生した音の5%、この場合0.5ポイント、音を溜め込むことができる。 放出は言わずもがな、溜めた分だけね』

『とすると、さっきのも?』

『えぇ。 私が空間把握に使う音は全部、予め溜めておいた音じゃないとだめなの』

『へぇ…………』


 加茂は疑問の表情を浮かべると、音無に向き直って聞いた。


『確か木戸さんは、結構厳しいデメリットがあるって言ってたが……それほどの牙か?』

『…………本人の前で、それ言う? ……まぁ、攻撃性のある現象を際限なく蓄積するって、理論値はかなり高いから。 多くは蓄積上限が設けられてたりするみたい』

『"みたい"って、お前は違うのかよ』

『まあね』


 音無楓は、常に何かが気に食わない、不満げな顔をしている。

ビールの一口目みたいな眉間のシワがいつ見ても張り付いていて、それは加茂も不思議に感じていた。


『私の牙はね、蓄積した音――――上限はないけれど、それを保管する場所は牙の中じゃなくて私の頭の中なの』

『頭の中……?』

『溜めた音は全部、放出するまで脳裏に響き続ける。 ……親知らず削るとき、あるじゃない、上の方の。 …………あぁ、ない? そう。 あれのもうちょっと奥、実際物理現象で振動してるわけじゃないけど、そこにずっと音が出る――――』


 音無の意識が階段方向に引っ張られた。

きっと誰かが登ってきたのだろう。

彼女は無理矢理、話を纏めにかかった。


『私の牙はどんな音を出すも自由自在。 だからだって出せる』

『…………? というと?』

『私が生きてることの証明と、居場所の把握ができるってこと。 蝿の羽音より小さい音で流すから、もしものときは牙を使って耳を澄ましておくこと。 わかった?』


 以上が二人の会話。


 これ程速く使うとは予想してなかったが、仕方がない。

加茂は目を閉じて耳を澄ます。


 きっと、物凄く集中しなければ聞き分けられないはずだ。

家鳴りの音、1階上の足音、風の音よりももっと小さいに違いない。


「む……う…………いや、つーか、あいつなんの音かも言わねぇで『私にしか出せない音』とか言いやがって……それなら今俺が聞いてる風の音だって人生で初めて聞く音だぞ…………理論上同じ音ってのは絶対出ないはずだし……」


 そもそも思い返してもみろ、初めて音無あいつと会った日の翌日、探偵事務所でのことだ。


「俺を起こしたと思ったらなんの説明もなく卜部さんに丸投げだ、製造……いや勧誘者責任ってもんがあるだろ。 それにだいたい11階でも『後で説明する』つって先に行きやがって…………」

『別に後でちゃんと教えたんだからいいじゃない』

「そういう問題じゃねぇだろ――――」


 ふっと振り向いて、誰もいないことで初めて自然に、そこに居ないはずの彼女と会話していたことに気付く。


『貴方と会話してる時って、大体説明してる時間ないのよ。 今回もね』


 確かに音無の声なのだが、出処がはっきりしないあやふやな声だ。

方角も高さも距離感も、発信源が掴めない。


 音が小さいからか?

それとも…………


「…………問い詰めるような状況でもないか。 聞こえてるんだろ? そっちはどうなってる」

『最悪。 あと5分くらいで失血死するかも』


 またどこからともなく、蚊の羽音より小さい音で彼女は述べた。


「……何があった」

『美波律子の牙は「物を開く」能力。 宣言の必要はあるけれど、おおよそ開くことができるものは何でも開ける。 防火壁、通気孔――――「間隔」だって開ける』

「間隔?」

『つまり、私と貴方、"その他大勢"との距離を何倍かに開いたわけ。 だからどれだけ歩いても壁にはたどり着けないし、声や匂いも届かない。 でも唯一影響を受けない美波律子が対象に触れれば、お互いの距離は何倍にしようと0。 触れるまで感知できないはずよね』


 つまり何か。

美波律子が攻撃を当てるその時まで、俺たちは接近に気付けないということか?


『だけど一つ、あの戦法には弱点がある』

「煙幕か…………」

『わかってるじゃない。 わざわざ煙を焚いたってことは、あれがないと闇討ち戦法はできないってこと。 恐らく、間隔を開くことは決して実質的な距離じゃないのよ。 美波律子がどう動くかはちゃんと目に映ってるはず』


 更に言うと、牙を使う前から触れていた地面だけは、そもそも開く間隔がないために自由に動けたわけだ。


『位置さえ分かれば、指向性のある音波で私が攻撃できる。 美波の作った間隔だって無限じゃないはずだもの。 貴方には――――』

「煙をどうにかしろってことか」

『そう。 よろしくね』

「別にいいんだがな、その前に――――」


 声が聞こえてからだが、少し、ほんの少しだけ違和感を感じた。

確かに今会話している彼女は音無楓に違い無いはずだが、彼女という存在の剥離した、内面上の別のなにかだ。

耳を澄まして過敏になっているからか?

これだけ遠くから、小さい声で話せば声質も変わるか。


「お前、どこのどいつだ」


 ――――結局、疑問は喉を登って出てきてしまった。

長い沈黙があった後、声は答えた。


『私が音無楓を助けてやるって言ってんだ。 見破ったのは褒めるが、今は大人しく言うとおりにしてな』

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