美波律子④

「――――『開け』」


 美波が誰ともなく呟くと、天井から白い煙が立ち込めた。

目くらまし用の濃いスモークで、他にも何か混ざっているのか甘い香りがする。


 防火壁で区切られた廊下はあっという間に煙が充満し、側の音無の姿さえ朧げに包み隠した。


(毒とかじゃ……ないな)


 視界の遮られた状況での戦闘によほど自身があるのか。


「…………」


 望むところだ。


 加茂は先鋭化した聴覚と嗅覚で、音無は反響音で地形を把握できる。

五感の一つが消えたと言って、それがハンデになるほどの障害でもない。


「右から回り込んでる、トエルブ!」


 音無が後方に叫んだ。

遅れて加茂も振り返ったが、美波の姿は捕捉できない。

音を立てずに移動しているのだろう。


 煙の向こうから、トエルブの声が聴こえた。

「セブンスが狙いか! シクス、側を離れるな――――――」


 一瞬だが、不自然な間があって、最初に加茂が訊いた。


「トエルブ?」


 声を出すのを止めた、というより言葉が途切れる感じだ。

電話越しに話しながら、いきなり受話器を置かれたときのような違和感がある。


「音無」


 気づけば、音無が隣から消えていた。

もちろん、見てなかったからと言って彼女が移動したのを感知しないはずがない。


「美波の牙……!? いや、シクスか……!」


 トエルブと音無をどこかに転移した。

確かにシクスの牙なら可能だが、なぜそんなことを?


(トエルブとセブンスは戦力にならないから遠くに逃して、音無は美波から身を守るために自身の近くに。 こう考えれば自然か……)


 しかしそれなら、加茂だって移動すればいい。


「……くそ、何にしても煙幕が邪魔すぎる!」


 とりあえず壁へ向かおうと、加茂は走り出した。


「1、2、3、……5、…………15。 ……んん?」


 ……壁が遠い。

大人2人が寝そべったくらいの幅しかなかったはずだが。方向を変えて走ってみても結果は変わらず、壁は見当たらない。


 「部屋が違う? ……でも煙はそのままだしな、違うか……」


 シクスの転移能力は発動していない。

しかしここは元居た廊下とは違う。


 となれば残された可能性は美波律子。

彼女の牙が起こした現象に違いない。


「能力の特定…………卜部さんとか木戸さんなら、もっと上手いことやるんだろうけど」


 今の加茂には何もかもがことごとく足りない。

相手を見透かす洞察力も、相手に負けない戦闘力も。

 欲しいと願った分以上に、底の知れない未知の力が彼女らにはある。

つまるところ、加茂が欲しいのは経験だ。


「闇雲に走って抜け出せる状況じゃないだろう。 それなら…………」


 狙うべきは

足裏の大理石の質感だけが、今の加茂を室内に繋ぎ止める唯一の実感だ。

これを破壊してしまえば少なくとも、濃霧の中からは脱出できるはず。


 牙の出力をコントロールし、人が通り抜けられる程度の穴を開けて降下する。


「普通……だよな」


 12階の階段前、上と構造は全く同じだ。


 つまり、先程加茂が迷った場所は確かに、13階の階段前。


「11階で見た牙に似た能力か? 部屋全体が広くなってるとか……」


 とはいえ、美波律子の態度からして足止めが目的とは考え難い。


「……卜部さんのようにはいかないな」


 加茂は肩をおろして力を抜き、牙の身体強化を解いた。

床の格子模様を見つめて考えるうち、涙が一つ、また一つ、零れ落ちた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る